1つ目は『雨上がりの水たまり』
2つ目は『辞書』
3つ目は『叩く』
じっとりと湿気が爪痕を残している。信者がぱたぱたと騒いで次の商売の用意をはじめ、それを布越しの二つの黒がじっと観察する。教祖の荘厳な視線と時折報告のときに二言程度の簡単な誉め言葉を授ければ、彼らは疲れていたような雰囲気などおくびにも出さず「ありがとうございます」などと深く頭を下げていた。苛立つことがあれば、机を指先で叩いて拍を作るか、いっそその日は顔を出すのをやめて奥の部屋に入ればいい。そうすれば彼らは勝手に察する。宗教にのめりこみやすい人間とは総じて人――この場合教祖である彼――の顔色を窺ってくれるのだから、彼からしたら実に楽なものだった。
奥の私室は、本が並んでいる以外は寝具とソファーと彼女らの生活のために置いているものしかなく、衣類などを除いた私物と言えるものはそれこそ数冊の本で収まった。その一部である辞書を一冊取り出して、パラパラとめくる。他の読むための書籍とは違う、正しい情報を詰め込むためのもの。それはどのような啓発本、あるいは伝記よりも彼の選ぶ言葉を高めるものだ。薄い紙を指や爪にひっかけてはめくり、言葉を追う。言葉の意味は使うにあたり必ずしも一から十までの正確さは意識されない。結局言葉の選び方の基準になるのは『どんな印象をつけやすいか』という一点に尽きる。そのまま数ページめくったところで、彼の手に触れる白い手があった。彼より小さいその手の持ち主を視線で追えば、絹糸のような髪が彼の着物にさらりとかかった。とろりと深い紫をした双眸が、彼を映して細められた。
「ずいぶん集中していたようね」
「……ハニー。気付かなくて申し訳ないね」
彼の手にすくいあげられた髪の、艶やかなこと。そのまま手を彼女の整った輪郭に添えれば、やはり微笑む形は妖艶だった。
「いいのよ。お勉強、続けていたら?」
「いや、いい。君と過ごす時間のほうがよほど大切だ」
まぁ、と彼女の表情は驚愕を作る。感情表現が豊かではあるが決して下品ではないその顔を、男はいたく気に入っていた。
「もうすぐ小鳥ちゃんも帰ってくるわ。今日の夕食は何にしましょうか」
「さて、どうしたものか。彼女が喜んでいたものにしようか」
「それがいいわ。ええ、そうしましょう」
雨雲が過ぎた後の天候はまだ淀んだまま、水たまりはまだ枯れない。