人は、周りの人間と言われると、自分を中心にした半径三メートルの中に入る人物のことを考えるらしい。
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「小さい犬ほどよく吠える、っていうよね」
昼下がりの喫茶店。落ち会ってすぐのハルはそう言った。
彼の目線の先にいるのは斜め後ろに座る男女。その二人は、先ほどからずっと言い争いをしている。女性のほうがなんとなく声の勢いが優勢で、そして小柄な体を白いフリフリな服で纏っていた。その姿は、高級住宅街に飼われているチワワがリードをギリギリと引っ張りながらキャンキャンと吠えている様を彷彿とさせる。プライドが高くて、汚いものは嫌いで、ちょっと自己中心的で、ヒステリック。
よく吠える小型犬。ナポレオンコンプレックス。なるほどね。
「……ちょっとやめなよ」
共感しそうになっていたけれど、私はたしなめるようにハルに言った。ちらり、とその二人の様子を見るが、どんどんヒートアップしていくチワワ女が怖くなってすぐに見るのをやめてしまう。どうやら気圧されている方の彼が浮気か不倫をしたらしい。あの女がー、とか、あの頃にはもう付き合っていたのね、だとかもうドラマでも聞かないようなあからさまな言葉が次から次へと出てくるからだ。私はそれを聞いていて、へぇやっぱそういうのってあるんだなぁ、なんてのんきなことを考えた。
すると、ハルがよかったね、と笑った。ハルの目は未だ二人の口げんかをガン見している。いや、だから、見るのやめなさい。私、絡まれたくないからね。
「何が、よかった、って?」
「おれ、浮気とかしないじゃん」
「馬鹿、声大きい」
ハルの声はよく通る。私は全く配慮のされていないその声量にびくつきながら、そっと後ろの二人の様子を伺う。すると言いたいことを言い切ったのか、それともハルの『浮気』という発言が耳に入ったのか。彼女は息切れをしながら黙っており、彼の方はというとカチコチに固まったまま自分の膝辺りを見つめている。言い返しも、嘆きも、それこそ躾もしようとはしなかった。
うわぁ、もうあの二人終わりだな。そう思うのと同時にこうも思った――私達にもああいう嵐がくるのだろうか、と。
私達は付き合ってから、ケンカというケンカはしてこなかった。気が知れた友達関係のその延長線上で、付き合っとくか、なんて言って始まったからだろうか。とにかく元々私のパーソナルスペースにいたそいつは、異性の意識が生まれるのに合わせて友達から恋人という役柄に変え、そこに居続けている。一説によると人は、周りの人間と言われると、自分を中心にした半径三メートルの中に入る人物のことを考えるらしい。ハルは、最近三メートル以内に突如としてやってきた異星人でも、旅人でもない。けれど、どんなきっかけであれここに嵐が来るのならそれはそれは酷いものになるのだろう。気心知れた仲だからこそ、どちらにもお互いの首輪にかかった手綱を握っている。その手綱を引き絞りながら、私達の嵐は激しく暴れ狂うだろう。まぁ、今のところそんな予定はないんだけど。
ハルは身を乗り出して今にも二人に話しかけに行きそうだった。実際そんな彼の無鉄砲さを重々知っている。だから、私はまたも彼の手綱を引くのだ。
「もうここから出よう、ハル。あれは私達に見せるためのものじゃない」
そして彼に引かれた手綱が、私の首にかかる首輪を動かす。
「えー、お前だって見たいんじゃないの? あいつらがぶっ壊れるとこ」
オレたちにはないアクシュミな場面。小声でそう言い、笑っているハルに心底恐れながらも、私は彼の恋人であることに強い自負を感じた。
喫茶店から出ると、ドアにつけられたベルがカランコロン、と鳴る。まるで首輪につけられた鈴の音のようだ。私達はお互いの手綱を引きあい、そして惹かれてあっているのだ。
なんとなく触れた手を握ると、ハルもにっこりと笑って握り返す。そして、街へと歩き出した。