トロイメライの続きを書くよッ
頬にかかるほどの長さで切り揃えられた前髪は、乾燥が不十分であったのか、毛先から小さな雫が滴っている。未だに熱の籠った身体は脱衣場を出た時に感じた涼しい空気で多少は熱さが紛れて、多少の清涼感を感じた。
「いや、……そう、アレがオレの馬鹿兄貴。」
灰谷蘭がまっさらなTシャツに袖を通して乱雑に髪の毛を掻き上げながらリビングへと足を踏み入れると珍しい光景が目の前には広がっていた。
話しかけたが返事も無いと、文句を垂れて、『兄貴が面倒みろよ。』と言い捨てた、あの弟が例の幼馴染とテーブルを囲んでいるどこか既視感の在る光景だ。
「何笑ってンだよ?竜胆。誰が馬鹿だコラ。」
くにゃ、と口元を歪めながら、蘭が猫背の弟の肩に肘を乗せて、食卓を覗き込むと、ゲッ、と肩を揺らす彼の振動が腕を通して身体に伝わる。丸い目玉を動かし蘭を見上げた彼女は、こくん、と口に含んだものを呑み込むと唇を開いた。
「おはよ。」
「何食ってんの?」
「カンパーニュ。」
「うわ、キモ。干した葡萄なんか食ってンなよ。」
馬鹿、とは聞き捨てならないが、仲良くご歓談中の弟の歯に衣着せぬ言動は日常茶飯事であるので、それほど腹も立たなくて、蘭は彼女の傍まで歩み寄ると彼女が指先で抓むように挟んだパンの断面を見て、眉を寄せた。半分ほどに体積を減らした生地には彼女の歯型がくっきりと残されている。
朝っぱらからよくもこんなに食えるものだ。と思った。
十年顔を合わせず過ごした幼馴染と再会したのは、偶然出会ったのか、それとも自分でも知らぬうちに意図的にその場に足を運んだのかはわからない。と言うより考えることを放棄した。
その時、灰谷蘭が其処に居た。そして、彼女も同じ場所に居た。別にそれだけで良いだろう。元々、滅多に足を運ばない場所じゃない。こんなに近くで生活していたのに、むしろどうして今まで偶然居合わせなかったのか不思議なくらいだ。ずっと遠くに居ると感じていたのに、何のことは無く、すぐ近くに居たことがとても奇妙なことに感じられる。
明らかに正常な状態であろうと予想していた彼女の姿を端的に表すのなら、人と言うよりも『蛸』という呼び名の方がしっくりとくる。
くったりと軸の定まらない身体を頼りなく前後に揺らし、しまりのない唇から洩れる笑い声は感情の機微が薄い。とろん、とふやけた覚束ない視線が見下ろした先にある何かを、自分は視認できなかった。
『…ひゃへった。……くひららいろり。』
俯いた彼女の上ずっていて、酔っぱらいのような呂律の回らない言葉を蘭は非常に聞き取りにくいながらも、自然と意図をくみ取り返事が出来たけれど、その返事が本当に的を射ているものなのかは今となってもわからない。
『あ――、あらりろ――が、しんら。』
自分の足元をじっと見つめた彼女が不満げに主張した文句で、足元を見つめてみても、あるのは散らばるプラスチックの小物と液晶画面が点灯しているスマートフォンだけ。勿論のことながら、踏みしめた靴の下には泥で汚れた霙雪しか存在しない。
それでも大真面目に話す彼女は、どうやら自分はまともに発言できている、まだ正気であると思い込んでいるらしいのだが、この状態の人間に何を言っても無駄であることは重々承知している蘭は彼女の流血した手を拭った。小さな砂利が擦りむいた傷口に入り込み、細かく線を引いたように赤く滲んだ血液と泥を拭いてやる間、彼女は真っ暗な目でじっとそれを見つめているだけで、痛そうにも悲しそうにも見えなかったことが強く印象に残っている。
ふ、と暗い部屋の中で一本灯した蝋燭を吹き消す後に、瞬く間に辺りが何も見えなくなる感覚と近い。心のどこかで、ちょっと血が出ただけで、痛い痛いと大げさに泣いて見せた彼女が、まだ居ることを期待していたのかもしれない。そんな筈はないことも、承知のうえで。
降りしきる雪景色を眺めながら、隣で、とても長い間彼女の言葉を聞いていた。
耳で聞き取ることの出来ない稚拙な語彙が頭の中心を通り抜けて、ぐちゃぐちゃの文字の羅列が形を成さずとも、不安定であてどなく彷徨うだけの声を拾えば、彼女の言わんとしていることが蘭にもそれなりに読み解くことはできる。それは、口よりも目でモノをいう質であった彼女のことを長く隣で見てきたからだろう。
『痛かった。』
『怖かった。』
『好きだった。』
無機質な声の中に僅かに残った彼女の気持ちも言いたいことも判別できるけれど、未だに彼女の痛さも苦しさも自分には理解できないし同じ感情を共有することもできないままだ。
雲の立ち込めた明るい夜空にしとしと白い粒が舞い落ちるだけの見慣れた灰色の街。色とりどりの電飾と信号機の光が滲んで点滅する寒々しい光景が、隣で前を向いたまま微笑んだり、涙を流してみたりする彼女の眼にはどんな素敵な光景に映っているのか。
同じ場所に座っているはずが、心だけ全く別の世界に居るようだった。
すっからかんに摩耗して、最後に残った抜け殻が今の彼女だ。
魂だけ、身体の中から抜け出て死んでしまったようだった。
息をしているが、生きてはいない。記憶の中の彼女は此処にはいない。それなら、今隣に座っているこの女は一体誰だ?
『幸せそうでしょ?』
やけにはっきりと輪郭を帯びた彼女の声と微笑みは、ある種満ち足りていた。目尻を歪めて、緩く口角を上げ、瞳を輝かせながら深く息を吸っては吐いてを繰り返す。それは全部諦めて抗うことを止めた人間が見せる笑みにも見えたし、全て失う人間が自分自身をあざ笑う乾いた笑みにも見えた。しかし、幸せそうと言われると、安直に否定できはしないだろう。身を焼く災禍と引き換えに、あらゆる悩みと苦しみから解放される手段に手を伸ばして、都合よく何もかも忘れてしまえたならば、こんなに楽なことは無い。
微笑んでいる。
満ち足りている。
だから、それが、蘭は無性に気に入らなかった。
ドロドロと内臓の外側と皮膚を満たした液体が濁りを増して煮えたぎり、沸き立つような得体の知れない怒りと憎悪にも似た黒く粘度の高い感情が喉の奥までせり上がって、ス、と頭から身体の温度が下がっていくような気分だったのだ。
顔の筋肉が凍り付いたように、動かくなくなる。彼女を見下ろす自分の顔が、視界の隅のガラスの壁に反射して映り込んだモノに一瞬思考が咲かれるが、そこに映るその顔は真っ黒でぽっかりと穴が開いているようだった。
今更好きだったなどと身勝手に抜かしておいて、自分が先に死んだのか。
元々違う生き物だと知っていながら周りと同じものを他人に求めて、勝手に満たされないから腹を立て、もう会わないとほざいたくせに、どうしてお前は此処に居る?
人の顔も名前もキレイさっぱり忘れて、自分だけ楽になるつもりか。
そんなエゴが許されるなどと本気で思っているのかこの女。
爆発的で激烈な怒りとも違うその感情は冷えた心の温度を更に奪っていくようだった。元々穴ぼこだらけの胸の中にさらに大きな風穴が開いて、肋骨の隙間からは涼しい風が吹いている。
今まで無視をし続けた傷口から噴き出す膿が、足元からぼこぼこと泡を立てて湧きあがる虚ろが沈むように自分を足元から呑み込んで身動きできなくさせていく。
思い出そうとしなくてもずっと彼女が瞼の裏で息をしていた。
うとましいとも、いとおしいとも思わない。
何度も何度も目にしていくうちに、なにも感じなくなった。
けれど、ずっと、ずっと、其処に居た彼女を見つめ続けていたのだ。
目の前に現れなくなっても、行方すら耳に入らなくなっても、消そうと思ったことなど無いし、消せないことは、あの日からずっと理解ってた。
それなのに、あの女は平気な顔で自分のことなど忘れて、何でも持ってるくせに全部をかなぐり捨てて最後の最後に自分まで捨ててしまった。
人がこんなに寝覚めの悪い日々をひどく長い間送っていたというのに。
そんな身勝手をどうして許せるというのだろう。
どうしてこんな気持ちになるのか。
ただ、その時、蘭は自分がひどく自然にシンプルに、気付いたのだ。
自分の方が先にくたばると思ってた。
それなのに、まさか、彼女が先に死んでしまうなんて思ってなかったのだ。
それが、どんな形で訪れる死であれ、とても都合よく、思考の外に彼女の生死があった。
目の表面が乾いて、喉がひりつくその感覚の正体が、その時ほんの切れ端だけ理解できた。
『ほんとはそんなこと思ってないよって言いたかった。』
それでも、白んだ頬に僅かに残る赤色の上を溶けたマスカラで黒ずんだ涙が流れ落ち、潤んだ瞳を大きく開いた彼女の白目はまだあの頃のまま青かった。
ひび割れた容器の中に小さく残る記憶の欠片が、彼女の中から飛び出して爛漫に煌めきながらぢくぢくと心臓を突き刺していくその感覚は過去にさして未練も湧かない自分でも懐かしく、氾濫しかけた感情の波が凪いでいくのを感じた。
別に声に出さなくても分かってた。
言いかけようとしたところでそれを口にできる相手は、もうすぐ隣にいる自分じゃない。
『蘭ちゃん。』
と、この世界の中で最も多く自分の名前を呼んだ女はもういない。
ここにあるのは不確かな記憶を残した、形も色も定かでは抜け殻二つだ。
誰も自分を必要としていない。
滔々と語る彼女の声に耳を傾けながら、あの子はもう何処にも居ないと分かっていながら持って帰ることにしたのは、単純にその抜け殻が自分自身すら必要としていないのなら、自分が持って帰ったところで構わないだろうと感じたからだ。
誰も必要としていない。それは違う。代わりの居ない人間など決してこの世に存在しない。世の中の大抵のものは、どんなものにでも代わりはある。人でも、モノでも恋人でも、友人でも。人間なんて所詮生まれてから死ぬまで一人であるし、生きてる意味も無ければ、命を落とすことにも意味や意義など存在しない。それに理由を見出すのは、結局のところ自分しかいないのだ。
誰も彼女を必要としていないのではない、彼女が自分を必要としなくなっただけだ。自分に意味を見出せなくなっただけだ。
彼女がそれを放棄してしまうなら、手を伸ばすことを止める理由も蘭には無かった。助けたいわけではないし、同情したわけでもない。
抱き上げた彼女の問いかけに、答えた言葉通り、『落ちていたから拾っただけ。』だ。
拾ったものをこの先どうするのかなど、その時の自分の頭の中には無かった。
十年経っても相も変わらず『これからのこと。』など頭には無い。
持ち帰った女を部屋のベッドに投げ落とし、困惑気味にも部屋を出た弟の灰谷竜胆が扉を閉めるその音を聞いた後、蘭は暗闇に慣れた目を凝らしながら横向きに身体を丸めて眠る彼女の隣に身体を横たえた。間近で見つめた背中、乱れたシャツから覗いた首の付け根は背骨が薄っすらと浮き上がり、視界がそれほど良好でもないせいか、余計に血の気を失っているように思える。
すう、すう、と寝息を立てる肩が上下を繰り返す様を眺めていると、嗅ぎ慣れた匂いの中にツン、と鼻腔に染みる屋外の匂いが彼女の髪から漂ってくる。
後姿から、少しだけ覗いた頬と閉じた瞼の先の睫毛。抱き上げたすぐ後に眠ってしまった彼女を抱えて、車に乗り込んだ後結局面倒臭くなって、雑に持ち運んでしまったが、安らかな寝顔が曇ることは無かった。
どんな穏やかな夢を見ているのだろうか。
寝ても覚めても夢の中に居る彼女から逃げる余地を奪うことになんら戸惑いもない。
精々苦しめとすら思う。
冷たい怒りとも憤りともつかない感情と並々ならない執着の中に残る淡い寂寥感。内在した形容しがたい感情は背中合わせに混じり合い、複雑な欲求は未だに形を成さないままだ。
傷んだ髪の毛に鼻先を寄せて、蘭は身体の内側に押込めたそれがこれ以上波立つこのないように、冴えた目玉を瞼を閉じて隠し、外界からの情報を遮断した。それほど眠たくはない。静かに揺れる身体に腕を乗せて力を入れると胸と密着した部分が少しずつ温まり、柔らかな感触が生地を通して肌に伝わる。
その日は、あの夏の日の夢は見なかった。
◇
ふっくらとした柔らかく丸みを帯びた肉体と、ブロンドヘアの上に浮かぶヘイローや純白の翼。どこぞの絵画に描かれているような幼く純真な笑みを浮かべる天使が手を引き今まさに、空に昇ろうとする女の足首を根こそぎ掴んで引きずり降ろす。
今の自分のしていることと言うのは、大体そんな感じだろう。
で、まさか自分がそれほどまでに鬱屈した執着とも劣情とも、はたまた憎悪ともつかない非常に粘着質な感情を抱かれているなど露ほども気付いていない女は、素知らぬ顔で水を加えてこねくり回した粉の塊をがっついている。
暖房と窓から差した光で温まり始めた室温のおかげで、青白い彼女の顔はいつもより血色が良い。
永くて欠伸の出そうな前回までのあらすじ(笑)を頭の中で無理やり終わらせた灰谷蘭は中指と人差し指の背中で彼女の左の頬を柔くさすって覗き込む。
汚れたガーゼを張り合わせていたそこに残った打撲痕は、五日も経つと鬱血した場所の青紫が黄色に変わって目立たなくなっていた。軽く押してみると指が柔らかく皮膚に沈み込み、表面が凹んでいくが、彼女の表情が曇ることが無いところを見れば、痛みも無くなったのだろう。
眠いのでそろそろ寝支度します!!!
今日もお付き合いくださりありがとうございます♡