アリスの楽園が閉ざされていたらどんなに良かったかと考えなかった日はない。
いつだって夢に見る。
私はアリスの楽園の中にいて、そこでは死んでしまった愛しい妻や関係が冷えきった我が息子の事も忘れて、奇怪だが充実した仕事にアリスと共に打ち込めているのだ。私はあちこち駆け回って靴の底をすり減らしながら、夢の中で願うのだ。ああどうか、この楽園の扉は固く閉められており、どこにも行けぬようにと────意識は覚醒し、ゆっくり瞼を開けた。
ソファで寝ると風邪を引くと巷ではよく言うが、私は生まれてこの方ソファで寝て風邪を引いた事は未だにない。むしろリビングにつけられた暖房と柔らかい毛布のおかげで、寝室で寝るよりも快適と言えるかもしれない。
後ろ頭をかきながら、私はキッチンに水を飲みに行く。リビングに飾られた時計は夜明け前五時を指している。
息子はまだ起きないだろう。最近は遅くに帰って部屋の様子を扉越しから伺うと、何か動画を見ている音が聞こえるから、きっと最近は寝坊助になっている筈だ。普通の親ならそれを咎めるのかもしれないが、私としてはありがたい限りだった。
息子と合わせる顔はもうもっていない。精々息子が何になりたいと決意しても、パッと金だけは用意出来る男でしかないのだ。そんな男が朝に息子と顔を合わせたって、話せる事は「学校はどうだ」と「なりたいものは決まったか」だけ。ならば聞かない方がマシと言えるだろう。
コップに蛇口をひねって水を注いで、なんとなく冷蔵庫に貼られたホワイトボードを見る。
ホワイトボードは子供の背丈でも届く距離に貼ってあり、そこには少し大きな字で「お弁当の他にもスープがあるので持っていってください」と書かれており、冷蔵庫を開けると確かにお弁当の隣に真新しいスープジャーが置いてあった。
この前五教科の中間テスト結果全部五位をお祝いする為に、臨時のお小遣いを欲しがったのはそういう事だったのかと水を飲み干しながら考える。渡したのはもっと多い額だったから、きっと他の事にも使っただろうが、可愛い事をするものだ。
きっと息子は、まだ────
この過去を忘れられな────それでも父として────
私────私──私────
冷蔵庫を開けっ放しにしたまま、急いで洗面所に入って顔を乱暴に洗う。考えるべきではない。考えてはいけない。考えて何になる?
今更父親面をした所で、息子は困惑するだけだ。むしろ怒るだろう。中学二年生、息子のその年齢は、私と息子がもう家族にはなれない事を示しているのだ。考えるべきではない。私が思考していいのは、きっとアリスと仕事だけだ。考えてはいけない。
「アリスさん、アンタも……劇薬を飲ませてくれたものだ」
Drink me!
アリスは不思議の国におっこちた、あの哀れなアリスではないが、どうしても頭に過ぎるのは水色のドレスに白いエプロンをつけた少女だ。アリスと出会ってから全てが変わってしまった。軽いメランコリックだ。
「アリスはどっちだ、クソ……」
鏡に写った自分に睨んでいると、冷蔵庫がピーピーと鳴り出した。閉め忘れのサインだ。私はそれを聞くとなんだか現実に戻ってきたような、体が重い気持ちになって、私は鏡の自分をトンッとついて洗面所を後にした。
楽園は電気を消されて暗闇の中静寂に浸る。私は未だ、そこに留まる術を知らない。