自分が他の人とは違う姿をしていることがわかり始めたがいつのことだったのかは、よく覚えていない。
ぼくにとってはいつも隣に兄さんがいることは当たり前のことだったし、周りにもわざわざそのことをあげつらうことをする人もいなかったからだ。そもそも、自由に出歩ける体ではないぼくにとっては、周りの人と言えるのはせいぜいお医者さんの先生や看護師さんくらいだったけど。
でも、自分の姿がほかの――普通の人とは違うことはなんとなくわかっていた。その姿が、兄さんと腰のあたりでつながっているというこの体が、普通の人から見るとおかしなものに見えるということも。
でも、ぼくにとっては、自分の隣にいつも兄さんがいることはとても幸せなことだった。だって、自分のいちばん大切な人と、文字通りつながっているんだから。
ぼくと同じ顔をした、双子の兄さん。この世にたったひとりの、ぼくの兄さん。
そんな兄さんの声を、ぼくは聞いたことがない。話したこともない。ぼくが知っているのは、兄さんの寝顔だけ。
お医者さんの話では、ぼくたちはふたりでひとつの心臓を使っていて、その心臓はぼくの体の方にあるらしい。そして、ぼくが起きているときは兄さんはかならず寝ていて、兄さんが起きているときはぼくは寝ている。だから、ぼくは兄さんと話したことがない。
でも、兄さんとぼくとの間には確かなつながりがある。ぼくはそう信じている。だって、体がつながっているんだもの。心もきっとつながっている。
体の感覚ははっきり分かれているけれど、ときどき兄さんの感覚がわかることがある。いつだったか、開けていた窓から舞い込んできた蝶が眠っている兄さんの鼻の頭に止まったとき、見ているぼくの鼻の頭もくすぐったくなった。とても不思議な感覚だった。まるで、自分がもう一人いるかのような。
いや、もののたとえっていうだけじゃなく、兄さんは本当にもう一人のぼくなんだ。
ぼくと同じ顔。ぼくとつながった体。ぼくとつながった心。
ときどき、考えることがある。考えたくもないことだけど、ふと頭をよぎる考えがある。
もし――もし、兄さんと離れ離れになってしまったとしたら。
もし、ぼくと兄さん、ひとつの心臓を共有しているぼくたちが、どちらかしか生きられなくなったとしたら。
もし、兄さんを失ってしまうことになったら。
そういう考えが頭をよぎるたびに、ぼくは全身が怖さで冷たくなるのを感じる。自分の胸の奥に、大きな穴がぽっかりと空いたような気持ちになる。
眠っている兄さんの手を、ぎゅっと握る。
そんなことには、ぜったいになってほしくない。この感触が、このぬくもりが、このつながりが失われることになるなんて。
ぼくの兄さん。この世にたったひとりの、もうひとりのぼく。
ほかにはいらない。なにもいらない。兄さんさえ、いてくれれば。
――そう、兄さんは、ぼくの世界のすべてだった。
我がマルクト教団が擁する、実在する神「創造維持神」。
目で見て、耳で聞き、肌で感じることができるこの実在する神は、我々不完全で脆弱な種である人類すべてをいずれは救済してくれるものだと思われていた。
しかし、神は沈黙したままだった。
全人類を理想郷に導くための救いの言葉も、人の世に潜む救い主の名も、この世からすべての病苦を消しさる救済の福音も、未だその口からは語られていない。
神の言葉を得るために、我々がためらうことなく「神を暴く」という行為を選択し実行した結果……未だに神の言葉は得られてはいない。
マルクト教団本部「神経塔」、その最下層である「聖域(サンクチュアリ)」に、その沈黙の神は座している。
その神を覆っているのは、七重の特殊防護ガラス。神を守っているのではない。神から放たれる波動から、我々人間を守るための措置だ。
我々マルクト教団が擁する、実在する神「創造維持神」。
特殊防護ガラスの向こうに見える姿は、まさに「異形」という言葉がふさわしい。
「脈動する肉塊」としか形容できないそれからは特殊な波動が放射されており、それに直接触れたものに不可逆的・致命的な変化をもたらす。そのため、我々マルクト教団の教団員である偽装天使がこの実在する神に近づき、神経節(コード)を接続する際には、専用の防護服が必要だ。それでもなお、中の人間が神の放つ波動に耐えられず、精神的、肉体的な変容を起こすことは珍しくない。
このマルクト教団最深部にして神の座する場所「聖域(サンクチュアリ)」での作業に当たっている研究天使たちは、もはやまともな姿をしている者のほうが少なくなりつつある。突然大きな変化がもたらされる訳ではないが、長くここでの作業を行い、長く神に接しているものほど、その肉体や外見が変化しているのだ。その中のひとりである私もまた、両腕の皮膚が鱗状にひび割れ始めた。症状の進行が大きいものの中には、その影響が脳にすら達し、頭部が肥大化している者さえいる。
しかし、最下層での作業に従事している研究天使たちは、そうした異形の姿になってもなお……いや、だからこそ、このあまりにも危険な神の坐する場所に留まり続ける。
無論、私も例外ではない。
確かに、今の時点では皮膚の表面の異常にとどまっているとは言え、私もこの場所に長く居続ければ人間の姿とはかけ離れた――歪んだ姿になるかもしれない。
しかし、私はそれを不幸だとは思わない。ここで作業を行っている研究天使たちも、同じ思いだろう。だからこそ、私は、我々はここにとどまり続けているのだ。
マルクト教団の一員として偽翼を背負ってはいるものの、私はただの人間だ。
神は、己の似姿として人間を作ったという。それならば、異形の神の似姿は、やはり異形のはずだ。
普通の人間の姿とは異なる異形――いわゆる奇形が神聖視されるケースは世界各地に見られる。それは取りも直さず、神が異形であるからだ。
両性具有、多足多腕、半人半獣の神は枚挙にいとまがない。神の使いである天使も、人と同じ姿であるとは限らないのだ。
ならばこの異形の姿は、神に近い証である。我々はそう信じている。
では――その神の言葉を得ることのできる存在は、どれほどの異形なのだろうか。
そのH型二重体の小児を目にし、その所見を確認した際、わたしは分離手術は不可能だと判断した。
いわゆるシャム双生児の分離手術が困難であることは言うまでもない。そもそも分離手術は、両者を分離することではなく、両者を――そして多くの場合は片方を――生かすことが目的だ。分離したところで両者が死んでしまっては意味がない。
このマルクト教団内にあって、上級天使に次ぐ地位である天導天使の位階を授けられ、「ドクトル・アンゲリクス」の異名を取る私だが、万能の神などではもちろんない。すべての者を救うことなど、できるはずがない。
いや、それ以前に――。
「先生、僕はこのままでいいんです。兄さんも」
年齢には不相応にも見える落ち着いた口調で、その少年は言ったものだ。このままでいいと。
この世には、大切なものを失い、二度と手にすることができなくなった人々がいる。今、この瞬間にも、世界のどこかには自分の半身とも言える大切な存在を永久に失い、悲嘆に暮れている人々がいる。
そもそも、人は何かと、誰かと永久につながっていることなどできはしない。いや、それ以前に、永久につながっていられる相手がいる人のほうが珍しいだろう。どれほど深くつながっていると確信していた相手であっても、そんなこととは無関係に永久の別れの瞬間はやってくるものだ。
そうした人々に比べれば、この少年は、この兄弟は、明らかに幸福だと言えるのではないだろうか。
二人で一つの心臓を共有し、片方が覚醒しているときは片方は眠っている。その肉体は腰椎部で癒着し、ベッドから自力で身を起こすことはできない。
彼らは、「普通」という観点から見れば明らかにそのカテゴリからは外れるだろう。H型二重体。普通ではない体。普通ではない姿。畸形――異形。
彼らを目にした人の多くが感じるのは、哀れみ、困惑、そして嫌悪、そうした感情だろう。
しかし、わたしは彼らに対し、かすかな羨望を覚えることがある。
彼らは、この世の誰よりも深くつながっている。どんな感動的な言葉であっても、彼らのつながりに比べたらそんなものはただのお題目でしかない。わたしはそう感じる。
彼らはたしかに、普通の人間とは異なる形をしている。しかし、だからこそ、普通の人間には得られないつながりを体現できているのではないだろうか。
事実、彼らは我々マルクト教団の中でも特別だ。
マルクト教団本部である神経塔、その最下層「聖域(サンクチュアリ)」に鎮座する、実体を持つ神、創造維持神。
何者をも近づけることのないその実在する神の放つ波動に、彼らは極めて高い適性を示している。創造維持神の放つ波動の暴露環境下では、適性のないものなら短時間で肉体的変容を引き起こす。その神の波動に対して、ここまで高い適性を示した例は、ほかにはひとりだけ――マルクト教団の長である、上級天使だけだ。
若年でありながら、彼らがマルクト教団の中でも高位のグループである「コリエル・メンバー」のナンバーに12号、13号としてその名を連ねることに異論を唱えるものはいなかった。教団員たちの中に、この異形の双子が将来、上級天使を支えマルクト教団を発展させていく存在となることを疑うものはいないといっていいだろう。
無論、わたし自身も彼らには期待している。これだけ神の波動との高い適性を示しているのなら、我々マルクト教団の目指す目的を達成することが可能なのではないか、と。
すなわち、神の言葉を引き出すことが、彼らにはできるのではないか。
我々マルクト教団は、実在の神である創造維持神を擁していながら、未だに神の意志、神の言葉を賜ることができてはいない。神はただ、静かに座しているだけ。
そんな状況下で、神の意志を得ることは我々の急務となっていた。しかし、その方法がわからない。
神の御心を人々に伝えてくれる救い主は、未だ現れてはいない。わたしは、この双子が、その異形ゆえに神の言葉を得られるのではないかと、そう期待せずにはいられない。
実在する神を擁するこのマルクト教団とて、やはりというべきか一枚板ではない。
我々コリエル・メンバーは、教団のリーダーである上級天使に次ぐ地位にありながら、上級天使とは創造維持神に対するスタンスを異にしていた。
我々コリエルは、神に神経節(コード)をつなぎ、神の言葉を、その真意を探ることを目的としてきた。しかし、その方法はあくまで外部からのアプローチに留められていた。それはもちろん、人類が初めて接触する実体を持った神という存在に対して可能なアプローチがいまだ限られていることが大きな理由だ。
しかし、それ以上に、我々コリエルはこの実在する神、創造維持神という存在に対して畏れを感じずにはいられないのだ。
これは、本当に人が触れても良い存在なのか?
マルクト教団内において上級天使に次ぐ位階となるコリエル・メンバーの2号という地位にあり、創造維持神に関する情報に多く触れる機会のある私ですら、そう思わずにはいられない。
創造維持神は、世界の「歪み」を吸収し、修正して吐き出すという機能を持っている。しかし、世界はいまだすべての病苦が取り除かれた理想郷ではない。
この事実を、我々コリエルは一貫して「ある程度までの歪みは、人と世界にとって必要である」と認識していた。
しかし、現実に世界の歪みは「ある程度」といったレベルをとっくに通り越している。
ネットを始めとするあらゆるメディアには、連日「異形」と呼ばれる怪物による殺人事件の報道が飛び交い、安全レベルゼロに指定された立入禁止エリアである「ゼロ地区」は日々拡大を続けている。
さらに、社会には「バロック」と呼ばれる広汎性精神疾患が蔓延し、強固な妄想に囚われた人々が続出。その妄想を原因とした殺人や自殺も珍しくはなくなってきていた。
――実在する神がいて、いまだ世界には歪みが満ちている。それは紛れもない現実だった。
だからこそ、今回の教団内会議での上級天使の発言に、我々コリエルメンバーは困惑を示しても反論はできなかった。
「――もう一度言う」
コリエルメンバーの列席するテーブル、その上座に腰を据えた上級天使は、ゆっくりとまだ困惑の波が収まらないコリエルメンバーを見回した。
その紅い瞳の奥には、いったいどのような思惑があるのだろうか。
「実在する神である創造維持神を擁する我々マルクト教団は、神の真意を、その言葉を得ることを目的とした宗教団体だ。ただ盲目的に神を信仰し、救済を期待するのだけではない」
「ですが……!」
反論しようとしたコリエルを目顔で制し、上級天使は続けた。
「神は神聖な存在だ。かつてはそれを疑うこと、暴こうとすることは不敬とされていた。冒涜だとも。だが、我々は違う。ただ神の言葉を座して待つのではなく、神の言葉を自ら引き出さなくてはならない。にも関わらず――」
言葉を切った上級天使の紅い視線が、コリエルたちを睥睨する。
「神は沈黙したままだ。そして、実在する神が発見されてなお、世界は理想郷とは程遠い状態だ。『ある程度までの歪みは、人と世界にとって必要である』、それが諸君らコリエルの一貫した主張だったが……」
上級天使は、脇に静かに控えていた天導天使を促す。天導天使が会議室のスクリーンのスイッチを入れると、そこにはいくつかの画像が表示された。
なにも知らないものが見れば、それがなんなのか判別することは不可能だろう。しかし、コリエル・メンバーである我々にとっては、それは見慣れた、見慣れてしまったものだった。
夜の住宅街をのし歩く巨大な胎児、立入禁止の金網の向こうにうごめく得体の知れない肉塊、アスファルトの上で細切れにされいる大量の肉片。
異形だった。何も知らないものが見れば、合成写真か映画の撮影か何かだと思うだろう。しかし、この怪物の存在は現実で、実際に異形に襲われて死んだ人間も公表されていないだけでかなりの数に上りつつある。遊び半分でゼロ地区に足を踏み入れた若者が、人間の姿を留めないような姿で発見される死亡事件は「グログロ殺人」の名前で、すでにネットをはじめとする各種メディアを騒がせているのだ。
「この現状を、諸君らは『ある程度までの歪み』と認識しているのか?」
「……我々コリエルメンバーも、それは認識しています」
コリエル・メンバーのリーダーであるコリエル1号が、静かに答えた。
「だからこそ、神への接触は慎重になるべきだと我々は考えています。適切な順序(プロトコル)を踏まない性急な神への接触や干渉は、それこそこれ以上の歪みを引き起こす原因にもなりかねません」
「その『適切な順序』とやらで神の言葉を賜るのに、どれほどの時を要するというのだ? 今この瞬間にも、異形に殺されている人々がいる。己の妄想で狂っている人々がいる」
「……」
「猶予は、もはやないぞ」
事実だった。このまま手をこまねいていては、神の言葉を賜る前に人の世が終わりを告げることも十分に考えられる。
それを誰よりも理解しているからこそ、ここに集まっているコリエル・メンバーは沈黙するしかなかった。
その重苦しい沈黙を破ったのは、上級天使だった。
「なにも、神に接触する手段がひとつでなくてはならないという決まりはない。目的が同じなら、そこに至るまでの手段は複数あっても問題はないだろう」
「なんですと?」
コリエル1号が、思わず声を上げた。
上級天使の発言の意図を理解できたものは一人もいなかった。しかし、上級天使は困惑する我々に構うことなく言葉を続ける。
「神が実在していながら、この世にはいまだ歪みが蔓延している。それどころか、歪みはますます広がるばかりだ。諸君があくまで神の言葉を待つというのなら、私はそれを止めはしない。だが、こちらはこちらで、マルクト教団の長としてやるべきことを行う」
「何をすると……言うのです?」
「神が実在していながら、この世は歪みに満ちている。ならば、神もまた歪んでいるのではないか?」
今度は沈黙では済まなかった。反射的に席を蹴って立ち上がった者すらいた。
「な……神を疑うというのですか!?」
「馬鹿な! なんということを!」
私はと言えば、言葉にもならないうめき声を喉元につまらせるのが精一杯だった。考えもしなかった言葉だったからだ。
神もまた歪んでいる? つまり……神が実在していながらこの世に歪みがなくならないということは、そもそも神の持つと考えられていた、世界の歪みを吸収し修正して吐き出すという機能になんらかの障害があるというのか? 神でさえ、完璧ではないと?
その場の誰もが困惑を明確な反論にすることができないでいた。上級天使はさらに続ける。
「神が持つ、世界の歪みを修正するという機能が正常に働いていないというのであれば、その機能を修正しなくてはならない――そう。我々が、神の機能を修正するのだ」
今度こそ、その場にいる上級天使と天導天使以外の全員が絶句した。考えもしないことだった。
神を、修正する? 人間の手で? そんなことが可能なのか? いったいどうやって? いや、そもそもそんなことが、そんなことが許されるのか?
絶句している我々をよそに、上級天使は続ける。
「我々は従来の宗教組織とは違い、神を崇めるだけではなく、神を守ることをも目的としている。ならば、神が正しく機能していないのなら、神が病んでいるというのならば、それをも癒やすことが我々のやるべきことだ」
すべてのコリエル・メンバーが言葉を失っていた。
そのまま会議は終わり、上級天使と天導天使は退室していった。
我々だけが残された会議室は、重苦しい空気に沈んでいた。
「1号……我々は……」
誰かがそこまでを口にしたが、そこから先は言葉にならない。
だが、誰かが沈黙を破ったおかげで、静寂が張り詰めていた会議室は一転して騒然となった。
「上級天使はいったい何を考えているのだ!? 神を修正するなどと!」
「神ですら不完全な存在だというのか!?」
「あれは事実上脅しだぞ! 我々が世界に蔓延する歪みを解消できなければ、上級天使が直接創造維持神の接触に介入してくるつもりだ!」
このままでは、遅かれ早かれ上級天使の一派と我々コリエル・メンバーによる教団内の内部分裂が起こるのは確実だ。いや、ついさっきの上級天使の言葉は、すでに我々コリエルとの断絶の意思と言っていいだろう。
我々が創造維持神の言葉を得られなければ、上級天使が創造維持神に……人間が神に直接的な介入を行うことになる。我々コリエルにとって、それは決して許容できないことだ。
「上級天使がどのような方法で神に介入しようとしているのかはわからん。しかし、猶予がないことだけは明白だ。もはや我々に、手段を選んでいる余裕はないのかもしれん」
重苦しいため息とともに、コリエル1号が言う。
事実、そうだろう。上級天使による創造維持神への介入、つまり人間による神への直接的な接触は、神を冒涜する行為にほかならない。さらに、直接的な介入によって創造維持神の機能が大きく損なわれる危険性も大きい。実在する神を失うことは、我々マルクト教団にとって、いや、人類にとってどれほどの損失になることか、想像もつかない。
1号の言う通り、もう手段を選んでいる場合ではない。どのような手段を持ってしても、上級天使に先んじて神の言葉を得なくてはならない。
だが、「手段を選んでいられない」とは言うが、そもそも我々は神の言葉を得るための手段を選ぶほど持ってはいない。手段を選ぶ以前に、選ぶべき手段が見つかっていないのだ。
こんなとき、普通なら神に祈るだろう。しかし我々の知るその神は、沈黙を続けているのだ。その口からは、神の言葉を得る方法が語られることはない。
その代わりに――。
「手段は……あるのだ」
その言葉に、その場の全員がコリエル1号の方を向いた。
神の言葉を得る方法は、人の口からもたらされた。
マルクト教団において、神の言葉を得ることは最大の目的であると同時に、未だ達成できていない目的でもあった。
しかしそれは、これまでマルクト教団内において、失敗に終わったとは言え神の言葉を得るために試行錯誤してきた記録があるということでもある。
そのすべてが失敗に終わっているとは言え、そこから新たなヒントを得られる可能性はある。我々コリエル・メンバーがそう考えたのは当然のことだった。
しかも、教団内において上級天使に次ぐ位階にある我々は、通常の偽装天使よりもはるかに深い部分にあるデータベースへのアクセス権を持っている。にも関わらず、我々は結局一度も神の言葉を得ることはできなかった。データーベースの隅々までを検索しても、有効な方法は見つからなかった。
当然だ。本当に有効な方法は、すでにデータベース上からは消去されていたのだ。人体実験を伴う、禁術として。
それについて知っているのは、教団の最古参である、コリエル1号のみだった。
神が言葉を語らないのなら、神の言葉を人の口から語らせれば良い。
「ダァバール融合」と呼ばれるそれは、神と人を禁術によって融合させ、融合した人の口から神の言葉を得るという手段だった。
それが、1号がコリエル・メンバーのみを招集した緊急会議で告げた事実だった。
「だが、皆も知っての通り、ダァバール融合実験は一度として成功してはいない。死亡、発狂、異形化……被験者のすべてがそうした末路を辿った。故に、ダァバール融合は禁術とされたのだ」
「だが、もはやそれしか創造維持神の言葉を得る方法は残っていない……と」
私の言葉に、コリエル1号は重々しくうなずく。だが――。
「これは、あまりにリスクが大きすぎるのではありませんか? 第一、そのような危険な人体実験のための被験者を、いったいどうやって見つけるというのです?」
「見つけるまでもなかった。過去のダァバール実験の被験者は、全員が志願してきた者だったのだ」
「なんと……」
私だけでなく、その場にいる全員が言葉を失うほかなかった。言葉を失った理由はまちまちだっただろうが……。
「もはや手段を選んではいられん……いや、もはや選べる手段はこれしかないのだ。でなければ、上級天使がわれわれに先んじて創造維持神に接触し、致命的な問題が生じる危険性がある。最悪の場合――」
「……」
「上級天使が、創造維持神を支配してしまうことすら考えられる……」
やるしかない、ということはその場の誰にも明らかだった。
今思い返せば、その日からだったと思う。我々の中のタガが、ひとつ外れたのは。
それもまた、歪みのひとつだったのかもしれない。
だが、神ですら歪んでいるというのなら。
どうして人が、歪みから逃れられるだろう。
実在する神、創造維持神の座する、神経塔最下層「聖域(サンクチュアリ)」。
大規模な改装工事の後そこに現れたのは、聖域の名に似つかわしくない無骨な設備だった。
創造維持神を囲む七重の防護カラスを突き抜けて、無数の神経節(コード)が伸びている。そのさまはまるで、異形の母体から伸びる臍帯のようだ。
そして、それらの神経節は、よじれ集まって最下層の天井、むき出しの岩盤部分に突き刺さっている。
「聖域(サンクチュアリ)」の直上、最下層直前のフロアに、その設備は設置されていた。
フロアはまるまる岩盤がくり抜かれ、直下から伸びた神経節(コード)はその床に直結している。そしてフロアの中央には、空間の広さに似つかわしくない、人ひとりが身を横たえられるだけの大きさの金属製のシートが設置されている。そのシートにも無数のケーブルが接続されており、まるで拷問器具のように見える。
「ようやく完成したか……」
そのさまを、フロア情報に設置されたガラス張りの監視室から、我々は眺めていた。
フロア中央に設置されている装置は、その下に位置する最下層から伸びた神経節(コード)で、創造維持神と直結されている。
これが、神の言葉を人の口から得るという「ダァバール融合」を行うための装置だ。
この装置が、生贄のちで汚れ続けるための祭壇となるか、神の言葉を賜る神殿となるか、それは誰にもわからない。
「1号、我々は本当にこれで良かったのでしょうか? 神の言葉を得るためとは言え、一度は禁術として封印された方法を使うなど……」
隣に立つ1号にだけ聞こえる声で、私はそう言わずにはいられなかった。
「2号よ……もはや方法はこれしかないのだ。このまま事態を放置することこそ、我らコリエルの、ひてはマルクト教団の目的と意義に悖ることとなる」
そう言いつつも、1号の表情は苦渋を隠しきれていない。
無理もないことだ。コリエル・メンバー内ではもちろんのこと、マルクト教団内の最古参のメンバーである彼だけなのだ。過去のダァバール融合実験がどのような結果を招いてきたかを体験として知っているのは。
彼の苦しみを共有できるものは、ここには誰一人としていないのだ。
そして、さらに彼を苦しめている事実がある。
監視室のガラス越しに下を見下ろせば、偽翼をおろした偽装天使が、中央のシートに身を横たえている。
装置の周辺では、研究天使たちがケーブルの接続や機器の調整を行っている。
この危険性の高い実験の被験者を、いったいどうやって見つけたのか。
ダァバール融合実験のための設備を構築することよりも、実験の被験者をどうやって見つけるかのほうを、我々は問題視していた。
だが、その問題は簡単に解決した。
志願者が現れたのだ。それもひとりやふたりではない。神への信仰心を競うかのように、教団内から多数のダァバール融合実験の志願者が続出し始めたのだ。
願ったり叶ったりの状況のはずだ。これだけの志願者が集まれば、その中にはダァバール融合の適合性を示す者が見つかるかもしれない。
だが、1号にはそれが葬列に見えるのだろう。かつてのダァバール融合実験で失われてきた多くの命、それが今また、ここで失われようとしている。
だが、やるしかないのだ。
我々コリエル・メンバーによるダァバール融合実験は、こうして始まった。
「2号さま、神さまのお言葉は得られたのですか?」
いつものようにベッドに身を横たえて、ぼくは病室を訪れた2号さまに聞く。
コリエル・メンバーとしてのナンバーを与えられてはいるものの、幼少でるということで、ぼくらははダァバール融合実験には同席していない。
だから、融合実験の結果はいつも2号さまがこうして知らせてくれる。
でも、ぼくらのもとに良い知らせを届けられたことは……まだない。
今回もまた、同じ結果を告げなくてはならなかった。
「いいや……今回も、神の言葉は得られなかったよ」
「そうですか……」
ぼくには、そう答えることしかできなかった。
「どうすれば、ぼくたちは神さまの言葉を得られるのでしょうか? 毎日こんなに、コリエルのみんなが、いっしょうけんめいがんばっているのに……」
ぼくの言葉に、2号さまは沈黙で答えた。
「2号さま、ぼくが……」
「それはならぬ」
「ですが、ぼくが創造維持神の波動ともっとも高い適合値を示しているのでしょう? なら……」
ぼくがなおも言い募ろうとするのを、2号さまは目顔で止めた。
「お前には、いずれ新しい上級天使の片腕となって、この教団を支えてもらわねばならん。ここでお前を失うわけにはいかんのだ」
そこまで言われては、もう黙るほかなかった。
ぼくにはぼくの役目がある、そう言ってくれたのは2号さまだけじゃない。コリエルのみんな、そしてこのマルクト教団の人々は、みんなぼくにそう言ってくれる。みんなぼくに優しくしてくれる。
でも、その優しさがもどかしかった。コリエルの、ううん、マルクト教団のみんなが神さまの言葉を得るために自分を犠牲にしているというのに、ぼくはなにもできてはいない。
じゃあ、ぼくのやるべきこと、ぼくの役目とは……いったいなんだろう。
ぼくの価値とは、いったいなんだろう
将来には上級天使を補佐する、優秀な右腕となること?
創造維持神の波動との適合値がもっとも高いこと?
それも大切な価値で、役目だと思う。
でも……そうじゃない気がする。それだけじゃない気がする。
ぼくが知る世界はごく限られたものだ。でも、そんな限られた世界の中でも、ぼくだけがこの姿をしている。兄さんとひとつにつながった、この姿をしている。
それなら、そんな姿を、人とは異なった形をしているぼくたちにしかできない役目がきっとあるはずだ。
それがなんなのかは、まだわからない。でも――
神さまの言葉を得るためにぼくにできることがあるのなら、それこそが。
ぼくらがこの形で生まれてきた意味、僕らの役目なんだ。
きっと。