明音は日が暮れるのを待ち、小佐田さんに描いてもらった地図を頼りにしながら島の南西にある井戸に向かって道のない道を登っていく。
山に入るときはスカートを履いていると木の枝に引っ掛けたり怪我をしやすいからパンツやボトムスがいいとはよく言うが、そんなに推奨するぐらいならこの足に引っ付いてくるこの痛々しい棘の種たちを近づけないようにしてほしい所である。
木々の間から零れる光とスマホのライトで足元を照らしながらなんとか歩けているが、もし真夜中にここを通らなければならないと言われたら回れ右して引き返すだろう。
それほどまでにこの道は暗く、今にも茂みから何かが出てきそうなほどに不気味な道だった。
「~~~~~~~~~~~~~~~!」
しばらく山を乗っていくと、明音の頭にラジオのノイズのような音が入ってくる。
それが何を示しているのかは分からないが、その音はただただ不気味で、普通の人であれば何が起こっているのか分からずに来た道を引き返していることだろう。
その音は井戸へと向かっていくにつれて次第に大きくなっていき、思わず手で耳を塞ぎたくなる。
しかし、その音を無視しながら更に道を進んでいくとその雑音はすっと頭の中から消え、代わりに人の話し声が聞こえてきた。
「……ここで何をしているの?」
ようやく井戸のある崖の頂上まで登り切り、先ほどまで聞こえていた声の主を探し、明音は思わず声をかけてしまう。
登ってくる途中でもしやとは思っていたが、その声は明音がここ最近よく聞いている声で、まだ声に幼さを感じる海音ちゃんの声だった。
「あれ、お姉ちゃんこんなところでどうしたと?」
「海音ちゃん。その隣にいる黒いのは……」
「あぁ、この子クロって言うんよ。自分のお家が分からんのか、よくこのお墓の前でなんもせんと横になっとるから世話してあげとるんよね。お姉ちゃんも触ってみる? 毛はないけど肌がすべすべで触り心地がよかよ」
明音はその生物を前に平然としている彼女を見て、どのような声をかければよいのか分からなかった。
暗くなるまで外にいることを怒るのが先か、それとも海音が触っているその生物について聞くのが先か。
お腹を出して気持ちよさそうに横になっているその生物は、形は小さくその生物から感じられる負の感情もとても小さなものではあるが、紛れもなく魔物そのものだった。
「……海音ちゃん。その生物に何か酷いことされたりしなかった。怪我はない?」
「どうしたの。お姉ちゃん、顔がすごく怖かよ。別にどこも怪我しとらんよ。それがどうしたん?」
明音はその魔物を見て、どのような対処をすればよいのかすごく迷っていた。
魔法少女という立場にあり、魔物が暴れて人に危害を加えているのであれば今すぐにでも魔物を討伐しなければならないのだが、その魔物には戦闘意欲が一切なく、なんなら海音ちゃんに撫でられて気持ちよさそうに眠っている。
そんな非力な生物を、今後人間に危害を加えるかもしれないからと一方的に駆除するのは果たして正義を名乗る者の行いなのか、明音には容易に判断することができなかった。
「……それ、噛んだりしないのよね」
「まぁ、噛むっちゃ噛むっちゃけど別に痛くなかよ。大丈夫、クロは大人しいけん。滅多なことがないと噛まんよ」
魔物にも階級があり、低ランクになればなるほど人に危害を与えなくなるとは聞くが、ここまで無害で人に対して懐いている魔物を見るのは初めてである。
海音に促されて明音もその生物に触って確かめてみるが、その生物から感じられる負の感情は魔物と全く同じもので、犬や猫などの他の生物と見間違えているわけでもない。
その生物はどこからどう見ても魔物そのもので、明音の討伐対象でもあった。
「…………? お姉ちゃん、なんか地面揺れとらん? うちの気のせいやろうか」
しばらく二人でその魔物 《グール》を囲みながら今後の対応について考えていると、突然地面が小刻みに揺れ始める。最初はただの地震かと思ったが、その揺れはいつまで経っても収まらない。
明音は木々が倒れても危なくないような崖際に移動するか、揺れで足を踏み始めても問題ないような森の中へと連れていくべきなのかと一瞬迷ったが、その際に井戸に貼ってあった大量のお札が目に入った。
「……なんだ、簡単なことじゃない。海音ちゃんはこの子を連れて森の中に入っときな。あとはあたしの仕事だから」
海音は何を言われているのか分からない様子だったが、明音の言われたとおりに足元に気を付けながら森の中へと入っていく。
クロと呼ばれる魔物も一緒に連れて行ったが、あの魔物はどれだけ強く見積もっても最低クラスのFだと思うので問題ないだろう。もし急に暴れ出したとしても少しの傷で済むぐらいであまり害はない。
明音は海音が安全な所まで下がっていることを確認し、お札が何枚も貼られている井戸の蓋を勢いよく持ち上げた。
「あちゃー、これは確かに大物だわ。郷田さんの言う通り、これは他の魔法少女に任せないであたしが来て正解だったかもね。これは思ってたよりも骨が折れそうだわ」
明音が蓋を持ち上げた瞬間、強大な力を持った魔物が蓋の隙間からあふれ出し、形を整えていく。
蓋に貼られたお札はこれまで亡くなられた人を弔うためのお札だったのだろうが、そのせいで井戸の中に発生していた魔物が外に出ることができず、井戸の中でずっと力を蓄え続けていたらしい。
封印から解かれた魔物からはとても強大な負の感情を感じられ、明音は小佐田さんから教えられたストレッチを実践しながら、久々の戦闘に備えていた。
「ちょっと、いきなり攻撃してこないでよ。まだ準備運動終わってなかったんですけど」
明音は魔力を足に溜めて大きく跳躍し、上から振り下ろしてきた魔物の拳を軽々と避ける。
ヒーローが変身しているときは敵を攻撃してはいけないという暗黙の了解があるが、あれはテレビアニメや特撮内だけの話で、実際に魔物と闘っている身からしてみればそんな了解なんてあるはずがない。街を破壊している魔物が倫理観を持っているはずがないのである。
「じゃ、次はあたしの番ね。お願いだからこの一発で沈んじゃうとかなしにしてよ」
だからこれはただの方便というか、ただの憂さ晴らしである。明音は身体の中に流れている魔力を拳へと集中させ、魔物 《グール》の脳天を殴る。
明音の魔法は『フラワーズ』に所属しているダリアも身体能力を向上させる魔法を使うが、ダリアは身体に魔力をまとわせているのに対し、明音は身体の内部にある魔力を活性化させることによって身体能力の向上を行っている。
体内に魔力を均等に排出し続けないといけないので魔力の消費が激しく、魔力で身体を覆っているわけではないので魔物 《グール》からの攻撃は人の身で受けているのとそう変わらない。
魔力制御も難しいのでほとんどの魔法少女はこの魔法を扱えず、また扱えたとしても欠点が多すぎるのでまず使わない魔法なのだが、明音にはこの魔法がどんな魔法よりも一番身体に合っていた。
「おー、思った以上にやるじゃん。最初に話を聞いたときは強くてDランクぐらいって言われてたけど、これ絶対Cランクぐらいあるって。うわー、これならもっと報酬もらっておけばよかった」
牽制といえど少しは力を入れて殴ったはずなのだが、どうやら魔物にはあまり効いていなかったらしく、少しよろめきながらまだピンピンとしている。
弱い魔物ならこのぐらいの一撃で致命傷を与えられそうな気がしていたのだが、これは思っていたよりも本気で相手をしないと夕飯の時間までに間に合いそうになかった。
「海音ちゃん、今日のご飯ってなんだっけ」
「えっ。きょ、今日のご飯? えっと……、うちがでかけるときは鯖の味噌煮にするって言いよった気がするけど……」
「この島で食べる最後の晩餐はサバの味噌煮かぁ、いいねぇ。じゃあそれをあてにしていっちょ頑張りますか」
茂みの中に隠れていた海音は急に話しかけらえて少し顔をだすが、すぐにクロを胸元に抱えてさっと隠れる。それは魔物の姿を見て隠れたのではなく、明音の姿を見たからだ。
本気を出した明音の姿は普通であれば魔力の流れを感じることができない海音にも影響を及ぼしており、巨体を晒している魔物よりも明音の方が何倍も恐ろしく感じられた。
「~~~~~~~~~……」
それは魔物も感じたのだろう。魔物は言葉にならないうめき声を上げながら一歩二歩と後ずさりを始める。
今まで何年も封印されてきた井戸の中にもう一度戻ろうとさえ思ったが、明音がそんなことを許すはずがなく、気が付いたら目の前に明音の姿があり、魔力の籠った足で上段蹴りを叩き込まれていた。
「さっきあたしが攻撃した時、あんたは頭じゃなくて顔の辺りを守ってた。それって顔に弱点があるっていってるようなものじゃない? 魔物なら核を守りたい気持ちも分かるけど、そこはブラフを張らないと。ま、もう終わったことなんだけどさ」
明音の放った蹴りは魔物の顔に大きくめり込み、核を壊された魔物はそのまま溶けて消滅していく。
魔物 《グール》の中でCランクと言えばかなり強大なもので、魔物が付近の市民には避難命令を出して複数の魔法少女に出撃要請をするレベルなのだが、その魔法少女を束ねている明音からしてみればCランクの魔物なんて朝飯前ぐらいの敵だった。
「さて、任務も終わったことだし今日は帰って美味しいご飯を食べたらゆっくり……」
「お姉ちゃん! クロが!!」
明音は全身に張り巡らせていた魔力を解き、息を整えながら茂みの中に隠れていた海音の方に視線を向けるが、海音はとても青ざめた顔でこちらに助けを求めていた。
どうしようもなかったことだとしても、明音はその顔を見て胸を痛める。クロと呼ばれていた魔物を海音がどれほど可愛がっていたか分かってはいたが、今の明音にはどうすることもできなかった。
「……ごめん。もうそのクロは助からないと思う。あたしがあの魔物と一緒に殺してしまったから」
明音は今にも泣きだしそうな海音を見てどう接すればいいのか分からず、ただ謝ることしかできなかった。
魔物の核というものは必ず1対に1つ存在しており、魔物はその核から負のエネルギーを供給されることによって生存しているのだが、海音がクロと呼んでいたその魔物には核らしきものがなかった。
それに気づいた時点で明音の頭の中には2つの仮説があった。
自然に生きている生物に対して何らかの影響で魔物が乗り移り、身体を奪っている。その件についてはこれまでにも何件かあったのでまず真っ先に疑ったが、こんな形をしている野生動物なんて見たことがないし、心臓の鼓動を感じられなかったのでクロは紛れもなく魔物だった。
そこで明音は思い切った仮説に出てみることにすることにした。クロは元々魔物の一部で、何らかの影響で分裂してできた生物なのではないかと。
「けど、クロは何も悪いことしてないよ。ずっといい子だったよ」
「……分かってる。けど、ごめん」
もしそうだった場合、魔物 《グール》の核を潰したらクロがどうなるかはある程度予想がついていた。けど、ここで魔物を確実に仕留めておかなければ後々更なる被害が出る。
一瞬の迷いは生じたが、明音には任務を遂行するしか選択肢がなかった。
「……おっかあも心配しとるやろうし、もう帰らんと。クロ、今までありがとうね。バイバイ」
海音は先ほどまでクロがいたところをしばらく見つめ、小さく手を振る。
寂しそうにしながら山を下っている海音の少し後ろを歩きながら、お互いに何も喋らずに山を下っていくのだった。