1つ目は『雲の上』
2つ目は『大吟醸』
3つ目は『目をそらす』
或る旅人は山の峰々の間に突如として見えた村にうすらと怖さを抱きながらも足を踏みだした。
その旅人はヒズラトガの原生林の生態調査をしようと立ち入ったところ、そこに住まう妖精に惑わされているうちに右も左もわからなくなってしまっていた。どこかに助けを求めようにも、これから人がやってくる気配はないし空中を浮かぶ国に助けを求めようにもそれらのほとんどが雲の上にあるのだから手を振ったところで通り過ぎるだけだ。途方に暮れていたところに加えて濃霧が発生してしまった。そんなものだからもういっそ死んでやろうかという気持ちで足を踏み出して、薄い灰色の立ち込めるあたりを彷徨っていた。大きなリュックの中にはもうわずかな軽食も水も残されていない。そも妖精が生息していることも、それによって遭難することも想定していなかったのだから少ないのは当たり前だ。いよいよ足元が覚束なくなり不安から歩みが止まった時、人の営みの音が遠くから聞こえてきた。そこに向かって残り僅かもない力を振り絞って歩き出せば、いつのまにかあれだけ濃かった霧は去り、代わりに川のせせらぎと人々の賑わう声、そして酒――厳密に言えば大吟醸あたり――の芳醇な匂いが彼の飢えた感覚器官を刺激してくる。ふら、と憔悴した彼の体が一歩踏み出せば、その集落に住まうのであろう彼らが旅人の存在に気付き、そして心配そうな面持ちとともに駆け寄った。
「大丈夫ですか」
「この村に旅人が来るなんて珍しいなぁ。今日の肴はこれで決まりや」
「酒の肴よりまずは看病に決まっとうやろバカ旦那!」
彼らの勝手な賑わいが、方言もあいまって言葉としてうまく呑み込めないなか、彼は乾いた喉を絞り出す。
「あの、よければ、水をいただけませんか」
彼らはその言葉を聞いてしばらく違う大陸の言語に理解できずいたが、旅人がそれに気付いて簡単なヒズラトガの標準語で同じことを語り掛ければ困惑したような顔を見せた。
「水か」
「それって、真水?」
「真水なら、しばらく待ってもらわないと」
真水がないということはどういうことかと聞けば、彼らは口をそろえてこう言った。
「うちで水といえば、酒しかないんだ」
酒宴があるにしても有り余る酒の匂いの正体がわかり、旅人は自身の身に迫るこれからの凶兆から目をそらし、旅人からの丁寧な施しを享受することにした。