ある穏やかな午後の話だ。
ザクロ寮の自室に響く物音は少ない。夏の足音が聞こえてくる蒸し暑さの中、両開きの窓を大きく開けている。心地よい風が吹き込んで、白いレースのカーテンを揺らした。
ふと鼻先に触れた微かな火薬の匂いに顔を上げると、向かいに座るマークスも同じように窓の外を眺めていた。
「……古銃だと思う」
「匂いで分かるの?」
「ああ。俺たちとは構造が違うから」
「そっか」
会話は短く切り上げられる。お互いに特別口数が多いほうではない。静寂が肌に馴染むほど、マークスとの時間は穏やかなものだ。
私は改めて手元に視線を落とした。分解されたUL96A1のパーツ。クリーニングロット。いつの間にか習慣になっていた、休日のメンテナンスだ。
貴銃士にとって、己の本体である銃は簡単に他人に触れさせられるものではない。神経質だとかそういう話ではなく、彼らにとってはそれが生命線そのものなのだ。人間の活動限界を迎えても死にあたらない代わり、銃を破壊されれば二度と元には戻らない。
そんな中、一番初めから何の疑いもなく銃を手渡してくれたのがマークスだった。
UL96A1のパーツを一つひとつ丁寧に磨いてゆく。指紋一つ、残さないよう気を付けて。
部屋の中には私の作業音だけが響いている。
メンテナンスに時間をかけすぎてはいけない。手早く終わらせるべきだ。そんなふうに正しさを説く自分の声が聞こえてきた。しかし、私の手は自然と一度磨いたパーツに伸びてしまう。それはきっと、自分が思っている以上にこの時間の存在が大きくなっているからなのだろう。もう少しだけ、確認のため、そんな言い訳を重ねて丁寧に作業を進める。
結局清掃作業を二周した。たっぷり時間をかけてメンテナンスを施されたUL96A1は、これ以上なくピカピカに輝いている。
思わずその銃身をそっと撫で、顔を上げる。マークスに終わったよと声をかけるべく口を開いて、予想外の光景に言葉は行き場を失った。
「……」
椅子に座ったまま、灰色の髪が少しだけ不自然に傾いている。目元に前髪の影が落ちて、彼の血のように濃い色の瞳を覆い隠していた。いや、そうではない。薄い瞼が閉ざされている。
――もしかして、寝てる?
半開きだった口を引き結び、息をひそめる。一度UL96A1を机の上に置いて、そっと身を乗り出した。机を挟んでいるせいで、俯くマークスの顔を覗き込むような体勢になる。
至近距離で見つめるマークスの顔は、同じ人間とは思えないほど整っている。
口の中に溜まった唾を飲み込んだ。ほとんど無意識に、手が伸びる。
「……マスター?」
「――⁉ マ、マークス、起きて?」
何の前触れもく、ぱちりとその目が開いた。
どっと湧き上がってきた罪悪感が舌の上に広がる。言葉が喉に詰まって上手な言い訳が何も思いつかなかった。
急いで退こうとした身体はマークスの腕に引き留められる。
大きな手が包み込むように私の頬に触れた。
どこかぼんやりとした瞳がゆるりゆるりと融けてゆく動きが、よく見える。
「――ああ、マスターだ」
戦場で散る鮮血の色をした瞳が細められ、その赤がじわりと頬に滲み出した。
あまりにも分かりやすい感情の動きを正面から浴びて、思わず呼吸を忘れそうになる。
「ご……、ごめん、マークス、てっきり寝てるかと思って……」
「俺は眠ってない。けど、マスターにメンテナンスされているときは、いつも瞼を開けていられなくなるんだ。身体の内側からぽかぽかする感じがして……、気持ちいい」
「そ、う、なんだ」
「ああ」一拍間を置いて、ぽつりと続ける。「……大好きだ」
マークスの大きな手がさりさりと私の頬を撫でた。
「目を開けて、一番にマスターの姿があって、すごく嬉しい。毎日、毎朝こうだったらいいのに……」
「それは……無理かな……」
「どうしてなんだ。俺が銃だった頃は毎日毎朝、マスターと一緒だったのに。いや、具体的に覚えているわけではないけど……でも、俺はずっとマスターと一緒にいたいだけなのに」
「ここは寮だから。生活できる人の数は限られるし、仕方がないことだよ」
「寮……じゃあ、寮じゃなかったらいいのか?」
「え?」
マークスの言葉から思わぬ仮定がこぼれ落ちた。
ここは士官学校。私は士官候補生。つまり、教官にでもならない限り、卒業後はこの寮を出てゆくはずだ。卒業まで、あと一年と少し。そう遠くはない未来の話だ。
卒業して、完全に独り立ちしたら。正式に連合軍の軍人になったら、きっと配属先の近くで物件を探すことになるだろう。もしかしたら、イギリスを離れることにだってなるかもしれない。荷物をまとめて、部屋を借りて。規則に縛られない自由な生活に思考が走る。
「……そう、したら。マークスと二人暮らし……かな?」
初夏の風に揺れた真っ白なレースカーテンの向こうに、それは素敵な日々の光景が見えたような気がした。家具は備え付けのシンプルなものでいい。ただ、ソファは二人掛けの少しだけ大きなもので、ふかふかのクッションを置いて、本棚には好きな本だけを並べる。カップやお皿は二セットでお揃いのデザインだ。陽当たりの良いベランダには、ハーブの鉢植えが可愛らしく並んでいる。
料理や掃除は二人で分担するけれど、結局気付いたほうが先に済ませてしまうかもしれない。軍人という不規則な生活ながら、一緒に行きてゆくためにあらゆる工夫を重ねるのだろう。すごく疲れた日や喧嘩をした日なんかには、きっと甘口のカレーとハーブティーが夕食に出る。
「……二人暮らし。俺とマスターの、二人っきりの生活……」
何やらぶつぶつと呟いた声で、思考が現実に引き戻された。
マークスはすっかり感じ入った様子で微笑む。
「最高だ。すごく楽しみだ、今から」
「いや、あの。もしもの話だからね?」
「……はっ! 確か、こういう時に言う言葉があると十手のやつが言っていた。何だったか……」
マークスの手が離れる。ほっとして椅子に座り直し、机の上に置きっぱなしだったUL96A1に手を伸ばした。指先で冷たい銃身をなぞる。私の顔を掴んだ彼の手は、私よりも熱かった。
貴銃士は人間ではない。けれども、もうただの物言わぬ銃ではないのだ。意志があり、思考があり、言葉を知っている。願いがある。冷たいだけの道具ではない。
思わず夢想したあの生活の実現には、きっと多くの困難があるだろう。
それでも、あの光景は間違いなく理想だった。
「そうだ! 確か、こうだった。そんな気がする」
マークスが私を呼ぶ。大きな手がこちらに差し出された。その手とマークスの顔とを何度か見返して、彼の手に私の左手を重ねてみる。すると、マークスは真剣な顔で頷いた。
「マークス?」
「――マスター、俺はマスターの作ったカレーが毎日食べたい!」
「……えっ?」
曇天広がる初夏のイギリス。数多くの貴銃士で賑やかな士官学校の片隅に、本来の用途から少しだけ外れた、世界で一番可愛らしいプロポーズの言葉が響いた。
これはそんな、ある穏やかな午後の話だ。