そこは鄙びた山中にある、一軒の民家だった。
元は豪農だったのだろう、広く、大きく、独特の作りは、疲れた私の足を呼び寄せるのに十分な手入れがされていた。
「すみません、どなたかいらっしゃいませんか?」
声をかけてみる。私の呼びかけは、しんとした森に吸い込まれる前に家人に届いたようだ。一人のご婦人が現れた。
「どなた様でしょうか?」
「すみません、わたくし、仕事の加減でこちらの山を歩いておりましたところ――」
「ああ、雨がすごかったでしょう。それで下りられなくなってしまわれたんですね」
「ええ、そうなんです。よくおわかりになられましたね」
「ここではよくあることなんです。どうぞ、お泊りになっていってください。お代は街のお話など効かせていただけますだけで結構ですので」
「本当ですか、すみません。それでは軒をお借りします」
「こちらへどうぞ」
そのようなやり取りでもって、私はこの家に招かれた。名刺を差し出そうとすると、それは上がってから、と固辞される。客人の対応に慣れた雰囲気から、私の心もほぐれるのが早い。手巾をもらって水盥で襟や足を拭い、居間へと上がらせてもらう頃にはすっかり、以前からの知り合いであるかのようにくつろぐ心地になっていた。
「熱いのでお気をつけください」
「ああこれは、お構いなく」
「いえ、どうぞ。ところで、お客様はお一人でこちらにおいでになられたので?」
「ええ、あいにく助手などを雇えるような身分ではありませんので」
「それは難儀されたことでしょう。なにもない家ですが、今夜はごゆっくりお過ごしください」
「恐れ入ります」
本来であれば私有地であろう山に勝手に入った時点で責められて当然であろうところで、婦人の深入りしないさりげない気遣いに救われる思いだった。
研究や、持ち歩いていた本について話しながら夕食をいただいて、風呂へと案内される。
薄暗い廊下を提灯片手に歩く婦人のあとをついて歩きながら、この家について初めてと言っていい説明を受ける。
「お客様、恐れ入りますが、こちらの廊下の先へはお進みくださいませんよう、お願いいたします」
「こちらの先ですね、わかりました」
「――お風呂はこちらでございます」
「ありがとうございます」
湯から上がって一息つきながら居間へと戻ろうと足を進める。十字に差し掛かったところで婦人の声が蘇ったが、入るなと言われたところへ行こうとする気など起きず、私は光の漏れる居間のふすまを開けた。
「――おかえりなさいませ、お客様。お湯加減はいかがでしたか?」
「いい塩梅でした。おかげさまでだいぶ疲れも抜けて、今夜はいい夢が見られそうです」
「それはようございました。酒精の用意がございませんで申し訳ないのですが、甘いものがお嫌いでなければこちらなどお飲みくださいませ。お布団へはその後お連れいたしましょう」
「おお、これは甘酒ですか。いただきます。やあ、うまいなあ」
思った以上のもてなしにふわふわと気持ちが上り始めたところで湯呑みの中は空になり、私は寝間へと案内された。灯りが消され、意識は闇の中……。
ふと、目が冷めた。ふわりと何かが鼻先をかすめたような、そんな感覚に起こされた、と言ったほうが正しいか。
ほのかに甘い香りは、子供の頃に嗅いだことのあるものだった。山でよく見る雑木、白粉花だ。
最初私は口に残る甘酒の香りかと思ったが、この赤子の肌をなでたような香りは違う。そしてその匂いにつられて、私は布団を抜け出し、廊下へと続くふすまを開いた。
するすると引かれるように、私は匂いの元へと歩いてゆく。
そして、いつの間にか婦人に止められた十字の先へ行こうとしていた。
ああ、いけない――、そう思いながら歩む足を止められずにいるので、私はきっとこれはやはり夢で、今も私は布団の中で眠っているのではないかと思い始めた。
古くとも使われた木がよほど頑丈なのか、とてもよく手入れされているのか、足音一つせず私を受け止める廊下は、相変わらず暗い。しかし、不思議に発光しているかのごとく己の手足は目に見えて、私はだから余計に「これは夢なのだ」と思うようになっていた。
するする、する……。
廊下はとめどなく、私の足も止まることなく、ようやく立ち止まったかと思えば、そこはどこぞの一室の前だった。物置きであろうか、つっかえのある木戸の隙間から、ぼんわり明かりが漏れている。
私はなんの気構えもなく自然に支え棒を外して、
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20210829 お題怪談「宿」
初公開日: 2021年08月29日
最終更新日: 2021年08月29日
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書けるとこまで書くぞー!
わんらい。