トロイメライ 続きを書いてくよ
そう思うのに、蘭はまるで彼女の気持ちが手に取るように分かるのだ。どんな可笑しな辻褄の合わない話でも、勝手知ったかのように笑みを深めて頷く兄が果たして彼女の言葉を本当に理解しているのか、それとも知ってるふりをしているだけなのか、甚だ疑問だが、蘭が数度言葉をかけるだけで、彼女はあっさり不満げながらも顔を出す。まるで、彼女と兄の二人だけの二人にしか分からない言語があるかのように、竜胆には思えた。
気まぐれに構うだけで、自分で持って帰ってきたのに殆どほったらかしのくせに。
結局、面倒くさくて考えることを放棄した自分が口に出したのは、
『腹、減らね?』の一言だけだ。
何のことは無く腹が減っているのは自分である。
「……うん。」
あ、珍しい。いつもは素直に話を聞くことなど無いのに。
何の気なしに重ね合わせた白い手の甲は、少し考えこんだ後、短く返事を返した。
「飯買ってきた。」
「なんの?」
「゛あ~~、パン屋のパン。」
「パン。」
「そう。」
「どんなの?」
枯れ木のような彼女の指が自分の人差し指を軽く挟んだり、かと思えば感触を確かめるように撫でていた。遊ぶようにやわやわと触れた皮膚は乾いた冷たさで、それが自分の熱と混じると少しずつ温く温度を持ち始める。
身体を丸めて上目遣いにこちらの様子を伺う目つきは、叱られる寸前の子犬のようだったが、それでいてわずかに好奇心が垣間見えた。
どんなの、って言われても、さして覚えても居なくて、竜胆は言葉に詰まって一度空中に視線を泳がせた。家に戻る途中、うたた寝している兄を助手席に置いたまま、ついでで寄った店の名前も場所も覚えてはいない。朝方出勤ラッシュを外れた時間に来店したせいで、店の中では随分目立ってしまったことだけは記憶に新しい。奇抜なら色味のスーツに袖を通した派手な身なりの男が一人でトングとトレイを片手にうろつき回る姿は後で思い返してみれば随分滑稽だ。大方水商売とでも思われていたに違いない。
「うん、と……胡桃と、レーズンの茶色いやつ、。」
「茶色い…?」
「なんつったっけ。フランスパンに粉かけたような…硬くて丸いの。」
「……カンパーニュ?」
「そう、それ。」
「レーズン好きなの?」
「嫌い。誰が食うかあんなもん。気持ち悪ぃ。」
ニ十センチほどの大きさの楕円形を半分に切った断面に散りばめられた茶色く若干湿り気の残る干した果実を思い浮かべて、竜胆は、べっ、と舌を出してしまいたくなった。妙にぐちゃぐちゃとした触感と言い、見た目と言い、変に甘ったるくて僅かに残る渋みと酸味が触感も相まって余計に気色が悪いのだ。だからレーズンは嫌いだ。
辛うじて闇に浮かんだ両目は不思議そうに自分を見つめ返していた。嫌いなのに、どうして買ってきたの?と言いたげで、その目に見つめられると、竜胆はひどく居た堪れない気持ちになった。
墓穴を掘ったような気分。
茶色い棚に所狭しと並んだ食物の山、鼻をくすぐる甘くて香ばしい匂いを思い出す。
ああ、もう。畜生、馬鹿みたいだ。
細く平たい生地に交互に切れ目を入れてベーコンを指したエピだとか、橙色の果実の皮をふんだんに混ぜ込んだ黄色いジャムの詰まった丸パンだとか。
それからデニッシュ生地の表面に溶かした砂糖を塗ったアップルパイ、手のひらサイズの卵ドーナツや三日月型のカルツォーネ、陳列棚に均一に並んだそれらを眺めた時に、浮かぶのは今やぼやけて殆ど記憶に残っていない幼い少女の後姿だ。
アイツなに食べるんだろう。
二つに結んだ髪の毛と淡い色味のワンピース。つるりと滑らかな光沢を放つエナメル質のメリージェーンの赤さが鮮明に瞳に焼き付いていた。
あんなに一緒に居たのに、今となっては彼女の好きな食べ物一つ知らないことが、一目見た時から胸に転がる喪失感を肥大させて、少しだけ息が苦しくなる。
考えたって詮無いことだと自分を納得させようと、しばらくうろつき回ってカウンターにトレイを置いた瞬間気が付けば、トレイの上に山盛りそれが乗せられていた。
あ、と思ったところでもう遅く、今更やめるなどとも言えずに金は払ったものの、ビニール袋二つ分にも及ぶ食物を仏頂面で後部座席に放った時の兄の揶揄うような黄色い目つきが未だに癪に障って仕方がない。
面倒臭いことも、格好悪いことも、残念ながらあの兄と過ごしていると全部が全部自分の役回りになってくる。
畜生。ほんとのほんとに気にいらない。なにボケっとしてんだよ。こっち見てんじゃねぇよ。自分は関係ないなんてツラしやがって、オマエだよ、オマエ。全部、オマエのせいだっての。
「っ、オマエがっ、………何食うかわかんねぇから。」
勝手に感傷的になって、勝手に苛々したりして自分ばかりが、こんなにもやりきれないような、何とも言えない気持ちを抱えているのに彼女も兄も全くその気も無いようで、それが余計に竜胆には腹立たしかった。ぴきり、と額に青筋が立つのを感じて荒んだ声が飛び出たけれど、別に誰も悪くない、なにも分からない彼女にこんな気持ちをぶつけたところでしょうがない。だから、言いかけた言葉は尻すぼみに小さくなって、余計に羞恥が刺激される結果となったのだ。
「……一緒に食おうって言ったの、オマエだろ。」
「…………?」
「…わかんねぇか。マア、いいや。」
行き場を失う右手を頭に当ててくしゃりと掴んで俯くと、怪訝な顔の女がそろそろと、様子を伺うようにベッドの下から顔を出す。乱れた黒髪に隠れた青白い顔がこちらを見上げて、何が悪いのか、分かってない癖に『ごめんね。」と一言呟くと、ひどく、胸が締め付けられるような気分になった。重ねた手のひらを浮かせて、僅かにはみ出た肩に触れ、這うように頭を上げた彼女の脇を支えて持ち上げると、竜胆はずるずる、と引き摺るように脱力した身体を持ち上げ床に座らせる。
オレンジ色の夕陽の光を受けて、ニカッと笑みを浮かべた小さな女の子。
『一緒にご飯食べようね。』と、自分の右手をひいて歩いたあの子は、もうどこにも居ないのだ。
最初にそれを教えたのは自分のくせに、今目の前にいる女はまるで別人のように何もかもきれいさっぱり忘れてしまっているようで。
しかし、それを口にしたところで後の祭りも良いとこだ。
顧みない代わりに改めもしない。そういう生き方をしてきたし、これからだってそれを変える気はない。
変わらないし変われないのだ。
竜胆は一瞬顔を出した寂寥感を振り払うように、重たい身体を起こすと彼女の手を引いて、ゆっくりと部屋を出ることにした。
頭二つ分ほど小さいつむじが視界の端に映りこんだ時に何気なく口にした言葉に胡乱な目つきの彼女はそれでも小さく返事を返した。
「オマエさ、小さくなった?」
「……あんたがデッカくなっただけじゃない?」
「……あ?」
「……ん、?」
◇
だだっ広いだけのリビングに彼女を連れ出した後、竜胆はキッチンのシンクの上に放置したままのビニール袋の前に戻ると、カルガモの親子のようにぴったりう後ろについて離れない彼女の視線に若干の居心地の悪さを感じながら透明な袋に一つずつ包装されたそれぞれを並べていくことにした。
普段ならソファに座ってコーヒー片手にそのままかぶりつくところなのだけれど、彼女の手前、行儀の悪い食事の仕方をするのも気が引ける。というのも、真似をされたら居た堪れない気持ちが加速するのは自分の方だから。いや、それもそれで、年齢的には良い大人である彼女を子ども扱いしているようなものなのだが。
透明な袋の内側を熱で白く曇らせる種類多様なパンの山を一応皿にのせてみようにも、ザンネンなことに殆ど自宅で食事を摂らないので、ご丁寧にコンロの向かいに壁に沿うように設置されたガラスの戸棚の中身はほぼ空っぽに近い。四段に仕立てられた上部とチェスト型の下部の棚、埋まっているのは上部の一段目だけだ。
それも直径十五センチほどの平皿が数枚と透明なグラスが幾つか。
備え付けのオーブンレンジは気が向いた時しか使わないし、シンクの引き出しを開けると中に仕舞った刃物は包丁よりも兄が何処からかくすねてきたらしドスの方が本数が多いことに竜胆は呆れたため息を吐いた。
どうしてこんなところに仕舞ってる?と聞いたらきっと、『なんとなく?』って言ってくるのだろう。蘭は、なんとなく、とか、直感的な行動が多すぎるのだ。
「切るの?」
「そのままじゃ食いずらくね?」
「固そう。」
「だよな。」
いつの間にか、隣に立った彼女の両手には先ほど自分が顔を顰めて『嫌い』と告げたカンパーニュが抱えられている。半円形に切られた断面にはにっくきレーズンが所狭しと混ぜ込んであった。薄く色味の付いた断面は無数の空洞と繊維のような生地が柔らかそうだが、外面を覆う焼き目はこげ茶色の平たい層が幾つも折り重なっていて、触るとやはり少し硬い。
はい、と手藁されたそれを受け取ると、竜胆は真新しいまな板の上にそれを乗せ、三センチ間隔にスライスしていくことにした。
ぱり、と硬質で香ばしい音と共に、物体が緩やかに歪んで凹む。生憎この家にパン切り包丁なんていう小洒落た品は置いてない。あるのはホームセンターで700円で販売されている安物の包丁のみだから、切れ味はたかが知れている。
きこきこ、と前後にスライドさせた刃先はそれでも使用感が皆無であるので、まあまあそれなりに切れるのか、柔らかい生地に沈んだ刃先はやがてまな板の上で静止して、ぺろりとページを捲るように薄いパンの切れ端が倒れていく。
それを何度か繰り返す間、彼女は興味深そうに切り刻まれていくその塊を凝視していた。すんすん、と鼻を鳴らす音、手元から立ち込める独特の匂いに少しずつ乾いた口内が唾液で潤っていくのを感じる。
4枚ほどの切れ端が出来ると、竜胆は戸棚から平たい皿を三枚取り出して、彼女に好きなものを乗せて、ダイニングテーブルへ運ぶように促した。お世辞にも綺麗な断面とは言い難いカンパーニュ二枚と卵ドーナツが彼女の手で皿に乗せられると、何とはなしに、甘いものの方が好きなのだろうか、と思った。
記憶の中の幼馴染はどうであったか、照らし合わせるのを止めたのは、それをしてしまうと今の彼女に自分の中のあてにもならない記憶に残る、幼馴染の姿を押し付けてしまうような気がしたからだ。
すたすたと言われたとおりに席に座った彼女を見送ると、竜胆は自分も適当に品を選んで皿に乗せると空に近い冷蔵庫からオレンジジュースを引っ張り出してグラスと一緒にテーブルへと運んだ。
白茶に近い天板の上には、先ほど兄の部屋に向かう前に口を付けたコーヒーが鎮座している。マグカップの中の煤竹色の液体は冷め切っていて、立ったまま啜ると舌が冷えた。苦味はそれほど感じないが冷めてしまうと美味くはない。
元々、革張りのソファとガラスの天板の張られたローテーブル、それからテレビと食卓くらいしか家具の無い閑散としたリビングは彼女がいるというだけで違和感がある。
帰宅直後にカーテンを開けた部屋の中は明るく白い光が充満していて、それに背を向けるようにじっと座って透明な視線で皿を見下ろす彼女が目に映ると竜胆は光の眩しさに僅かに目を細めた。はらはらと俯く顔にかかった髪の毛は細く光を受けると反射できらきらと煌めく粒を飛び散らせているように見える。化粧をしてないせいか、顔立ちは実年齢よりも幼く見えた。膝まで隠れるTシャツは、多分、兄の部屋着か何かだろう。
「食えば?」
木製の椅子に座ったまま、微動だにしない彼女に不意に疑問が沸いて、竜胆は向かいの席に腰を掛けると、そう声をかけた。顔を上げた彼女は一度、彼の顔を見つめた後に皿に乗せられたドーナツを手に取り、はぐ、と小さく口を開けて齧りつく。どうやら自分が座るのを待っていたようだ、と竜胆はその時気付いて、昔から律義な幼馴染のこの性分は、今となってもそれほど変わりがないことに不思議と安心したのだ。
竜胆は、ぱら、とパンくずを口元から零しながら、咀嚼する彼女を見届けると、自分の手前の皿に盛りつけたカルツォーネに手を伸ばした。まだ温かく薄い生地を両手で掴んで親指を中央に差し込みながら半分に割ると、ひび割れた亀裂からはトマトソースと混じったチーズがドロリと垂れて、ローストされたチキンと共に白磁に零れて広がった。ふわふわと薄く湯気が手元から立ち上り、その断面にかぶりつくとソースの酸味とチーズの塩気が口いっぱいに広がって、舌の表面が俄に痺れるような感覚がする。奥歯に当たる弾力のある歯ごたえを噛みつぶすと、じゅわりと肉汁が溢れ出し、堪えていた空腹が余計に刺激されるような気がした。
指先には生地の表面に纏わりついた小麦粉が付着してほんの少しさらさらとしている。指がソースで汚れてしまわないように、竜胆は手元に注意を払いながら時々彼女の食事の様子を観察した。
空のグラスに手を伸ばし、紙製のオレンジジュースの注ぎ口から中身を注いで彼女の方へ押しやると、口元をもぞもぞと動かした彼女が小さく礼を言う。
「なァ、オレのこと、どんくらいわかる?」
「……?アイツの弟。」
僅かばかり緊張しながら、ずっと気になっていたことを問いかけると、彼女は手元から視線を上げて、あっけらかんと声を上げる。
「はは、アイツって、」
兄が彼女を連れて帰った翌朝、無理やり引きずり出されて慌てて藻掻いた直後、抵抗するのに疲れ切った彼女が所在無げに見つめた先に、丁度座っていた自分を見止めた彼女の言葉も、確か、『コイツ誰?』だったような気がする。
『竜胆。俺の弟。』
すんなりと正解を口にした割に、兄は結局彼女の『あんた誰?』に正解を提示しなかった。それがどういう意図で、名乗らなかったのかも、竜胆には理解不能だ。
生まれた頃から一度も離れず過ごしてきたおかげで、数秒先に蘭のとるであろう鼓動も、発するであろう言葉も弟の竜胆には予測できるが、心までは予測できないのだ。動きも言葉も、予想できたところで、底に至るまでの兄の理屈も感情も全く以て理解らない。
「間違ってる?」
「いや、……そう、アレがオレの馬鹿兄貴。」
あの灰谷蘭を『アイツ』呼ばわりできるのなんて、今の彼女くらいしか地球上に存在しないだろう。彼女の、その怖いもの知らずとも言える言動に、竜胆はアハハと肩を揺らして静かに笑った。何がおかしいのだろう、と小さく首を傾げて不思議そうな顔をする彼女の様子がまたおかしい。
「何笑ってンだよ?竜胆。誰が馬鹿だコラ。」
不意に、自分を見つめる彼女の視線が斜め上に向けられると、ケタケタ笑う自分の声を遮るように、なだらかな声が頭上から落ちてくる。彼女の見つめる先へ視線を上げると、丁度自分の背後、斜め後ろにようやく風呂から上がった蘭がホカホカと肩から湯気を昇らせながらこちらを見下ろしていた。
微笑みを浮かべた口元、目線は別れた直後と同じく静かで透明だ。
「おはよ。」
「何食ってんの?」
「カンパーニュ。」
「うわ、キモ。干した葡萄なんか食ってンなよ。」
自分の不遜な言動にそれほど腹も立てていないらしい蘭は、彼女の傍まで歩み寄ると彼女が指先で抓むように挟んだパンの断面を見て、眉を寄せ、自分と殆ど同じセリフを吐いた。半分ほどに体積を減らした生地には彼女の歯型がくっきりと残されている。
頬にかかるほどの長さで切り揃えられた蘭の前髪は、面倒くさがりの彼らしく生乾きで在るからなのか、毛先に小さな雫が滴っていた。
床が水で塗れてしまうので、ちゃんと乾かしてほしいと竜胆は思った。
それから、まだ髪の毛の長かった頃は、よく自分が乾かしたものだとも、思うと懐かしい気分にもなる。小さな頃はよく自分のほうが面倒を見られたものだが、今となっては完全に立場が逆転している。老人介護でもあるまいし、ただでさえも世話のかかる生き物が一匹増えたのだから、いい加減しっかりしてほしいものだ。
眠たいので進捗上げて寝ます……。
お付き合いくださりありがとうございました!!