その日はよく晴れた冬の冷え込みに苛まれる日だった。
特に冬場の山となれば、事故も起こりかねない寒さだったと思う。
薄く積もる雪と肌に刺さるような乾いた空気。
山中の空気に圧倒されながら、私は足を進めていた。
首にかけたカメラを手に取って確認する。
元来、風景写真を撮ることが趣味であるため、出先で写真を撮ることはよくある。
特に今日のような日には、普段見慣れない山の中の風景を次々に撮っている。
三つ又の木の枝、口のように開いた木の洞、根元が曲がった樹木、小さな氷柱を蓄える枝⋯。
自然や風景に興味の無い人からするとなんてことないものに見えても、私にとっては非日常のように感じられる場所を撮ることができるのは言葉には代えがたい幸せだった。
時折、山に生息している動物を撮ることもある。
リスやウサギ、たまに鳥。クマやイノシシに出くわしたことがないのは幸運のように思える。
また、かつて人が住んでいたと思われる民家を見つけることもある。そんな時は大抵臆病さが勝って廃れた民家に足を運んだりはしない。
廃屋に何があるとは言わないが、何か良からぬものを見つけてしまう気がして踏み込めないからだ。
だが、この日ばかりは普段はあまり行かない場所にまで足を運んでしまった。
斜面を下った向こうにはか細く音を立てて流れる小川があり、背の高い木々と鬱蒼と苔むした倒木に囲まれたその場所に、いつの間にか心惹かれてしまっていた。
大きな岩は腰を据え、歩くとごろごろと音を立てて転がる石の塊に足を取られる。
小枝の集まりに指を絡める。
斜面を下ったと同時に、どこから渡ってきたのかも分からない霧が立ち込める。
川霧だとしても、小川から上がってきたとは考えにくい。例えそうだとしても、霧の濃さがおかしいのだ。ものに例えるとするなら⋯、牛乳をこぼした時のような、不自然に宙を波打つ白い霧が目立っていた。
木々の隙間から漏れる太陽光が川霧を照らし、薄いカーテンのように靡いている。
川に沿って歩いて下る。
ここまでは完全に自分の勘で足を進めていた。
その道中にも、気になる箇所を写真に撮っておさめていた。⋯霧に邪魔されてほぼ写っていないものもいくつかあったような気がしている。
下った場所からどれだけ歩いたか忘れてしまった。が、私の目の前には何者かが居た痕跡が残されている。
洞窟とまではいかない洞穴に様々な大きさの石を積んで壁のようにしていたり、焚き火をするための炉を石で囲んで作っていたり。
焚き火は先程まで火が付いていたらしく、白い煙が立ち上っている。
道具などは見当たらないが、ただ見えているのは得も言われぬ気味の悪さを持った痕跡のみ。
流石にこの場所の写真を撮るのは気が引けてしまった。持ち主にとっては、勝手に人の家に上がり込んできた上に許可も得ずに撮っているようなものだろう。
「こんな所に何の用だ?」
後ろから聴こえた声に驚き、振り向く。
そこに居たのは、長身で体格の良い、短い黒髪を持った男性だった。
衣服などに汚れはなく整っているが、如何にも古そうな着物を重ねて着ている。
明らかに山に似つかわしくない容姿のその人は、訝しげにこちらを見ている。
「⋯お前は何の使いだ?」
「え、えっと⋯すみません、通りがかっただけなんです」
「通りがかった、⋯そうか」
私の口から出た言葉を自分の口で咀嚼するように繰り返すと、その人は静かに炉まで足を進める。
その人は腕の中に納まっていた薪を静かに焚べると、火が付いて微かにパチパチと音を立て始める。
静かに後にしようとしたが、その人は焚き火の前に胡座をかく。
「来い」
手招かれてその人の元へ向かうと、手で『隣に座れ』と合図をされる。初めて見た時よりも彼の身体の大きさがよく伝わった。
見下ろすかのように見られているが、威圧感は感じられない。
「山に一人で足を運ぶとは、随分と肝の据わった者だ」
「そうなんでしょうか⋯。
でも、一人で行くのも帰るのも平気になってしまったんです」
「大昔の猟師共は山に入る時に自分以外の人間を一人連れていた。
お前を見る限り、猟師ではないな」
「ええ、猟師ではありませんよ。
趣味で山や海に行くのが好きなんです」
「何時も、お前は一人なのか」
「はい。
私の周りには、同じような趣味を持つ人がなかなか居ないので⋯」
どこか人離れした何かを感じさせるその人は、淡々と私に質問をする。
かと言ってその質問は過度に失礼なものではなく、当たり障りのないものに思えた。
「今日が何の日か分かるか?」
「⋯いえ、分からないです」
「山の神の日だ。
猟師や樵ですらもこの日は獣に手をかけず、木を伐らない。
⋯よりによってこんな日に出会うとは」
「は、はあ⋯そう、だったんですね」
「知らずに来てしまったのなら仕方がない。
だが、この辺りは猿や猪も寄り付かないから安心するといい」
「どうしてですか?」
「⋯」
私がそう聞くと、その人は黙りこけてしまった。
少し考えるような素振りを見せながら、その人は私の目を見る。
「俺が人間に見えるか?」
「見えます。
⋯でも少しだけ、人間とは違う感じもすると思ってました」
「鋭い勘だな。
今でこそほぼ人と変わらない見た目になったが」
「昔は、こうじゃなかったってことですか?」
「砕けた言い方をするなら、そうだな。
序に俺の話をしてやろう」
― 大昔、一人の神様が居た。
その神様は生まれつき大きな体躯と知恵を与えられていた。
知恵を使って自然を守り、手足を使って人間達を繁栄させることが、その神様に与えられた役目だった。
しかし、そんな神様に相反して人間達は動物を狩り尽くし自然を穢していた。
神様は様々な形で人間達に知恵を貸そうとしたが、人間達は自分勝手なやり方を広めて聞き入れようともしなかった。
もどかしくなった神様は、まずは親しい人を作るべきだと思って人に近付いたが、身体の大きな神様を恐れた人間達は決して近付かず言葉すらも交わさなかった。
その一方で自然は穢されて滅び、動物達も日に日に減っていく。
悲しみと無情さに暮れた神様は、里を抜けて山の中に籠ってしまった。
山に籠り続けていたある日、神様は山の中で人間に出会った。
数人ほどの人間は、何かを囲んで蹴り上げている。
蹴り上げているそれは弱ったウサギだった。
ウサギが死んだと分かると、人間達はウサギを血眼になって奪い合った。
そしてウサギを奪い取る為に、一番力のある者が一人ずつ人間を殺して最後にウサギを持ち帰って食べる。
山の麓の里は、こうして食べ物の取り合いで人を殺めてしまうほどの飢饉に見舞われているらしい。
だが、神様は飢饉に見舞われた里の風景を見ても何とも思わなかった。
自分を除けて繁栄の道から遠ざかったのだから、仕方の無いことだと思っていたのだ。
そう思うと、途端に恨みのような感情が芽生えた。
自分勝手な人間はこのまま滅んでしまえばいい。神様はそう考えた。
神様は山の動物を殺して回った。人間達が生き長らえることがないように。
神様は川や池の水を枯らして回った。田の作物が育たないように。
そして、神様は心の底から人間を憎んだ。
そしていつしか里が滅び、草木に覆われるようになった。
かつての里は、殆ど自然に戻っていた。
ある時、山の一部が崩れるほどの大雨が降った。
そしてその弾みでまたもや山の中に池が出来た。
神様は水鏡で、久しく見ていない自分の姿を見た。
大きな体躯はそのままだったが、どこかが違う。
神様はその時気付いた。
健康的であった肌色は死人のように青白くなり、髪は伸びて傷んだ筆のよう。
そして大木が黒く根を張るように、頭には大きな角が二本生えていた。
人間への憎しみ故に蛮行に耽っていた神様は、零落して何時しか鬼になっていたのだった。
そうして一人、神の座から堕ちたまま人の姿を得て、山の中で何時までも醜い鬼として孤独に暮らした⋯と。
「⋯さて、どこまでが本当の話だと思うか、お前に聞いてみよう」
「全て本当の話のように聞こえましたよ」
「まぁ、全て本当の話だが信じなくてもいい。
戯言だとでも、何とでも言え」
「古い言い伝えを聞いている気分でした」
「⋯生き残りを生むことなく滅んだ里のことなど、滅ぼした者にしか話せないだろう?」
目を見て聞かれて、思わず顔を避けてしまう。
例えようの無い恐怖が霧に姿を変えて周りを取り囲む。
「初めてだ。
俺の話を最後まで聞いてくれた人間は」
そう語りながら、目を細めて笑う。
喜びに応えるように、焚き火の火は赤く跳ねる。
「あ、あの、私、この辺で失礼します」
隣から立とうとすると、大きな手が手首を掴む。
怪訝な表情しつつ、口元は歪に微笑んでいる。
「お前が今生きているのは、俺の話を最後まで聞いたからだ。
俺を恐れて話も聞かずに立ち去った者は、皆俺の食い物になった」
「じゃあ、手を離してください」
「生かすとは言ったが、逃がしてやるとは言っていない」
「い、嫌です、離して、」
「それは無理だ。
お前は此処から逃げられない。
此処から出たとしても、獣に臓物を抉られて食われるのが先か、山の神に目を付けられるのが先か」
何度その人の手を離そうとして身を捩っても、その手は離れないどころか手首にめり込んでいく。
痛みを堪えながら、距離など無いに等しいその人を避けようと必死に藻掻く。
「此処に居るのが安泰だ。
此処には獣も山の神も近付かない。
⋯きっと山の神がお前を見つけたら、嫉妬に狂って命を取りに来る」
喉の奥で笑いながら、その人は私を脅す。
今此処で命を取られそうになっていると言っても過言ではないのに。
「俺と一緒に居るならお前に危害は何も無い。
山の神は鬼に近付くことなど穢らわしくて敵わないと思っているようだからな」
空いた片手が私の頬に向けられる。
頬を撫でるように触れる白い手は、生暖かく人と寸分違わない。
だが、私の目を見つめるその目の奥には明らかに黒い何かが潜んでいる。
「   、⋯   、か。
良い名を与えられたのだな」
「どうして、私の名前を」
「お前に触れたからだ。
どこでどう育ち、どんな人間とどんな関係を築いたか。
⋯俺には全て分かる。
お前が口先ばかりの人間では無いことが」
霧の中から、けたたましい笑い声が聞こえる。
人が足を運ぶはずのない日に、大勢の人の気の触れたような笑い声が聞こえる。
そんな恐怖に怯えていると、その人はくすりと笑う。
焚き火の炎は色を変えて青く燃え盛る。
「木が人に化けて笑っているのが恐ろしいのか」
「だ、だって、その⋯」
言い返そうとして、言い淀む。
今目の前に居るのは人の姿を覚えた鬼。言葉一つで私を殺すことも出来るはず。
そう考えると、恐怖で言い返すことが出来なくなってしまった。
「可愛い奴だ。
山に慣れた人間が、たかが笑う木に怯えるとは」
くすくすと笑いながら、私の頬を指で撫でる。
「お前を山の神などに渡しはしない。
此処で、俺の下で一生を過ごせば良い」
「そんな、⋯帰りたいだけなのに⋯」
「帰る?無理な話だ。
俺はお前を娶ると決めたんだ」
「い、嫌、お願いです、帰してください」
私が身を捩って強く拒絶をすると、その人の顔はさっきよりも死人のように青白くなる。
髪を割いて、黒い枝のような角が生え揃う。
見下ろす目の中には、割れたガラス玉のように細い亀裂が走っている。
その人と私の身体の回りを、伸びた黒い木の枝が這いずり回る。茨のような棘はなくても、身体に突き刺さる枝の先端がパキパキと音を立てる。
「穢れた下界になど帰してやるものか。
若しもお前が山を下りて帰ったら、お前の周りの人間を皆殺しにしてしまおう」
教えを説くように囁くざらざらとした低い声が、広い場所で反響する音のように跳ねて回る。
その間にも身体を取り囲んでいく木の枝は服を突き破って肌に刺さるが、痛みは一瞬で消えて無くなる。
意識が朦朧としていく。
さっきまで頭の中の殆どの領域を占めていた恐怖は姿を隠し、代わりに諦めが姿を現した。
世界が自分だけを切り離していく。
そんな感覚を味わいながら、か細い意識の糸を絶った。
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#8 愛に至る怪異
初公開日: 2022年01月22日
最終更新日: 2021年12月23日
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