すみませんでした、と謝るトウイに、よけれなくてごめんねと笑うと鉄錆びた生温かいものが一筋くちびるに落ちた。鼻血を出すのは久しぶりだな、ともらったティッシュをあてがって、浅く息をする。
 紅白戦の最中の事故だった。キャッチをかわしたトウイが体勢を崩し、バランスを取ろうと咄嗟に振った腕が支援に入ろうとしていたおれにぶつかってしまった。大した怪我ではないものの、鼻血が止まるまでは座っているしかない。そわそわしながら紅白戦の続きを眺めていると、冬居が申し訳なさそうにもう一度すみませんと頭を下げた。カバディをやっていればこんなことは珍しくなく、トウイだってそれは充分わかっているはずなのだけれど、派手な量が出てしまったので練習に戻るのが遅れそうで、それがひどく申し訳ないのだろう。話を逸らすべく、先程のレイドを褒める。
「トウイ、判断うまいし早いね。ちゃんと仕事するけど、むりしないから捕まらない。どこで判断してるの?」
「捕まらないかどうかです。捕まると痛いじゃないですか。痛いの嫌なんです」
 率直な答えはあまりにも予想外の内容で、思わず声をたてて笑った。つかまると痛いかぁ、痛いのいやかぁ、そっかぁ、それは、たしかに、そうだよねぇ。なかなか笑いがおさまらず肩をふるわせていると、トウイは困惑したようにおれを見ていた。ごめんごめん、いや、ほんと、そんなこと言う人はじめてだったけど、言われてみればそうだなって、おもしろくてさ。
「ヴィハーンさんは痛いの嫌じゃないんですか」
 ようやく笑い終えたところに、逆にトウイから質問してきた。うーん、痛いの自体は、無いにこしたことはないと思うし、倒されたくもないけど。そうでしょう。でも、いたいの、きらいってほどじゃないな。そうなんですか。うん、攻撃失敗だからくやしいけど、それとは別に、なんていうか、ここに立ってるなって、自分のからだがあるんだって、そういうかんじがあるからさ。からだがある、というのは、ヒンディー語の言い回しの直訳かなにかですか。ううん、慣用句とかじゃなくて、ほんとに言った通りの意味だよ、ボディイメージがあいまいになるかんじ、トウイは、経験ないの。想像がつかないので、たぶん、ないです。そっかあ、そういうものなのかなあ。左手をすっと伸ばし、指先をひらひらとそよがせて見せる。
「こうやって腕を動かしても、思ったところまで指が伸びない、とかさ。こう、からだのりんかくがぼやぼやして、泥でできてるみたいに定まらない感じ。タッチのときに狙いがずれちゃったり、タイミング遅れたりして、ちょっと困る。さっきもね、本当ならよけれるはずだったんだけど、思ったのとタイミングずれてぶつかったから、トウイのせいじゃないよ。きにしなくていい」
 指は、おれの意識よりコンマ数秒ほど遅れているように思われた。意識上の動きと実際の動きのズレが、残像のようにおれのアウトラインをぶれさせ、肉体の境界をじわじわと溶かしていく。元々は身体の軽さとやわらかさに頼った動きが多かったおれのプレースタイルは、アカデミーで基礎的な動き方を叩き込まれてだいぶ矯正されたとはいえ、やはりいまでも癖が残っている。手足を動かしても、スピードや到達点の精度が思うように上がらない。伸びなやんだ身長と体格相応の筋肉しかないおれのような軽くて速いレイダーは、精密な身体操作も生死を分ける重要な技術のひとつで、だからこのイメージの齟齬にはずっと悩んできた。アカデミーで相談しつつ練習を重ねてきたけれど、度の合わない眼鏡をかけさせられたようにボディイメージはぼやけてゆき、ますますコントロール精度は落ちている。いまのおれはサンダーが「奥武に来てくれたら助かる」と望んでくれたほどの選手だろうか、と自分を疑うたび、肉体はまるで泥でできているかのようにゆるみ、輪郭を無くした肉として、埒外のものに変わっていく。
 原因はなんとなくわかっている。努力を続けてもおれの指はむなしく地を掻くばかりで、理想とするカバディには到達できていない。結果を出せない努力など何の意味もなく、つまるところ、努力とは認められない、実りの少ない日々しか積み上げられないおれの精神は、その不甲斐なさに焦れたおれの肉体からの信頼を失っているのだろう。
「……キャッチをよけるときって、こう、視線とか、手の雰囲気とか、来るなーってのがあるでしょ。どこをさわろうとしてきてるか、どこをつかまえようとしてるか。そういうのを意識すると、おれのからだの一番外側がどこにあるか、だんだんわかってくる。コートの中にいると、おれがおれのかたちを取り戻せるかんじがする」
 かけがえのない友人が留学へ誘ってくれたこの日本で、おれは結果を出さなくてはならない。ふたたびつむじから爪先に至るまでからだのすみずみを自在な支配のもとに置き、正確なボディイメージを取り戻さなくては、おれの求めるレベルのカバディになど到底届き得ない。ここで何者かにならなくてはならない。アカデミーではじわじわとコートに立てる機会が減り続け、ひとの輪郭を引きずり出すような強い視線と向き合うことも少なくなってしまった。このままでは自分を見失っていく一方だ、とぼんやりした絶望感に沈みつつあったおれにとって、「留学先の高校でチームに所属しないか」という誘いは、このうえない助け舟だった。コートに立てるなら、と、サンダーの誘いに縋った夜のことを、おれは一生忘れない。
「……」
 トウイはわかったようなわからないような顔で何度かくちびるをひらきかけ、しかし結局何も言わず、「替えますか」と新しいティッシュを渡してくれた。わからないものごとはひどくこわい、理解できないまま不用意なことを言って傷つけることはこわいです、と、いつか話してくれたことがある。語りえぬものには軽々しく触れない慎重さは、トウイの攻撃手としてのスタンスに通じていて、嫌いではない。ありがとう、と鼻をおさえていたティッシュを取ると、もう出血は止まっていた。ようやくコートに戻れる、と立ち上がると、気づいたサンダーが「血止まったのか? こっち来てくれ」と手を挙げる。
「フォーメーション組んでスタメンの守備練習やりたいから攻撃出てくんないか」
「はーい。全力? ローナとっていい?」
「当たり前だろ。取らせねえけど」
 全員きのうとおんなじ位置で並んで、後ろにヴィハーンがいるつもりで絶対死守、とサンダーが声をかけると、五人はまぼろしのおれを背中に隠すように布陣した。強力なエースを囮にして相手のレイダーを釣ることを目的とした特殊な陣形だ。おれ一人ぶんの守備力を捨ててなおメリットがあると判断したサンダーの戦略に、誰も異議を唱えなかった。多少無理をしてでも護る価値のある、囮として機能するほどに圧倒的な選手として、全員がおれを信頼してくれていることのこのうえない証左だった。彼らが背に庇う空間におれはいないけれど、エース、というかたちのまぼろしがそこに創り上げられているのが見える。
 カバディ、とキャントしながら一歩足を踏み入れる。サンダーが、港が、橋本が、矢島が、船井が、トウイが、おれの一挙手一投足に視線を向ける。おれを狩ろうとする群れの殺意がびりびりとおれの肌をしびれさせて、ぐずぐずの泥濘でしかないおれから、レイダーという生きものの張りつめた輪郭を取り出し、浮きあがらせてゆく。また一歩踏み込むと、サンダーと港がキャッチに飛び込んできた。支援に入ってきている船井とトウイのコースも意識しながら回避すると、あおられた風が肉体の先遣として肩から二の腕をかすめた。ひやりとする風圧に、世界との境界線としてそこに皮膚のあることを強く感じる。コートに立っている時間が長ければ長いほど、視線やアンティの手によって、おれの輪郭は確かなものに変わる。本場からやってきた強い選手として、奥武のエースとして、レイダーとして、何者でもないおれに名前がつけられてゆく。
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