100年を超えたとき、自分の歳を数えるのをやめた。もう誰も俺を「不死身の杉元」とは呼ばないが、けれど確かに、俺は不死身だ。
いつか君に殺されても
尾形に気づいたとき、俺は京急線に乗っていた。
さびれた駅に面した古いアパートの、階段に座り込む子ども。それが尾形だった。発車メロディが鳴り、車窓が流されていく。あたりがシン、となり、耳のすぐ内側で心臓が鳴る。そして遅れてやってきた拳の痛みに、電車のドアを力いっぱい殴っていたことに気がついた。
鉄道が都市を走る血管なら、ここはその抹消だ。老廃物をまばらに乗せて、沿岸の工業団地を行く。アパートに部屋を借りたのは、尾形が死ぬまで眺めてみたい、という興味からだった。俺はもう生きるのに飽きていたし、かといってどうせ死ぬ人間と情を通わせるほどには老成していない。だから誰とも関わらない。けど、尾形だったら俺の心を乱すこともないだろう。そう思った。おかしいか。
尾形はまだ子供だ。歳はよくわからない。出会った頃のアシㇼパさんよりもだいぶ幼い――と思っていたら、あるとき児童相談所がやってきて、6歳だと聞いた。
俺はこの街をすぐに気に入った。海だったところを埋め立てちまって、排煙まみれの、人が住むような場所じゃないところ。そんな印象は、俺の認識が数十年前で止まっているせいだった。
今はさびれながら活気のある、薄汚くて清潔な、独特の親しみに満ちた街だ。アパートの隣には墓地が広がり、そして隣の部屋に、尾形が住んでいる。
その子供が学校に行くところを、見たことはない。いつも同じ服を着ていて、真夏でも長袖のトレーナーを、袖を引っ張るようにして着ている。そしていつもアパートの階段に腰かけて、電車を眺めていた。俺は、その子供が尾形だなんていうのが俺の妄想で、とうとう自分の気が違ったせいかとも思ったが、真っ黒な目を見れば、そいつはたしかに尾形だった。
ただ眺めていようと思った。尾形が死ぬまで眺めていようと。もうずいぶん前から、誰とも交わるのをやめていた。俺は年をとらないし、関わればいずれ添い遂げられない身の上がつらくなる。寿命ある人間の人生にかかわることすら、冒涜的だと思えた。だから、眺めることにした。いうなればこれは、暇つぶしだ。
その日の真昼、本州に上陸した台風は強い勢力を保ったままのろのろと進み、すべてを破壊しようとする雨と風が吹き荒れた。
「尾形」
俺が禁を破ったのは、そのせいだった。季節外れの、でかい台風のせい。
声をかけると、子供は不思議なものを見るような眼でこちらを見返してきた。尾形はずぶぬれで、俺もそうだった。駅からの短い道のりを前のめりになって帰ってきたとき、子供は1階の、階段の裏側でじっと雨風に耐えていた。黒い眼だけが、巣穴から外をうかがう野生動物のように光っていた。見ているだけにすると決めていたのに、そのとき湧きあがった感情を怒りと定義したのは、その手を引っ張り上げて自分の部屋に連れて行ったあとのことだった。
「--尾形、……ええと、尾形でいいの? なまえ」
間近で見ると、ますますその子供はみすぼらしく、頼りなかった。小枝のような腕がマグカップを受け取って、小さくうなずく。
尾形。尾形か。あらためて名前が付くと、それは不思議な生き物だった。真っ黒い目玉とあの特徴的な眉はそのままに、俺の腰ほどの体をして、ほつれたトレーナーとジーンズを体に張り付けている。
ひとまずのところシャワーを浴びさせて、牛乳でもあればよかったがないので水道水をチンして渡す。この生き物は、嫌みも言わずにそれを受けた。
「あの、名前」
「ん、ああ。杉元」
「すぎもとさん」
「杉元でいいよ」
それだけの短いやり取りで、あとはどんな言葉も交わさなかった。子供は俺の部屋の古いテレビをじっと見ていた。膝を抱えて動かず、じっと、まばたきすらしていないように見えた。家の鍵は、とたずねると、首を振った。6歳の子と何を話せばいいのかなんて、100年生きたってわからない。深夜を過ぎて、やっと外が静かになった。朝になってから、隣のドアが開く音がした。
「一人で帰れる?」
と尋ねると、尾形は
「またきてもいい?」
と、言った。
「尾形はいったことある? 東京」
「ない」
「そっか。どこまで行く?」
「……すぎもと、えらい人はどこにいる?」
俺はこの暇つぶし――暇つぶしのはずだった。ただ、尾形が死ぬまで眺めている。それだけの暇つぶし――をいつまで続けるのだろうか。車窓をみる横顔を見るともなく見ながら考える。6歳のときの自分というものを、俺はもう思い出せない。6歳のときにあった出来事を、人はどのくらい覚えているのだろうか。早く手を離さなければ手遅れになると思いながら、離したくないのは自分のほうなのかもしれなかった。
偉い人はどこにいる、と尾形が言った。父親を捜すのだと言っていた。本当は父親なんか会わなくてもいいのかもしれないし、会って言いたいことのひとつもあるのかもしれない。俺にはわからない。尾形は多くを語らないし、子供のくせに表情にとぼしかった。けれど、言葉に出さないことと何も考えていないことは違うのだ。少なくとも、その小さな体におさまらないほどいろいろなことを考えて、けれどそれを外に出す力がないのだということが、俺には伝わってきた。
どうか武器を与えてほしい。このたよりない、いじらしい腕に。握る手に力を籠めると、尾形は電車のシートから垂らした足を所在なさげに揺らした。
品川まで出て、路線図を眺めた。東京っていうのはさ、けっこう広いんだよな。皇居を中心に同心円状に広がりながら、いくつもの街をかかえている。子供の静かな、そしてはち切れそうなほどの考え事を秘めた目がじっと路線図を見上げて、やがて「わかった」とつぶやいた。
俺たちは列車に乗って、どこにも行かなかった。なんとなく山手線のシートに座り、うとうと眠って、アパートに帰った。
気づくと夏が終わっていた。思えば、あの台風は終わりの合図だったのだ。秋は終わりを知りながら進むように、さびしい。別れるときに、「もう寒いだろ」とマフラーをやった。それを最後にした。
★次回、20年後の大人尾形 執念の再会