その日の朝錬の最後は、明くんから遠征同意書というものを配られた。
「例年通りだが、今年も1年、遠征が多いと思う。形式上とはなるが、交通機関を使うので、迷子になってしまったり事故にあうリスクもゼロではない。それを理解して記名してくるように。それから、記入日の年月欄は“われき”で書くように」
朝練でクタクタなのに加えて、基本的に午前中はボンヤリ気味の俺の頭の中で「われき」という聴き慣れない単語は完全に「割れ木」と変換されて、なんで突然、明くん今、木の話した? と疑問符が浮かんでいた。
「若利く~ん、さっき、明くんが言ってた“われき”ッテ、ナニ?」
いつものごとく部活終わりのストレッチをしていた時にサラリとそう訊ねられたのはいつもの癖かもしれない。若利くんはちょっとズレてるところもあるけど、いろんな難しい言葉を知っていることが多い。あと、無駄に(と言うのも悪いけど)動植物の事に詳しい。だから、今回の『割れ木』についても何か教えてくれると思ったのだ。
「和暦、というのは、西暦ではなく昭和、平成というような日本独自の年の数え方だ」
「え、どンな字書くの?」
「和風の和に暦という字だ」
「西暦の西が和になッタ感じか。へー!」
確かに、西暦と和暦、と並べられてみればわかる気がする。
「和暦って1月1日がその年の最初で12月31日が最後ってのはイッショ?」
「同じだな。昔は違ったらしいが」
「マジで!?」
「今のカレンダーは太陽暦だが、古来の日本の暦は太陰暦だ。つまり、今の旧正月と言われる辺りが一年の始まりだ」
「へー! さすが、若利くん!」
知らない情報が多く、思わずテンションが上がって大きな声を出してしまった。隼人くんに「なに騒いでんだ?」と不思議がられ、獅音に「早く教室行かないと授業遅れるぞ」と諭されてピョンッと起き上がる。ストレッチも大体終わった。いつも一緒にやってくれる若利くんも、すっくと立ちあがり、何事も無かったように更衣室へ向かう。
ズンズンと歩いて行く真っ直ぐな若利くんの背中を見て、それから、周りを見渡す。部員全員が同じA4サイズのペラペラな紙をひらひらしながら更衣室に向かっている。
多分、誰も俺みたいに「われき」がなんだろうなんて思っても居ない。だって、去年も同じ名簿に自分の名前と記入年月日を書いたのだ。ただ、俺自身が去年どうやって書いたか覚えていない。もしかしたら、去年の俺が間違えていたから明くんがあえてあんなことを言ったのかもしれないし。そう思うと、なんとなくいたたまれない気になってきた。
すすっと、若利くんの隣に並ぶ。それから、本当に小さな声で若利くんだけに聴こえるように呟く。
「教えてくれてアリガト。変なコト訊いてゴメン」
言ってから、そんなことを言うこと自体もなんだか俺らしくない気がして、思わず逃げるように更衣室に飛び込んだ。バァンと大きく更衣室のドアを開けたら、割とドアの傍で着替えていた英太くんに「ノックとかしろよ!」と言われたけど笑って誤魔化した。だから、若利くんにさえ俺の言葉が聴こえていたかどうかも、ましてや、それを聞いた後のリアクションも一切見る余裕が無かった。
コンコン、と丁寧にノックする音で寝落ちしかけてた頭をバッと持ち上げる。このノックの仕方はどう考えても若利くんだ。
大股3歩で寮室のドアまで到着し、朝の更衣室のように勢いよくドアを開けると、予想通り若利くんが直立不動で立っていた。その様子は、どう見ても練習後のロードが終わってそのまま駆け付けたような様相だ。早く風呂に入らないと大浴場が閉まってしまう時間なのにも関わらず俺の部屋に来るというのは、きっとよっぽどの重要事項を伝えに来てくれたのだろう。
「ドしたの? こんな遅くに」
ただ、今日から前後1週間程度の予定を考えても、今日1日の部活でのやり取りでもそんなに重要な何かが合ったような気はしない。けれど、若利くんは「考えていたんだが」と何かを切り出そうとしていたので瞬時に廊下を見渡した。
「若利くん、とりあえず風呂行ッテきたら? 話あるならソレから聞くし」
「……そうか、そうだな」
「ナイショだけど、今日は俺の部屋の同室くん消灯ギリギリまで彼女さんとコンビニデート中だから暫く帰って来ないシ」
本当は同室くんに散々惚気られてる俺の苦悩を愚痴りたかったけど、それは今じゃない。
ひとまず若利くんを「行った行った」と風呂に向かわせ、若利くんが戻ってくるまでに寝てしまわないように談話スペースに向かう。予想通り、最近流行りのドラマを熱心に見る隼人くんと隼人くんの同室くんが居たので、しばらくそれに交ざって、話のスジさえも知らない初見のドラマを見ながら、そのドラマの前後の話を予想していた。
10分程度で戻ってきた若利くんは、猪突猛進といった様子で俺の部屋を目指していた。もちろん、俺の部屋に向かう途中に通る談話スペースに、多分目的の人物だろう俺が居る事にも気付かず、だ。
ノックしようと左手を持ち上げた若利くんの肩を後ろからツンツン、とつつくと驚いたような表情でこちらを振り返っていた。その素直過ぎる反応に思わず笑ってしまう。数年前まで遠い存在だと思っていた東北のウシワカがこんな天然くんだなんて当時の俺は欠片も予測できなかったことだろう。
上機嫌で若利くんを部屋に招き入れ、同室くんの勉強机と椅子を勧める。勧められるままに素直に座る仕草はどこまでも堂々としていて東北のウシワカ然としてはいるけれど。
俺は俺のベッドじゃないけど、二段ベッドの下の段に腰掛けて、若利くんと真正面から向き合えるようにし、それから手に持っていた300㎖ペットボトルをズイと差し出した。
「お茶。買ったケド、飲む?」
話が長くなるかと思って1本だけ水分を買おうと思っていたのだ。が、生憎、寮内の自販機はラインナップが少なく、しかも、一番人気のスポーツドリンクがこんな夜遅くまで残っているはずもない。諦めて買ったのがこの、お茶という経緯だった。俺だってあんまりお茶を好んで飲む方でもないけれど、水分が何もないよりはいい気がしていた。
「いや、いい」
「ソ?」
考えてみれば、午後は極力、カフェインを摂らないようにしているとか聞いたことがあった気がしていた。若利くんじゃない人が言っていた言葉だったような気もするけど。しつこく勧めることも違う気がした。
「朝の話だが」
そう切り出されて、朝練で伝え忘れた事でもあったのかな? と予想する。パキリと開けたペットボトルにも目をくれず、ジッと若利くんだけを見つめる。考えながら口に含んだお茶の味は全くしない。しかし、別に今、それはどうでもいいのだ。
今朝はポジションごとの練習が多く、あまり若利くんと関わっていない。朝の話、とは、一体、朝のどの話の事だろうか?
「疑問に思ったことを訊くことは、普通の事だと思う。なので謝る必要はない」
何かを訊いて、謝った、というヒントから和暦の件だと気付くことは、去年の俺だったら、もしかしたら半年前の俺でさえも難しかったかもしれない。
「まだまだ俺達は学生だ。知らないことの方が多い。それを知ったふりをして聞き流すよりも、正しい知識を得るために誰かに訊いたり調べることは恥ではない」
と、昔、母が言っていた、と付け加えられて。互いに変に生真面目た視線を交わす。若利くんが生真面目な顔しているのはいつもの事なんだけど、俺までつい生真面目になったのは、若利くんからご家族の話を聞くのがこれが最初だったことに気付いたからだった。
「俺も度々、天童に教わっている」
「え、そんなコトないヨ?」
バレーに関することも、勉強も社会常識も特に若利くんに俺から教えたようなことは無かった。むしろ、俺の方が教わってばかりであった気がするのだ。
「ジャンプの読み方を、天童に教わった。それから、対戦相手の行動を予測すること、それと同じくらいチームメイトの行動を予測し、察知することの重要さと難しさも教わった」
「俺、そンなコト、教えた?」
若利くんの指摘することに全く思い当たることが無くて、思わず首を傾げる。
「ジャンプは直接教わったが、バレーに関しては練習中や試合中の天童を見ているととても参考になる」
「それって、見て解る若利くんがスゲーだけジャン?」
「そういうわけではない」
つい先程と全く同じ、いつでもどこでもブレない若利くんの真っ直ぐで純粋な視線が俺を貫く。それは時にはもしかしたら残酷なこともあるのかもしれない。気味が悪いと思われることがあるのかもしれない。
でも俺は、この、誰とも違う牛島若利という男が、たまらなくカッコよく見え、頼もしく見え、でも、それだけじゃなく、面白くも可愛くも見えるのだから、きっと、この感情は限りなく愛に近いのかもしれない。
「もうひとつ」
中途半端に飲み残したペットボトルを持ったままの手をグイっと引かれる。鼻がぶつかりそうな距離に若利くんが居る、と思った時には既に、口を頬の境い目に軽く口付けられていた。
「恋、を知った。教えてくれてありがとう」
ほころぶように微笑むそのオリーブグリーンの瞳に、男前に整いやがった顔に、ドッと恥ずかしさと少しだけの怒りが湧いたのは許してもらいたいところだ。
「若利くん。ダメ。シッカク。30点」
見方によっては、したり顔をしているように見える若利くんのその後頭部をグッと引き寄せ、サラッと逃げていきやがったその唇に自分のものを重ねる。わざとリップ音を立て、どうだと見返せば、俺と同じように瞳の中にイカガワシイ光を灯らせた若利くんの表情があった。
「同室くん、帰って来るマデ多分、あと10分くらいだケド、ドーする?」
予想できること、知っていることが楽しい場合だってあるけど。今は、あえてこの賢くも可愛い恋人の全く次の予測がつかない次の行動を大人しく待ってみようと思った。
祝・いい牛天の日!
牛天に幸あれ!