なだらかな陽が差す。
まだ昼間とはいえ、夏よりも空気が澄んできた。
私の横目に、離れの土蔵が流れ込む。
窓の外から見える場所に、腰を据える様に居座っている土蔵は、石造りで大きなものだ。
よく見る漆喰壁の白い土蔵と言うよりかは、冴えることのない灰色の石と、恐らく後から取り付けられたであろうガラスの窓があるだけ。
昔から親たちはあの蔵の中に入ることを避けていた。
私は七つにも満たない頃にたった一度だけ、勝手に蔵の中に入ってしまったことがある。親たちが入った後に、鍵を掛けずに開けたままにしていたことが原因だった。
しかし、蔵の中には自分よりも大きな物が多かったために、何を見たのかほぼ覚えていない。覚えているのは、ただ蔵の中に立ち入ったという事実だけだった。
私はある程度の年齢にも達したし、一緒に居る親からも暫く土蔵については何も言われていない。
もしもあの中に立ち入るのならば、今が一番良い時のようにも思えた。
蔵の鍵は幸いなことに見える場所にあり、普通の鍵のように壁に掛けられている。
今は祖父母の代が数年に一度立ち入るだけだから、鍵を分かりやすいところに置いているだけかもしれない。
ただ、見た目が古い様式の鍵なのでかえって分かりやすいのだ。
そっと土蔵の鍵を手に取る。金属の重たさと冷たさが手の中を伝っていく。
元から探求心のある自分にとって、幼い頃ぶりの土蔵の中に立ち入ることは一種の冒険だった。
もしも何かがあった時の為に、スマートフォンと埃避けにハンカチを持つ。
今は明るい時間帯なので中もまだ陽の光が差しているだろうが、極端に暗い場所などは溜まったものではないからだ。
そして、長らく誰も立ち入っていない空間に今から足を踏み入れると思うと、妙に落ち着いている自分が居たのだった。
例えるのなら、自分から向かうのではなく誰かに呼ばれている時のような、妙に冷静になっているあの感覚が近い。
蔵の前に着くと、少しだけ錆びている鍵穴が目に入る。
細やかな花の紋が描かれた金属部分は、赤茶けた様に変色している。
鍵を回すと、戸が小さくがちゃりと鳴いただけですんなりと開いた。
が、戸の立て付けがあまり良くなく、戸を開けるのに力を要したのだった。
この戸を開ける時は、必ず父や祖父のような男手が必要だったことを頭の隅で思い出しながら、戸と戸の間に石を挟んで勝手に閉まらないようにしたのだった。なので、出口の方を向くと外からの光がベールのように漏れ出ている。
鍵をポケットの中にしまい込んで蔵の中へ入ると、ガラスから立ち入る陽の光が光線のように行き交っていた。
入って何歩も進まない場所にある大きな台の上には、古びたアルコールランプや埃を被った蝋燭、古い書物が首を並べている。
他にも、自分の周りには砂埃を被った陶器や、水と花がないだけの花瓶、古い着物が入っている麻袋がある。
埃の舞う様はよく見えないが、歩くと古物特有の古臭い匂いがする。耐えられないわけではないが、鼻と口をハンカチで塞いだ。
大きな蔵に物が沢山詰め込んであると思っていたが、気になるほど物が多いわけではない。
それどころか、どこか人間味を感じる配置が気になっていた。
窓辺には丸いテーブルと簡素な木で出来た椅子、蔵の二階へ向かう階段の傍には、外套を掛ける衣紋掛けと鼻緒の色が違っている古びた下駄が一つ。
誰かが住んでいた場所に踏み入ってしまったかのような、不思議な感覚に陥る。
奥に進めば進むほど光は入らない上に、物は乱雑になっているようにも見えた。
スマートフォンのライトを点灯させ、奥を見る。
白い光の先には、古びた紙が散らばった空間が広がっていた。
よく見るとその紙は新聞紙や半紙といったもので、壁や椅子に隙間なくベタベタと引っ付いている。
半紙に墨で書き殴られたであろう字が見える。
右側から目を通すと、恐らく旧字体で達筆な文章が書かれている。半紙の中には古い言葉が多く、上手く読み解けないことが私をやきもきとさせた。
しかし左側に行くにつれて、字は崩れている。くしゃくしゃに丸められた後に書いたであろうと見受けられるものもあれば、赤黒く変色したものでベタ塗りのように字が書かれているものもある。
新聞紙の字を見ても、使われている字や文章の配置で相当古いものであることが分かる。
どう見ても一種の異様な空間ではあるが、私は何故かここから目が離せなくなっていた。
何かを読み解ける訳でもなく、かと言って何が由縁でこうなったのかも分からない。
ただ、何かが確実に私を惹き付けていた。
「だあれ?」
自分の後ろから、声がした。
少し間延びをしたような、男の人の声。
焦ってライトを消し、その場から離れる。
見つかってはいけないような気もしたが、私の聞き間違いかもしれない。⋯いや、聞き間違いであってほしいと願った。
「ご、ごめんなさい、⋯今すぐ出ます」
自分の口から出たのは、怯えきった言葉だった。
ただ、自分しか居ないはずの場所から他人の声がするのが恐ろしいだけ。
これで姿が見えてしまったら、私はどうなってしまうのだろうか。
声のする方向にはなるべく目を向けず、下を向いたままゆっくりと出口へ向かう。
「ねえ、お前はどこから来たの?」
「えっと⋯それは⋯」
その声の主は、時折無邪気な子供のように問う。
私が答えるのをクスクスと笑いながら待っている。
本当のことを答えてはいけない気がしたが、恐怖で上手く話せなくなっていた。
「見えた⋯、かわいい人、見えた、ふふふ⋯」
窓から差す光を浴びた私を見たであろう誰かは、着実に私に近付いていることが分かった。
おもちゃを見つけた子供のように笑う声が、四方八方を巡る。
極端な明暗の中を手探りで、下を見ながら歩いていると、腰の部分に何かが引っかかり、驚いて脚を取られて転けた。
恐らく、台が腰に引っかかってしまった。自分の鈍感さがこの期に及んで出てきたことに嫌気が差した。
「大丈夫?」
転んだ先は出口のある方向だが、誰かはそこに立っている。
足音ひとつさせないまま、私の目の前に来ていたのだ。
恐る恐る目を上に動かすと、藍色と薄い水色の線が入った着物が見える。
見えている足は裸足に色の違う鼻緒の下駄を履き、男性の足の形をしており、足の大きさからして背の高い人のようにも思えた。
私が動かないと思ったのか、その人はしゃがんで私を見る。目を合わせてはいけないと本能的に感じていたのに、私はその人の顔を見てしまった。
まずは耳の長さまである波打つような黒髪と、真っ白い肌が目に焼き付いた。
自分とそこまで変わらない年齢か、幾つか上くらいの人に見えた。
端正な顔立ちで、優しく微笑むような目つき。
一見普通の人と変わらないようにも見えるが、時折その目は瞬きをしては目の中が黒く濁る。
物に例えるなら、水の中に差された墨のように濁っては普通の目に戻る。
そして、その目が転けた私を見ている。
「ああ、かわいい人。
おはじきみたいにかわいい」
「えっと⋯、あなたの名前は⋯?」
「名前?
⋯僕は覚えてないから、お前がつけてよ」
名前を聞いても、彼自身は覚えていないらしい。
彼は恐らく私が生まれるもっと前に居た古い時代の人ではあると思うが、なぜこの土蔵の中に居るのかが気になっている。
「あなたは、どうしてここにいるの?」
「僕はいい子じゃないからここに居るの」
「誰かに入れられたの?」
「父上と母上だよ。
いい子になるまでここに居なきゃダメなんだって」
彼の口から出てきた『父上と母上』という人物が誰なのかは私にも分からないが、彼は自分の父親と母親に名前で呼ばれたことが無かった、若しくは少なかったのかもしれない。
少し幼稚な話し方や所作を含めると、何らかのショックや精神的な病を持っている人のようにも思えた。
名前を忘れてしまうことはあるとは言え、彼の生い立ちは恐らく明るいものでは無いだろう。
「お前のことも教えて?」
「私?」
「そうだよ、まずは⋯名前から」
「えっと⋯、 って言うの」
「へぇ、⋯ かぁ」
私の名前を聞いて聴き惚れたような顔をする彼は、覚えたばかりの言葉を呟く子供のように私の名前を呟く。
「お前はどうしてここにいるの?」
「小さい頃にここに来たことがあったんだけど、何一つ覚えてなくて。
そのことを何となく思い出して、ここに来ただけなの」
「見たことあるよ、小さい女の子。
でもその時の僕は近付けなかったんだ、お前が神様のものだったから」
「それって⋯」
「僕はずっと待ってた。
もう二度と会えないと思ってたけど」
思わず唾を飲み込んだ。
幼い頃に一度会っていた仲とはいえ、目の前に居る彼のことは何一つ覚えていないし、彼はただ私を覚えているだけだった。
「 、また会えたね」
白く隆々とした手が、私の頬に触れる。
普通の人と何ら変わらない体温を持っているようにも思えたが、まるで首を引き抜かれるような錯覚に陥り鳥肌が立つ。
細く微笑む目が、黒い涙を湛えている。
「どうして、私を待ってたの?」
「僕がお前を呼んだからだよ。
分かってるくせに」
低く唸るような声に変わる。
恐ろしくなって彼の手を振り解き、立ち上がって出口まで走る。転んだ時に打った腰の部分の痛みも気にならないほど真剣になっていたのだ。
出口の戸は入る前に石を挟んだはずだったが、外から漏れ出る光も無く、戸は固く閉まっていた。
押しても引いても戸が開くことはなく、目の前で重たく身を侍らせている。
「ねえ、帰らないでよ、僕を置いていかないで」
すぐ後ろでした低い声に身を竦めると、真っ白い腕が身体に回される。
体重を預けるように後ろから覆い被さり、着物と羽織が擦れる音が耳を掠めていく。
戸を押すために掛けられた左手に、真っ白い手が回される。大きな手が私の手首を掴むと、黒いインクの掠れがついた。
振り解く為に身体に力を入れても、金縛りにあったように抵抗が出来ない。息すらも自由に吸えないのだ。
「もう、一人は嫌なんだ」
彼は甘えるように呟きながら、黒い煙に姿を変えて消えた。
それと同時に金縛りのような拘束も解け、息も吸えるようになった。
喉をゼエゼエと鳴らしながら息を整える。一刻も早くここから出たくても、身体は言うことを聞かない。
開いていなかったはずの戸の間には石が挟まれ、私の目の前に光が漏れ出している。
丁度、私の指先に漏れた光が当たっていたのだ。
戸を開けて、ポケットの中の鍵を取る。
外に出て、入ってきた時と同じように鍵を掛ける。何一つ変わったことの無い、陽の光溢れる下界に触れると、先程のことが悪い夢のようにも思えた。
しかし、私の左手首に残った黒い掠れは嫌でも目に入る。
直ぐに家に戻り、鍵を元の場所に戻す。
洗面所に向かい手首を洗ったが、その掠れは薄れるどころか落ちることがない。油のように水を弾くものではなかった。
石鹸を使っても何をしても、この黒い掠れは取れなかった。服で隠そうと思えば隠せるが、入れ墨のように染みていく。
よく見ると、この掠れはつけられたばかりの時と違って、指を輪にした時のような痕がついている。親指と人差し指を繋いで輪にしていると言うのが近い。
自分の部屋に戻ってもどこか落ち着かず、畳の上で枝垂れていた。
夢か現実かも分からない出来事に一人で首を突っ込んでしまった上に、手首の痕は嫌味のように消えない。
まだ早いこの時間に眠る気も起きず、深く溜め息をつく。
寝転んだ畳の上で左手首の黒い痕を眺めていると、微かな物音が耳に入る。
私が思うには裸足で畳の上を歩く音だが、この歩き方は家族の誰にも当てはまらない。
少しおぼつかない歩き方で、確実に私に近付いている。
きっと、彼だ。
私があの蔵の中に居た者を連れ込んでしまった。
自分でそう分かるまで数秒もかからなかった。
もしも彼の足音がすぐそこまで来ても、決して目は開けないようにしよう。
そう決めた矢先に、足音は急激に近付いてきた。まるで見え透いた私の考えに応えるかのように、喜びを隠せない子供のように。
少し擦るようなその足音は、落ち着きなく人を待っている時のように、私の目の前や背後を行ったり来たりをしている。
案の定その足音は私の前で止まったが、私は気配が消えるまで目を開けない。
しかし、そんな私の考えも敢無く崩れ去った。
畳の上に広げていた左手首を、目の前に居た誰かは握り締めた。
その時に、驚いて目を開けてしまった。
やはり、目の前に居たのは蔵の中に居た彼だった。
私の手首についた黒い痕を親指でなぞっている。
親や家族を見つけた子供のように微笑みながら、彼は私の手を自分の頬に当てる。
「逃げたって無駄だよ、僕はお前が気に入ったんだ。
でもお前には感謝してる。お前は僕をあの場所から出してくれたから。
だから、僕がずっとお前のそばに居てあげる。嬉しいだろ?」
私の口からは何の言葉も出せず、縋るように甘えつく彼をただ見ていることしか出来なかった。
瞬きをする程に、彼の目は黒く濁る。その彼の顔は、怯えて何も言えない私に近付く。
「ああ、かわいい、かわいい、僕の 」
彼は、私を取り巻く悪い夢。
そう思いたいのに、彼の真っ黒な目に映る私と左手首の痕だけが、夢ではないと現を押し付けた。