天翔る、星の爪先(あまかける、ほしのつまさき)
「ちち、これよんで」
 ナイトキャップと揃いの色をしたロンパース型のパジャマ。寝相の悪いお子さんでもお腹が出なくて安心ですよ、と薦められたのを妙に遠い記憶に思い出した。
 ん、とぐいぐい押しつけられる児童書の背表紙には分類と管理のための番号が振られてある。昼間に学校の図書館で借りてきたのだろう。表紙にはいかにも子供向けらしいメルヘンチックなタイトルが見えた。
 ハードカバーの本を受け取って、次いでロイド・フォージャーは期待に満ちた目で見上げてくる娘アーニャを抱き上げてベッドの上へ降ろしてやる。週に何度かはこうして、寝る前に本を読んでやるきまりだった。アーニャを孤児院から引き取ってほどない頃に育児書を片っ端から調べ、世の中の一般家庭ではそうした習慣を大事にする所があると学んでいる。このくらいの子供はそうして親に甘えることを覚え、愛情を注がれていると実感するのだとも。
「学校の図書館から借りてきたんだな」
「うぃ。せんせえ、よんどけっていってた」
 推薦図書というやつだろう。ぱらぱらと頁をめくっていくと割に大きめのフォント、頻繁に挿絵が挿入されており、集中力の続かない子供でも飽きにくい工夫がされているのがわかる。いわゆる『絵本』から『本』への過渡期のものなのだな、とにわか保護者の視線でも理解した。
 もそもそとベッドの中へ潜り込んでいくのを確認し、枕元のランプを点けてやってから部屋の明かりを落とす。オレンジ色の丸い光がずいぶんご機嫌なアーニャの顔を照らしていた。
 アーニャの机から椅子を拝借し、少しランプの角度を調整して文字を追うのに必要な光量を確保する。
「『Stern Tänzerin(ほしのおどりこ)』」
 ――よぞらをみあげてみましょう。
 はれたよるには、ほしがたくさん。しろいほし、あかいほし、きいろいほし。あおいほし。
 こんいろをしたベルベットのカーテンをひいて、おおきなそらのステージでほしはおどるのです。
 なんのためにおどるのでしょう。
「……なんで?」
「……さあ?」
 話の先を待っていられないアーニャに答えを急かされるものの、ロイド自身内容をまったく知らない本なので答えようがない。まして星が踊ると言われても、むしろあれは踊ると表現されるほど動かないものだし彗星のほうがよっぽど運動量がありそうだ――と、何とも我ながら夢のないことを考える。児童書の語ることに何を真面目な。
「ちち、ほしのことしらないのか」
「いいから黙って聴いていなさい……」
 むしろ動いて見えるのは主に地球の自転のせいであって、北極星を中心にして円運動を――なんて夢もへったくれもない事を言っていいものかどうか。<ロイド・フォージャー>よりも<黄昏>の名のほうがしっくり馴染んでいた頃ならまだしも。
 ふうん、と鼻を鳴らすように言ってアーニャは毛布を目元まで引き上げる。
 その大きな翡翠色の目の期待に応えるには、諜報員訓練のほうがまだ易しかったと思うことも多い。
 ――なんのためにおどるのでしょう。
 こぐまざはいいました。ふなのりにとおいりくちをおしえてあげるため。めじるしもないひろいひろいうみのうえ、まよわないように。
 おひつじざはこういいます。のうふにたいせつなたねまきのきせつをしらせるため。はるにむぎのたねをまかなければ、おいしいパンはたべられません。
 いえいえそうではありません、とおとめざはいいました。
 ふなのりにりくちをおしえてあげるのも、たねまきのきせつをしらせるのもたいせつなしごと。
 そのほかにも、わたしたちはいなくなってしまったひとのかわりに、かぞくをみまもっているのです。
 ……正直、そうきたか、と思わないでもなかった。できればその展開は避けてほしかった、と言った方が早い。児童書相手にこんな文句を言っても詮無いことだが。
 アーニャの情報は少ない。少ないと言うよりも、無い。孤児院に引き取られる前の本物の名前、正確な誕生日、出生地、なんなら実の両親の存在も。ロイド自身薄々感じつつはあるが、自己申告の六歳という情報すら本当は何の根拠もないのだ。アーニャ自身が悪意なり何らかの作為をもって出自や数字を偽るということはあまり考えてはいない(さすがに「早くどこかに引き取られたいので自分の価値を大きく見せる」というこどもらしい打算のことまで悪意と表現するつもりはロイドにもない)が、自分から自身の過去を言い出さないということはつまりそういうことだ。
 実の両親とはどのような経緯で別れたのか。アーニャ自身が覚えていない時分であった可能性は当然あるが、学業へ反映されない部分に何かと聡く賢いところのある娘だ、何もかも覚えておらず何もわかっていないはずはないだろう。
 枕に頭を預けているアーニャの様子をそっと伺うと、話の先を待っている顔をしていた。喉の奥にひっかかった重石が落ちていった気がして少しほっとする。
 そばにいてあげられなくなったひとのため、まいにちまいばん、げんきでいるのか、ないていないか、そっとよぞらでみまもっているのです。
 オリオンざはさむいきせつに。みなみじゅうじせいは、みなみのしまのあついくにで。
 ハレーすいせいは75年ごとに。
「ハレーすいせい、ながいき。きっとアーニャしんでる」
「長生きと言えば長生きか。まあ、アーニャなら頑張れば二回くらい見られるかもな」
 オレは二度も見られないだろうけど、という呟きは呑み込んでおいた。アーニャの前では言って良いことと悪いことがある。アーニャがんばればにかいめみられる、なんでちちにかいめみられない、と尋ねられなくて本当によかった。二回目どころか来年の娘の誕生日も祝えない未来を否定できない身には少々酷な質問だ。
 おなかはすいていないか、ともだちはいるのか。
 ずっとここからみまもっているよと、つたえるために、ほしはおどるのです。
 ちかちか、ぴかぴか、せいいっぱい。
 そんなとき、ながれぼしがいいました。
 では、わたしはなんのために、だれのためにおどるのでしょう。
 みんなのように、まいばんまいにち、よぞらのステージにはいられない。
 すうっとステージをよこぎって、おどっていられるのはほんのすこし。
 ながいしっぽをなびかせて、どこかからどこかへ、いちもくさんにはしっていくだけ。
 周期的にやってくる彗星ならまだしも、一瞬で燃え尽きる流れ星ならたしかにあっという間だ。
 失態を演じ両手両脚を拘束されたあげく氷点下の屋外に全身ずぶ濡れで放り出され、よく晴れた夜空の流れ星を数えて意識を繋ぎ止め生き延びたことが一度ある。子供心に聞いたのはどんな噂話だったか、たしか流れ星が消えてしまうまでに願い事を三回唱えられれば願い事は叶うのだったか。唱えられたところで叶うはずなどないことをわかっていて、しかし凍死までのタイムリミットを一分一秒でも延ばすために。<黄昏>の異常を察した回収班が到着するまで命を繋ぐために、なんでもよいからなにか動くものを数えて、と思って探したのが漆黒の夜空の流れ星だった。
 人や車など通らない、ましてや民家など数十キロは先という厳寒期の荒野。少しでも消耗を避けるため無様に転がされた姿勢のまま、インク瓶の中身のような暗い空へ忘れたころに横切る星を数えていた。
 流れ星が願い事を叶えてくれないなんて身をもって知っている。じっと目を凝らせば意外にあっさりみつかる流星が願いを叶えてくれるのならば、ロイドはこんな人生を歩んでいない。
「ちち、しななくてよかった」
「星にならなくて良かったって意味か?」
 アーニャはこうして時折、脈絡のないことを言うことがある。しかもそれが稀にロイドの内心を、ひいてはヨルの内心すら言い当てていることがあるようなので怖ろしい。子供はなにもわからないものと馬鹿にはできない、とよくよく認識を改めさせられたし反省もした。
「ちちがほしになったらアーニャなみだでる」
 話の先をせがんでいたあの目はどこへ行ってしまったのか。本から視線を移せば、翡翠の瞳は潤んでいる。
「ほし、ほんよめない。ココアつくってくれない」
「そうだな」
「ははだってさみしがる。ボイドもそう。アーニャそんなのいやだ」
 もし自分がいなくなったとしてもヨルが読んでくれるしココアだって、と迂闊なことを言わないでおいて本当によかったと内心胸を撫で下ろす。少しこの本はアーニャには早かったようだ。しかし選んできたアーニャが悪いわけでもないので、こどもらしい細く柔らかい髪を撫でてやる。
「みんなずっといっしょがいい」
 ここで何と言ってやれば、自分の想像に逆に不安をかきたてられてしまったこどもの涙を止めてやれるのだろう。世の中の保護者というものは、どこでそんな魔法の言葉を学んでくるのだろうか。諜報員訓練ではそんなもの学ぶ機会はなかった。美人局の手練手管やハニートラップの回避手段はたっぷり仕込まれたのに。
「ほしになるのはだめだ、ちち」
「そうだな」
 死ぬことはないと、星になることなどありえないと、約束することはできない。
 嘘など息をするように吐いてみせるのに、この時どうしてもアーニャを安心させるための嘘は言えなかった。言えば逆にその死が確定してしまうような気がして。確約できもしない約束を軽薄に、という報いが予期せぬ不意の死になって降りかかってきそうで怖ろしかった。
 自ら死ぬような真似はさすがに御免だが、それとこれとは話が違う。アーニャはロイドに、自らを火にくべるような死を選ぶ権利すら禁じているのだから。
 子供の言うことになぜこんなにも、と思わないでもない。諜報員失格だとさえ思う。いつから<黄昏>の刃はこんなにも鈍くなったのだろう。こんなていたらくで情けないと心底思いはするが、不思議と後悔は全くしていないのが我ながら笑ってしまう。
「ずっといっしょに、いる――」
 目尻から涙の線をひとすじ引いて、アーニャは寝入ってしまったようだ。小さな子供は皆そういうものだと思っていたが、どうやら娘はヨルやロイドから頭を撫でられることをことのほか喜ぶ。場合によっては、ココアで機嫌を直してくれなかった時すら絶大な威力を発揮するほどには。
 朝までに、自分がいなくなる不安にかられて泣いてしまったことを忘れてくれていれば良いが。
「約束、なあ」
 あんなにも簡単に吐けていた嘘なのに。なんなら結婚の約束さえぺらぺらと、疑問を抱かせることもなく信じ込ませてきたこの自分が、子供相手に果たせなくことを心底恐れて怯えている。――そう、恐れているし怯えてもいる。任務のためだけの偽装家族がこの手の中から失われることをこんなにも。任務のためだけの表向きの娘のはずだった子供にこんなにも懐かれて、嬉しい、とさえ思ってしまっている。
 諜報員としての務めと、父親としてのそれが衝突するとき、果たして自分はどちらを選ぶのだろう。いや、選べるのかすらわからない。絶対に回避しなけらばならないのは、衝突した結果どちらも選べないままの死である、ということは理解しているが。
「約束してやれれば良かったのにな……」
 すっかり寝入っているアーニャの寝息だけが聞こえる。丸くかたちの良い額をナイトキャップの下に仕舞ってやってから、ロイドは手元の本へもう一度目を落とした。
<終>
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スパイの父と殺し屋の母と超能力者の娘の漫画の二次創作
初公開日: 2022年06月29日
最終更新日: 2022年06月29日
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