曇り硝子の重たい引き戸を開けると、そこには熱気と硫黄のにおいが立ち込めていた。お酒ですでに温まった体を、さやと涼やかな風が撫で付ける。
「おぉー」
小さく感嘆の声を上げる。
温泉なんてどれくらい振りだろう。基本的に家業が家業なものだからあんまり家族旅行をしたことはない。小さい頃はおばあちゃんも元気だったからちょくちょく行ってたらしいけど、残念ながらわたしの記憶にはあまり残らなかったみたいだ。
燈子が大きな舞台を無事に成功させたので、祝賀会兼慰労会ということで温泉街に来ていた。遠見からそこそこ距離はあったけれど、長距離運転にもすっかり慣れたわたしには程よい距離だ。
本当ならわたしがお金を全部出したかったものの、燈子の劇団での収入がわたしのバイト代を遥かに上回ってるので、少しだけ出してもらった。まぁその分、いいとこが取れたんだけど。
今は夕食に舌鼓を打って満足したあとだった。
なんにせよ入り口で立ち止まるわけにもいかなかったので、そのまま中へと入っていく。
適当な場所に陣取って自前のシャンプーリンスやボディーソープを取り出して体を濡らしてると、断りなしに隣に人が座ってきた。
「侑、先行かないでよ」
座るなりそう燈子がぶーたれてくる。
「更衣室で裸で待つとか邪魔でしょ」
こちらとしても言い分はあるので、髪をわしゃわしゃと洗いながら文句を返した。
「邪魔じゃないよ?」
「燈子じゃなくて他の人がー。大体脱ぐだけなのに時間かかり過ぎなんだって」
「むー」
燈子のむくれる声が聞こえる。
あぁいうのは意識しないのが大事なんだ。他の人だって裸になるんだし、変なことじゃない。
まぁ体を隠すのがタオル一枚だけっていうのが心許ないのは分かる。わたしはそれで足りるけど。うん。言ってて悲しくなってきた。
「先入ってるよー」
「えぇーっ」
手早く体を洗って、悲鳴を上げる燈子を残してさっさと湯舟へ。だって燈子、いっつも遅いんだもん。
そりゃあ、髪があんだけ長いと手入れ大変なんだろうなとは思うけど。
……発育の違いは気にしない。うん。そこは洗う時間に関係ないはずだ。
お湯加減を確認する。結構熱い。恐る恐ると足の指先から湯に浸けていくと、痺れが走ってきて、すぐにかっと熱が灯る。
息が詰まりそうになりながら肩まで浸かって、しばらくしてようやくゆるゆると息を吐き出した。
「あぁー……」
じわじわとこの熱さが気持ちよくなってくる。
当然だけど家のお風呂より熱いよね、これ。熱さと汗と体の解れ具合が違うのは気のせいかな。
「侑ってば、もー」
遅れた燈子がざばざばと湯舟を歩いてくる。そんな勢いで入って熱くないんだろうか。
風にさらされているとはいえ、温度差に湯煙が湧き立っているけれど、その中においても燈子のメリハリのきいた体は目立つ。心なしか、いくらか視線が集まってる気もするし。
燈子は気付いてるのかいないのか、わたしの隣に座り込んだ。
うーん。それにしても、こう。
「どうかした?」
「燈子、また大きくなってない?」
「どこ見て言ってるの」
わたしの発言に立派に育った体を湯舟と両手で隠す燈子。
なるほど、わがままボディって言うのはこういう感じだから言われるんだな。アルコールと熱に浮かれた頭で変なことを考える。
「どこって、わざわざ言わなきゃだめ?」
「言わないでよわざわざ」
「そんなに?」
「恥ずかしいじゃん」
「えぇ……」
今更恥ずかしがるところだろうか。いつも自分から押し付けてくるくせに。そこの辺り、燈子の恥ずかしがるポイントは未だに掴み切れていない。
「侑は足派だと思ってたのに」
「なにそれ?」
「沙弥香と違うって信じてたのに」
「ちょっと、詳しくお願いします。詳しく」
そっぽを向きながら零す燈子に思わず聞き返す。
わたし、そんなこと言ったことあるっけ?
ていうか佐伯先輩はなにをしでかしたの?
「侑、顔赤いよ?」
「話逸らさないでください、今、わたしは佐伯先輩との関係を見直すべきかどうかの瀬戸際なんです」
「酔ってるよね?」
「一緒に呑んだじゃないですか。そんなことより」
「とりあえず侑、落ち着いて。ここ他の人もいるから」
……そう言われれば引き下がる他ない。まさか燈子にそういうことを言われるとは思わなかった。裏切られた気分だ。
ちょっと頭を冷やすべく水風呂に突っ込んで数分、ようやく燈子の元に戻ったわたしは、さっきまであれだけ茹だってた頭が嘘のように冷えていた。
「……ごめん、燈子」
「うん、いいんだけど。珍しいね、侑があんなになるなんて」
……うん。一度冷静になるとひどいな。普段お酒吞んでからお風呂入っても平気だったから、今日もいつものようにしてたんだけど、思った以上に酔いの回りがすごい。
呑み過ぎたのか、運転の疲れもあったのか、温泉の血行促進の効果なのか。いずれにせよひどい。
「さっきの話、続ける?」
「いや、もういいよ。軽口だったんでしょ?」
「そう。もう、心臓に悪いんだから」
「ほんとごめんって」
まぁ、さっきのはほぼ勢いで言ってただけで、本気で佐伯先輩とぶつかろうって気はなかったけど。でも今度からは気を付けよう、うん。
「温泉と言えば殺人事件だよね」
とりあえずこの話はここで切ろうと話題を変えると、燈子はきょとんとした。
「え、なにそれ」
「お昼のサスペンスドラマ的に」
「あー。私はあんまり見たことないからなぁ」
わたしも別に好き好んで見てたわけじゃないけど、お母さんとかが録画してよく見てたものだから自然と一緒に見てた。
「燈子も見とけば? 話のパターン同じのばっかだけど。その内そんな仕事くるかもよ?」
「えぇ、なんでよ?」
「似合うと思うけどなぁ。推理力だけある一般人の主人公枠だとか、あるいは美人薄幸な犯人役? 旅館の女将さんとかいけそう」
「ねぇそれ褒めてなくない?」
「褒めてるよ?」
だって主役なんだし。
燈子は割となんの役でもこなせるけど、主要人物に置いたら映えやすいと思う。素人の贔屓目だから、プロからしたら違うのかもだけど。
「大体なんで温泉でわざわざそんなことやるの?」
「大概長年の恨みだとか痴情のもつれだとかだけどね」
「へー」
興味あるのかないのか微妙な相槌。
燈子のことはなんだって分かると思ってたけど、どうにもその色が判別付かない。
……ていうか、うん、ちょっとこれやばいやつだな。
「……あー、ちょっと先上がるね」
「ちょっと、侑?」
ざばりと立ち上がって一歩を踏み出したところで、ふ、と体の感覚を失う。
「わ」
上げかけた声はなにかに遮られる。
……遠くなってた感覚が少しだけ戻ってくる。何故だか暗い視界によく目を凝らすと、目の前には見慣れた顔があった。
「大丈夫?」
辛うじてその声が聞き取れる。
ぐるぐると回る頭で状況を理解しようとして、ようやく足を踏み外したんだと気が付いた。
「あ、うん」
ただ、返事がぼんやりしたものだったのは。
受け止めてくれた柔らかい体の熱が、心地よかったからで。
「もー、あれだけ呑むのあとにしたらって言ったのに」
ちょっとあんまり表情や声色が判別できないけど、きっと心配してくれてるんだろう。
うーん、折角のお祝いなのに情けないことしたな、とちょっと自己嫌悪しつつ、口は素直じゃなかった。
「仕方ないじゃん、あんな美味しいのにお酒吞まなかったら失礼だよ」
「怪我なんかしたら大変なんだから」
「うん。ありがと」
そんな会話を交わしながら、燈子に支えられて浴場をあとにする。
……更衣室で看病を受けてすっかり落ち着いたあと燈子に平身低頭することになるのは、その十分あとのことだった。
「料理美味しかったよね」
「そうだね」
「燈子のお腹も満足そうだし」
「今のお腹見るのは止めてよ」
「侑はあんまり出ないよね」
「」
「燈子ー、着いたよー」
助手席に声をかけると、うつらうつらと舟を漕いでいた燈子が目をこする。
「あれ、寝てた?」
「少しだけね」
車から降りると、揃って伸びて大きな欠伸を漏らす。
「温泉のにおいだー」
「そりゃあ、温泉街だからね」
ごろごろと荷物を転がしながら予約していた宿へと向かう。