送って行きますよ、と言うと、「なーに、トウイ、いちゃいちゃしたいの?」とヴィハーンさんは声を潜めて笑った。
廉価でボリュームがある奥武生御用達の定食屋の軒先は、長い営業の歴史が脂汚れとしてあちこちをぎらぎらさせていて、いちゃいちゃ、という言葉の甘酸っぱい雰囲気とはミスマッチだった。もっとも、いちゃいちゃ、という言葉自体、そもそも僕らに似合わないのだけれど。僕とヴィハーンさんはどこからどう見ても、部活帰りに小腹を満たして出てきた先輩と後輩でしかない。余計な日本語を山田さんから教わらないでほしい、と思いつつ、「最近ずっとふたりきりになるタイミングが無かったので、名残惜しくて」と答える。
決勝リーグを控えて、練習後にちょっと話す程度の余裕すらなくすほどにハードな日々が続いている。だから、疲労が残って明日の試合に障らないよう今日の練習はここまで、と言われたときには、却って拍子抜けした。こんなに外が明るいのに帰っても良いのか、と戸惑う空気がおかしくて、なんとなくみんなで笑った。コーチと明日のこと話すから、とミーティングのために残った山田さんを除いて、一番最後に部室を出たのは僕とヴィハーンさんだった。いつもはそれぞれの学年の友達と帰るけれど、それを積極的に断るでもなく、約束や目配せを交わすでもなく、ただ緩慢に身支度をして、ふたりで外に出た。誰も近くにいないとわかっていて、それでも僕は声を落として「飯食って帰りませんか」と誘った。万が一にも、他の部員の耳に入って「一緒に行く」などと言われたくなかった。交際を公にしていない僕らはまさかデートだから遠慮しろとはいえない。
僕らは気心の知れたカバディ部の面々にさえ関係を秘密にしている。山田さんは薄々気づいているようだけれど、いまのところ特に何も言われてはいない。みんなを信頼していないわけではない。それでも、ヴィハーンさんのどこが好きなのか(あるいはヴィハーンさんは僕のどこに惹かれたのか)は僕にとって非常にプライベートな領域で、それがたとえ悪意のない好奇心ゆえであろうとも、あるいは祝福の意図であろうとも、他人にずけずけと踏み込まれたくはなかった。ヴィハーンさんも宗教的な事情をいちいち質問されたくないから、と秘匿に同意した。おれの世代だと結構リベラルな教育受けてるし、ここ日本だしね、たぶん神様みてないよ、とは言いつつも、ヴィハーンさんは視線を爪先に落としたまま僕を見ずに微笑んだ。信仰心との折り合いのつけかたが繊細な問題であることは想像に難くない。何かを振り切るように顔を上げ、トウイとおれだけのひみつだね、と悪戯っぽく人差し指をくちびるに当ててみせたのは、重い事情をことさら重たくしたくない、という意思表示だったのだろう。なんでもないことをおおげさに「ふたりだけの秘密」として扱うような、恋人同士のじゃれあいに閉じ込めてしまいたかったのだろう。僕もそれくらいの軽さで捉えたくて、はい、ひみつです、と同じジェスチャーを返した。今時男同士のカップルなんて珍しくもないはずだけれど、オープンにしても構わないとは、まだ思えない。
隣のクラスに、他校生の彼氏もちの男子がいる。名前は知らない。からかわれたりいじめられたりしているわけではないらしいけれど、名前さえ知らないのに「他校生の彼氏もち」だと赤の他人の僕が知っている程度には、その情報は出回っている、それが現実だ。一度見かけた、彼とその友達らしき生徒とのやりとりが忘れられない。よく日に灼けた人の良さそうな短髪の男子が、「俺、偏見とかないから」と、件の生徒に笑いかけていた。そう、と答えた彼の微笑みのぞっとするようなさびしさは、遠くでちらりと見ただけなのに背筋が凍った。見てはいけないものを見てしまった恐怖で、反射的に廊下を来たほうへ駆け戻った。偏見とかないから、というのは、「おまえは偏見に晒されるような恋をしている」という偏見そのものだとわかっていない、あくまでも善意のつもりのおぞましい何かで満ちた言葉に殴られて、それでも彼は静かに立っていた。助けるのがきっと道徳的な行いで、でも、あくまでも善意のつもりの人間に何を言えば届くのかはわからないし、さほど社交的でもない僕が突然知らないグループに割り込むのはどう考えても不自然だった。どうしてむきになって首を突っ込むのか、について詮索されて、ヴィハーンさんにまで何らかの影響があるかもしれないと思うと危険は冒せない。あんな顔をヴィハーンさんにさせたくなかった。あんな視線をヴィハーンさんに向けられたくなかった。信仰心との折り合いをつけるだけで精一杯の恋人を、拒否することのできない暴力に晒したくなかった。道徳心よりも恋人を選ぶ僕は、きっとどこの宗教でも裁かれる不実な人間だろうな、と思った。それでも、ヴィハーンさんを傷つける可能性から、彼を守りたかった。
「トウイ、素直でかわいいね」
いいよ、ちょっとだけいちゃいちゃしながら帰ろ、とヴィハーンさんは笑った。あんまりいっしょにいると、なごりおしくなるから、階段の下まででいいよ。そうですね、じゃあ、集合ポストのところくらいまでで。それがいいね。部活のあとの、拭いても拭いてもうっすらと膜のように残る汗の気配で、ヴィハーンさんの頬がにぶく輝いていた。ふれたい、と思ったけれど、撫でるだけで済む自信がないのでぐっと堪える。
「ねえ、いま、ハグしようと思った?」
「思ってないです」
「なーんだ。ザンネン」
こんなふうにヴィハーンさんのことを見る日が来るとは思っていなかった。呼んだぞ、と山田さんから紹介されたときには、正直なところまだヴィハーンさんが怖かった。文化も信仰も違う場所で生まれ育ったひとは、どう関わればいいのかわからなくて怖い。知らず聖域を踏み荒らすように、指一本ふれただけで取り返しのつかない傷をつけてしまったら、と想像するだけで怖い。だからヴィハーンさんが入部してすぐはほとんど話せなかった。新しいメンバーへの興味と、早く打ち解けられるようにという親切心から、三年の先輩たちがあれこれ質問するのを一歩引いて聞いていた。好きな食べ物、得意な教科、休日の過ごし方。冬居もなんかないのか、と、船井さんに水を向けられたけれど、無言で手を振ることしかできなかった。留学の理由を山田さんから聞かされていたから、将来の話を連想させるトピックは避けなくては、とひどく緊張していた。でも、カバディの話を禁じ手にしてしまうと、同じ競技をやっている以外共通項がない相手に、どう踏み込めば失礼がないか、どんな話題なら傷つかないか、まったくわからなかった。それに、正直なところ、幼馴染が夢を語れなくなるほどの圧倒的な現実を突きつけた無慈悲な存在、ひとの形をしているだけの異次元からきた災厄、そんな印象が最初のうちはどうしても拭えなかった。傷つけるのが怖い、と思うと同時に、踏み込むこと自体が怖かった。同じレギュラーとして交流し、意思疎通をはかるべきだとはわかっていたけれど、どうしても、最初のひとことが出てこなかった。
「ヴィハーンさんはどうなんですか」
「おれ? いつでもウェルカムだよ。ハグする?」
「……やめときましょう、外ですし」
三年だぜ三年、と山田さんはいつもインドとの中継に使っているパソコンを軽く叩いた。留学生としてヴィハーンさんを呼ぶことを、他の部員より先に告げられたときの記憶は、なぜだか古い映画のようにぼやけている。制服と程近い壁にかけてある、はじめて行ったカバディ体験教室の集合写真(僕が泣きべそをかいているので外してほしいと文句を何度言っても「やだよ、気に入ってんだから」と山田さんは取り合ってくれない。「痛いのやだあ、ってびーびー泣いてたよな、おまえ」と思い出話でからかわれるところまでワンセットのやりとりがすっかりお決まりになっている)の褪色したノスタルジックなトーンがやけに印象に残っているせいだろうか。呼ぼうと思う、ではなく、呼ぶ、という決定について聞かされたところで、僕にはどうしようもなかった。山田さんはいつもそうだ。ひとりで悩んでひとりで決めて、動かしようのない最終段階で、ただ結論だけが僕に知らされる。冬居も動画見ててわかるだろ、ヴィハーン、あんなすげえのに、プロになれなくて三年アカデミーに居るんだよ、インドのプロリーグってそういう世界なんだよ。稼げるトップ選手になる、と語らなくなった代わりに、山田さんは異国のライバルについて話すようになった。ずっと自分のこと天才だと思ってて、そうじゃねえんだって突きつけられるのがどんなにつらいか、俺は知ってるからさあ、だから思うんだよ、一回環境変えさせて、息抜きさせたほうがいいんじゃねえかなって。スカイプで何度か話してみんなとも知らない仲じゃないだろ、友達とやるカバディ、まあ、キャリア的にはあんまプラスになんねえっつーか、アカデミーにいたほうが練習の質が高いのはわかってんだけど、でもさあ、俺はあいつがカバディを、……理想に届かない自分を嫌いになる前に、おまえはちゃんとすげーよって言いたいよ。結果の出てない努力は無意味だって俺も思うけど、それでも、やっぱすげーことがすげーのは変わんなくないか。カバディ嫌いになんなきゃ、いくらでも取り戻せるんじゃねえの、ヴィハーンなら。喋るとぜんぜんニコニコしてるし元気っぽいんだけど、やっぱ三年やってて報われねえの、きついし、いましんどいと思うんだよな。友達がしんどいときになんもしねーってのは、なんつか、ナシだろ。僕は相槌も打たずにただじっと聞いているだけだったけれど、山田さんは苦笑して僕の頭を乱暴に撫でた。んーな顔すんなよ、わかってるよ、……ヴィハーン呼んだら、うちのエースは俺じゃなくてあいつになるだろうな。でも、いいよ、それで。一番強いやつがエース、そうじゃなきゃ、なんのために強くなりたいのかわかんねえじゃん。それにさ、俺、なにがなんでも決勝リーグより先に行きてえの。俺らの世代は上に比べると経験者が少ないところから始まったから、特に一年のときとか結構いろいろ言われてさあ、辞めちゃったやつもいんだけど、だから、いままで残ってる港とかをさ、先輩たちが行ったより先まで連れてって、どーよ俺ら強ええだろって言いてえんだよな。プロ目指すわけでもないのにきっつい練習バカみたいに頑張ってきたあいつらにさ、報われたって思ってほしいんだよ。不作不作言われてた俺らが日本で一番強くなれたんだって、俺たちすげーんだって証明したいんだ。星海とか英峰とか、あとどこ来んだろ、奏和か伯麗かね、能京はメンバーいねえもんなあ、まあとにかくあいつら全員ぶち破るにはさ、悔しいけどあと一手足りねえって思うんだよ、いまの奥武。外部から連れてきたエースを主砲に据えるって、なりふりかまわねーって笑われるかもしんないし、フェアじゃないってなじられるかもしんないけど、……やっぱヴィハーンに声かければよかった、って後悔するくらいなら、笑われてもなじられても、別にいいよ、俺。このまえ、俺のカバディは高校までつったろ、冬居。あの気持ちは変わってねえよ。別に勉強好きじゃねえのにカバディやりたいから大学行かしてくれなんて言えねえよ、知ってるだろ、うちのこと。高校までやらしてもらっただけで、もう、充分わがまま聞いてもらったよ。高校卒業したら子供じゃねえじゃん。ちゃんと現実見て、ケジメつけなきゃだろ。だからやり残しで後悔したくねえ、全部やってさっぱりして終わりにしてえの。本当はプロになってヴィハーンと同じチームでやれたら良かったけど、無理ならせめて高校で共闘したいし、しんどい時期を一緒に過ごしてきたこのチームを一番高いとこまで連れていくために、やれることはなんだってやっときたい。まあ、全部俺の勝手だけど、俺がこーゆー人間なのわかっててキャプテンに選んだのはみんなだし、別にいいだろ。最後だ、これが最後なんだよ、ああすりゃよかった、もっとできることがあった、なんて情けなく泣きたくねえよ。負けて泣きたくねえよ。悔いなんかひとつもないって、カバディは楽しかった、って笑って終わりてえよ。てーかさあ、まだわかんねえだろ、やってみたら意外とヴィハーンより俺のほうが強いかもしんねえし、俺も簡単にエースの肩書き譲る気はねーよ。勉強も書類処理も大嫌いで、二言目には「冬居これ代わりにやっとけ」と言い出す山田さんが、留学生を迎える手続きについての書類をじっくり読みながら、なあいいだろ冬居、と笑ったのだった。強いやつと一緒にカバディすんの、しんどいしつらいし、おまえが心配すんのもわかるけど、でもやっぱさ、ワクワクするじゃん。カバディ、楽しいじゃん。好きだから、もう、しょうがねえんだよ。理屈ですぱっと諦められんなら、俺はもっとずっと手前で辞めてたよ。こんなに苦しいのに、しんどいのに、それでも楽しいし、好きだから、もう、どうしようもねえんだよ。
山田さんがカバディをどれだけ好きか、最初の体験教室からずっと一緒にいた僕が誰よりも知っている。そんな幼馴染の十年に幕を引きにきた存在として認識してしまったから、どうしても、ヴィハーンさんを仲間だと思うのは、難しかった。
「新メニューどうでした?」
「おいしかったよ。あのおみせ、ショージン? 料理、があるの、いいよね。いろいろえらべる」
「仏教系の大学が近いからですかね。ところで精進料理ってインドにはないんですか。ヒンドゥー教が大半とはいえ、仏教圏でもありますよね?」
「くわしくないけど、あっても日本のとはちがうでしょ。ベースの食文化とか、あと気候ちがうから使える食材もかわるんじゃない」
「ああ、そうか。同じには、ならないですね」
ヴィハーンさんとの関わり方が変わったきっかけは、当然というべきだろうか、カバディだった。桜が薄紅の花盛りからつやつやと茂る新緑に切り替わった四月下旬、鍵当番で早めに出た朝のことを、いまでもよく覚えている。あくびを噛み殺しながら部室へ行くと、ヴィハーンさんがドアの前に座っていておどろいた。すみません、僕、遅かったですか。ちがうよ、おれが早く来ちゃっただけ。そう、ですか。うん、おれ、すぐそこの寮だから。そう、なんですね。同級生や他の先輩になら、気軽に「橋本さんが早起きなんて珍しいですね」だの「船井さん鍵当番前に妹の弁当作ってるって言ってませんでしたっけ、朝強すぎないですか」だの雑談の種はいくらでも出てくるのだけれど、ヴィハーンさんにはぎこちなく相槌を打つだけで精一杯だった。若干気まずい思いをしながら無言で着替えていると、ヴィハーンさんが「先行くね、鍵もらっていい?」と手を出してきた。無数の傷で白っぽく変色した、年季を感じる管理プレート付きの鍵を渡すと、一瞬手がふれた。見た目よりも固いてのひらだった。帰陣のために数え切れないほどコートでもがいてきた歴史の刻まれている、擦り傷とその再生で厚く育った、実直なレイダーの手。
支度を終えて後を追うと、ヴィハーンさんはコートの前で手と膝をつき頭を下げていた。一目でそうとわかる、敬虔な祈りの姿だった。呼吸音すら邪魔になりそうで、できるだけゆっくりと静かに息を吐いた。実際には数十秒の出来事だったはずだけれど、清らかで張り詰めた場の空気にあてられて、何試合もしたあとのように脈が逸っていた。顔をあげたヴィハーンさんに、朝日が眩しく降り注いだ。いかにも太陽の国から来たひとらしい黒曜石の瞳が、一瞬、深く澄んだ琥珀色に光って、ああ、人間だ、とばかみたいなことを思った。このひとはカバディが好きなだけの、僕と一歳しか違わない、ただの高校生だ、と唐突にわかった。本場のインドから競技としてはまだマイナーな日本に来てでもカバディがしたいくらい、このひとはカバディが好きなのだ。カバディのことを訊いたら傷つけてしまうかもしれない、なんてあまりにも傲慢だったし、異次元の怪物として距離を取ったままでいるのは本当に酷い態度だった。わからないから、自分とは違うから、と恐れて未知のまま立ちすくんでいたら、いつまでも怖いままだ。意を決して、ヴィハーンさん、と呼ぶと、どうしたのトウイ、と彼は当たり前のように僕の名前を口にした。それ、お祈りですか。そうだよ、いつも向こうではこうしてたから、やらないと落ち着かないんだ。僕も、したいです、作法とか、教えてもらってもいい、ですか。いーけど、たいしてムツカシイことじゃないから、そんなに緊張しなくてだいじょうぶだよ。怖いんです、知らないことをやるのは。ふーん、そっか。何か間違えて失礼になったら、と思うと、恐ろしいです。ああ、怖いって、そういう感じね。それに、ヴィハーンさんの神様に関わることでしょう、いい加減な態度じゃ、ヴィハーンさんだって嫌な気持ちになるんじゃないですか。見様見真似で隣に座り、これでいいですか、と訊くと、ヴィハーンさんはおかしそうに笑った。そんなに肩に力入れなくてもいーんだよ、でも気持ちはうれしい、ありがとね、トウイ。その日から、おぼつかない日本語と英語を織り交ぜた質問と答えの積み重ねで、僕らは少しずつお互いを知っていった。宗教的に食べられないものについて。個人の好みとして食べたくないものについて。憧れの選手と出会った日の思い出について。印象に残っている試合について。日本に来てびっくりしたことについて。インドとの習慣の違いについて。地元の友達やチームメイトについて。湯上がりに使うケア用品について。ささやかな日常のことも、カバディについての熱い思いも、たくさん話した。ココナッツのヘアオイルを使っている、と聞いたから、駅前で配っていた新発売の洗い流さないトリートメントのサンプルを「使いますか」とあげたら思いの外喜ばれた。結局髪質にあまり合わず自分では買わなかったそうだけれど、すっかり馴染みになった甘ったるい匂いが他のものに変わってしまうのはさびしい気がしていたから、なんとはなしにほっとした。コートの中では圧倒的なレイダーでも、休憩時間や下校中の雑談に興じ、チームメイト同士のくだらないじゃれあいで笑うヴィハーンさんは、他の先輩たちと何の違いもなかった。まぎれもなく、ユニフォームと目標を同じうする奥武高校カバディ部の一員で、先輩で、仲間だった。
「寮、近いなあ。もう建物見えますね」
「遠かったらこまる」
「それはそうなんですけど」
「お店からだと学校からよりはちょっと遠まわりだから、そのぶんは余計に歩くよ。トウイと余計にいられてうれしい」
留学生用の寮は学校の借り上げた低層のアパートで、集団生活の効能を期待するようなものではなく、単に福利厚生の一環として用意されている。高校の敷地外ではあるけれど、運動部部室棟側の裏門から出ると十分もかからない距離にある。立地的に当然ながら奥武の生徒を含め人通りは途切れず、いちゃいちゃ、とヴィハーンさんが言うほどのことなど、できるはずもなかった。手を繋ぐどころか、見つめあうだけでも誰かに視線の親密さを悟られそうで、先輩後輩らしく礼儀正しい間隔をあけて僕らは歩いた。練習中のほうが余程近い。このタイプの寮だと食堂とかないですよね、いつも練習の後帰ってから自炊してるんですか。そうだよ。疲れてるのに大変ですね。そうでもないよ、慣れてるし、疲れてたりやる気なかったらコンビニ寄るし。あ、コンビニ寄りますか、きょうヴィハーンさんあんまり食べてなかったでしょう。んーん、きょうはあれくらいで充分、おなかいっぱい。ああ、そうなんですか。そう、だから、だいじょぶ。慣れてるって、実家でも料理してたんですか。簡単なものしか作れないけどね。でも美味しいよ、とヴィハーンさんは聞き慣れない単語をいくつか並べる。郷土料理の名前らしいことは推測できるものの、味も食材も想像できずにいるのを表情から察知したのか、「日本だと見たことないかもね、今度食べにおいで」と笑った。これは、つまり、手料理を、振る舞ってもらう、ということか、と意識すると、付き合って日の浅い身には過ぎた刺激に心臓が痛くなる。カバディの練習やただのチームメイトとしてのスキンシップとは異なる、恋人らしいふれあいをしたのは、まだ片手で数えて足りるほどしかない。休みの日に僕の部屋で溜まった宿題をやった(流石と言うべきか、ヴィハーンさんは数学と英語は「かんたん」と事もなげに済ませていたけれど、日本史や現代文にはだいぶ苦戦していた)のが、いまのところ一番デートらしいデートだった。休憩のたびに「つかれた、トウイ、ハグさせて」と甘えてくるヴィハーンさんを抱きしめながら、鍵のかけられる自室で抱き合っても全くそういった雰囲気にならないことに、安心と落胆が混ざり合って胸の中がぐしゃぐしゃになった。帰り際にヴィハーンさんが「日本語のセンセイしてくれてありがと、トウイ」とくちびるを軽く僕の頬へ捺していったのを、恋人だからなのか、ただの謝意なのか、わからないまま受け止めた。そのまま帰すんじゃなかった、僕からもしたいですと言えばよかったんだ、と風呂に入っている最中ようやく気がついて、あああ、と呻きながら湯に沈んだのが記憶に新しい。
次の日の登校時、山田さんに「きのうは真っ昼間からカーテン閉めてたな、お盛んじゃねーの」と脇腹を突かれたけれど(僕らの部屋は窓を伝って行き来できるので、プライバシーを尊重してほしいときは合図としてカーテンを閉めると取り決めをしている。僕らのプライバシーとは基本的に「動画を使う」と同義だ)、「そうでもないですよ」と答えた僕の目があまりにも死んでいたせいか、それ以上は絡まれなかった。ヴィハーンさんに何もせず帰したことを間違っていたとは思わない。抱きしめ返しながらじっと見つめてみたけれど、ヴィハーンさんは安心しきった様子で子猫のように僕の腕におさまっているばかりで、性的な接触のことなどかけらも頭になさそうだった。目が合うとふにゃふにゃと笑って「やる気でた」と起き上がり、また真面目に教科書に取り組み始めるヴィハーンさんに、僕は別のやる気が出そうですなどと言えるわけがなかった。行為への欲望がひとひらも匂わない恋人に、しませんか、と訊くことさえ、ひどく自分勝手な欲望の押しつけに思われた。それでも、強引にベッドに押し倒したら僕らの曖昧な関係は変わるだろうか、という仮定は心を占拠し続けた。手首を掴んで体格差で押さえ込んで、僕はこういうことがしたいんですよと言ってしまいたかった。しなかったのは理性や倫理があるからではなく、ただ怖かった、それだけのことでしかない。どんなに傷ついた目をするだろうと想像しただけで鳩尾が冷えた。
階段の下まででいいよ、という約束を、ふたりとも忘れたふりをして、ヴィハーンさんの部屋の前までなんでもない話をして歩いた。どんなにぐずぐずと歩調を緩めても、二階建てのアパートのエントランスから部屋までにたいした距離はない。じゃあ、また明日ね、と笑って鍵を開けた指先が、一瞬だけ攣ったように止まったのと、ヴィハーンさん、と呼びかけたのとは、ほとんど同時だった。「なーに、どしたの」と顔を上げたヴィハーンさんに、何を言うべきかわからないまま、それでも浮かんだ言葉をそのまま口にする。
「今夜、ひとりで大丈夫ですか」
「だいじょうぶだよ?」
どうしてそんなことを訊くのか、と首をかしげるヴィハーンさんは全くいつも通りに見える。そうだ、あまりにもいつも通りすぎるのだ。決勝リーグまでヴィハーンさんはずっと控えだったから、明日は日本に来て初めての試合で、なのにヴィハーンさんは一言もその話をしない。いくら日本とインドではカバディのレベルが違うとはいえ、試合前に感情がこんなにも振れないのはおかしくないだろうか。だいじょうぶ、ではなく、だいじょうぶなふりをしている、だけなのでは、ないだろうか。
「……僕は、大丈夫じゃないです。泊まっても、いい、ですか……」
にこにこと無邪気に笑っていたヴィハーンさんの表情が、ぱき、と薄氷の割れるように歪む。孤独に夜をさまよい歩く、寄るべない子供のような目をしていた。イエスと言おうが言うまいが、さして変わりはなかった。こんな目をした恋人をひとりになどできるはずもなかったし、ヴィハーンさんも自分の虚勢がやぶれたと自覚している、諦めのような安堵のような表情をしていた。賭けに勝った、と膝から頽れそうになり、しかしそんな弱みを見せるわけにはいかないので、お邪魔します、と頭を下げてドアを開ける。ヴィハーンさんは拒まなかった。それでも、上がって、と言われるまでは一応玄関に立っていると、ヴィハーンさんはくちびるの端だけで「まじめだね」と笑った。いいよ、入って、と許可されてようやく靴を脱ぐ。揃えて並べたローファーは、ヴィハーンさんの履き古したスニーカーの隣ではやけに大きく見えた。あしたの準備、どうするの。朝早く出て家に寄ります。寝不足にならない、それ。近所だから平気です。トウイ、本当に、帰らないの。ヴィハーンさんが帰って欲しいなら無理は言わないですけど、そうでないなら、居たいです。そう、わかった。ヴィハーンさんは、居て、とも、帰って、とも言わず、僕の目をじっと見た。居てもいいですか、と質問を重ねる代わりに、さわってもいいですか、と訊く。ヴィハーンさんは、どこに、と確認もせず、いいよ、とだけ頷いた。さわられたくないところはないですか、と何度か訊いたけれど、答えはいつも同じだ。トウイのさわりたいところがさわっていいところだよ、とヴィハーンさんは言う。泣きたくなるくらいに僕を信頼してくれている。抱きしめたいです、キスもしたい、と指の腹だけでそっと頬を撫でると、好きなだけどうぞ、と抱きつかれた。いつものように額に何度もキスをするたび、ヴィハーンさんはくすぐったそうに笑う。おれもする、と頬と鼻に同じ数だけのキスが返ってきて、でも僕らはくちびるとくちびるを重ねたり、それ以上の侵入を許しあおうとは、しなかった。
インドの宗教的習慣は地域差が大きいというので、インターネットで調べたような通りいっぺんの知識で勝手に分かった気になるより、都度ヴィハーンさんに確認を取ったほうが確実だから、と、僕は何をするにも「いいですか」と許可を取ることにしている。コミュニケーションコストを減らすために大まかなことは本で読んだけれど、本当に僕が知りたいのは、ヴィハーンさんが何を好み何を嫌がるかだ。勝手に合意だと勘違いしないように、いいよ、と必ず声に出してもらうことを、付き合い始めに約束した。こんなことまで決めるの、トウイはまじめだね、とヴィハーンさんはくすくす笑った。日本のひとはまじめ、っていうけど、こういうとこまでまじめなんだ。僕はヴィハーンさんのこともインドの文化のこともほとんど知らないですから、怖いんです。知らないのはしかたないでしょ、おれ、そんなの、いちいちおこらないよ、だいじょうぶだよ。怒らせたくないんじゃないです、うっかり傷つけるのが、怖いです。そっか、ありがとね。ヴィハーンさんは目を細めて、おれ、トウイのことハグしたい、してもいい、と悪戯っぽく僕の手にふれた。どうぞ、と腕を広げると、ぎゅうぎゅうに抱きついてきながらヴィハーンさんは幸せそうに笑った。恋人同士のスキンシップというよりも、よくなついた犬猫が全身で大好きだと伝えてこようとするような、ひなたの匂いのするハグだった。ヴィハーンさんはいつでもそんなふうに、よく晴れた午後の日差しのように僕にふれた。あたたかくてさらりとしていて、それを受け止めるたび、少しだけ胸が軋んだ。僕の欲望はじっとりと水気を含んでいて、ヴィハーンさんにふれたら醜く乾かない染みを残しそうだった。恋人同士ではあるけれど、ヴィハーンさんが僕をそういうふうに求めているようには思えなかった。
あるいは、求める気など元からないのかもしれなかった。ヴィハーンさんは留学を終えればインドに帰る。同性と交わることを罪とする国に持ち帰る思い出は、気の迷い、で済む範囲でなくてはならないのかもしれない。そう思うと、ヴィハーンさんにふれたい、と思う自分が怖かった。好きなひとを汚し傷つけることしかできない欲望が、自分のなかにあることが怖かった。このひとのためを思うなら最初から告げるべきではない恋だとわかっていた。どこにも辿り着けない恋だった。はじまらずに終わることだけが正しいはずの恋だった。それでも、ふれたくて、そばにいたくて、どうしようもない。
さわってもいいですか。抱きしめてもいいですか。キスしてもいいですか。そんなふうに、欲望のひとつひとつを許されながら、ヴィハーンさんの側にいる。
シャワーを念入りに浴び、湯上がりにメントール系の夏用ボディローションまで塗ってようやく、練習でどろついた体がさっぱりした。タオルで髪を拭き、未使用のTシャツとジャージ(不測の事態に備えて常に一組余計に持っている。山田さんには「だからおまえの鞄重いんだよ」と呆れられるけれど、やっぱり備えあれば憂いなし、だ)に着替えると、ヴィハーンさんの服を借りたわけでもないのに緊張した。自分の体からたちのぼってくる石鹸の香りは、どうもヴィハーンさんのそばで感じるものとは違うようだった。生まれ持った肌の匂いの差だろうか。そういえば、ゴールデンウィークの合宿時にも、合宿所備え付けの安っぽいリンスインシャンプーとボディーソープを使っているはずなのに、ヴィハーンさんはどことなく違う匂いがした。
あれは合宿最終日のことだった。寝相の悪い同級生から顔面に打撃を喰らって起きた午前四時、半端に寝直すよりはこのまま起きて走りにでも行ったほうがいいかな、と着替えて外に出た。合宿所を出てすぐの河原で、ヴィハーンさんが座って下流を眺めていた。寝る前に洗面所で見かけた格好そのままだったから、ロードワークに出るわけではないのが見てとれた。半袖とハーフパンツから伸びた素肌が草の上に投げ出され、サンダルをつっけかただけの爪先が微風を受け止めるようにゆるゆると揺れていた。信仰に関する何かだろうか、と邪魔をしないようにそっと横を抜けたつもりが、「あ、トウイ。走りに行くの?」と声をかけられた。当時はもう打ち解けていたから、話しかけなかったのは純粋な気遣いだったし、ヴィハーンさんもそれはわかったうえで、「だまって通りすぎないでよ」とわざとらしく拗ねてみせた。僕に悪気がないと知りつつじゃれてくる気安い応対に、すみませんと笑ったとき、胸をかすめるほのかな予感のようなものがあった。くちびるをとがらせてヒンディー語でなにか呟いたヴィハーンさんに「なんですか」と訊くと、「日本語でいうと、なんだろ、うーん、さびしい、かなぁ」と首をひねりつつ答えた。日本語でも英語でも言い表せないニュアンスについて、時折ヴィハーンさんは舌に馴染んだ母国の言葉を用いる。トウイがおれのこと無視して行っちゃおうとしたから、さびしかったっていうか、ちょっとむにゃっとしたなって。すみません。あはは、いいよ、それにしてもまだ日の出前じゃない、ずいぶん早いね、いつもやってるの。いや、きょうは単に目が覚めちゃっただけです。あー、そうなんだ、おれもおれも。ヴィハーンさんはなにしてるんですか、お祈りとか、そういう感じですか。んーん、夜明けが見たいなーと思って。夜明け、ですか。そうだよ、トウイもいっしょに見ていかない。あ、じゃあ、お邪魔でないなら、ハイ。手招きされるまま隣に座って、ぼんやりと空を見た。四時って、時間としては早朝ですけど、空がまだぜんぜん夜ですね。そうだねえ、でもさっきより全体的になんとなく、色がうすくなってるよ。そうなんですか。話しているあいだに、べったりと黒かった空は次第に濃紺へ、そして群青へ、やがて紫がかったペールブルーへ、と明度を上げてほんとうの色を顕しつつあった。透かす光が強まるごとに色が変わってゆくのを見ながら、空が厚い大気の層であることを思った。あ、ほら、夜明けだよ、と指された先に目を向けると、太陽がはるかな銀色の水平線から覗いていた。輪郭が青をきっぱりとはじいて光を拡散させ、周囲を甘やかな朝焼けに染めていた。高一の校外学習で行った美術館に、こんな色合いの絵があったことを思い出した。霞で淡くけぶる河をはっとするほど赤い日の出が照らす風景画。写実的ではないし決してサイズも大きくはなかったのに、その絵の気配のような何かが、展示されている部屋を満たしていた。水の匂いに湿る空気を嗅ぎながら、欄干にもたれて朝の訪れを眺めているような気持ちになる、強く印象にのこる絵だった。
おれの名前、このくらいの時間のことなんだよ、と、ヴィハーンさんが風に煽られる髪を押さえた。夜明け、とか、朝、とか、そういう意味。いい名前ですね、と応じようとしたはずが、目の前の景色に引っ張られて「きれいな名前ですね」と口に出していた。芝居がかった口説き文句のようなことを言ってしまった、と赤面し、しかし否定するのもおかしいので黙り込むと、ヴィハーンさんはやわらかく目を細めた。部室や体育館で見せる人懐っこく幼い笑顔ではなく、彫りの深さと大人びた造作そのままの、どこか神秘的ですらあるうつくしい笑みだった。ありがとう、おれも、自分の名前好きなんだ。朝日にあたためられた髪と肌から、安いシャンプーのケミカルで清潔な香りと、部内で流行っているボディローションの爽快なメントールと、香辛料めいた複雑なひりつきと、知らない花のようなむわっとふくらむ甘さが入り混じった、ヴィハーンさんの匂いとしか言いようのないものが漂った。ひとつひとつは特別なものではない、おそらくはどれも代替可能な要素でしかなくて、でも、そのすべてを持っているのは、目の前のこのひとだけだった。年上で、外国人で、かつて世界MVPを取ったレイダーで、そんなひとはこれから他にも出会うのかもしれないけれど、ヴィハーンさんはいま目の前にいるたったひとりしかこの世にいない。ヴィハーンさん、と、代えのきかない名前を呼んだ。どうしたの、と向けられた視線に、答えられる言葉は何ひとつなかった。僕が関係性のはじめの一歩を踏み込んだいつかの朝と同じ、陽を受けてごく深い琥珀色に輝く虹彩を、ただ見つめ返しながらもう一度名前を呼んだ。トウイ、どうしたの、トウイ、と訊いてくるヴィハーンさんが、僕の名前を呼ぶたびに胸が詰まった。ヴィハーンさん、という音を発するために吸った酸素が花びらに変わって肺を満たしてゆくように苦しかった。未知の感情だったのに、僕はその名前を知っていた。薔薇色の朝の只中、理由も理屈も抜きにして、このひとに恋をしたとわかった。わかってしまった。わからなければよかった。僕ひとりがしずかに窒息してゆくだけならば、ヴィハーンさんを巻き込まずに済んだのに。
「シャワー、ありがとうございました」
先にドライヤーで髪を乾かし終え、ベッドに腰掛けて外を見ているヴィハーンさんの横顔は、差し込んでくる宵闇に表情を隠されていた。僕どこで寝たらいいですか、と訊くと、ヴィハーンさんは黙って自分の左隣を指した。一瞬不埒な想像がよぎったのを、いや、どう見てもここに座って、のジェスチャーだ、と振り切って腰を下ろす。どうして、だいじょうぶじゃない、って思ったの、とヴィハーンさんは俯いた。おれ、そんなに、態度に出てたの。いえ、べつに、そういうわけではないですけど。ほんとに。ほんとです、僕、結構、いちかばちかで言ったので。ああ、じゃあ、サンダーとかは、気づいてないのかな。安心したのか、ヴィハーンさんは胸につかえていた空気を逃すように、は、と息を吐いた。実際、裏表のないのびやかな振る舞いはどこも綻びてなどいなかった。仮に、ドアの前であとほんの三十秒笑顔がキープされていたら、僕はそれ以上何もできず帰るしかなかっただろう。それほどまでに完璧な笑顔と声が、ほとんど反射で出てくるヴィハーンさんの明るさが悲しかった。
「……さっき、ちょっと、手の動きがおかしかったので。緊張してるのかな、とは思いました。でも、それだけです」
「…………」
腕が動かなくてさ、とヴィハーンさんは静かに言った。痛めたんですか。ちがう、そうじゃなくて、おれ、インドにいたときから、ずっと、腕が、ちゃんと動かないんだ。それは、フィジカルの問題ですか。医者には問題ないって言われてるよ。そう、ですか。べつに、支障が出るほど動かないわけじゃ、ないんだけどね。はい。試合になると、腕が、凍ったみたいに、うまく動かなくなって。ぽつぽつと、霧雨のように淡い声で、ヴィハーンさんは不調について話した。強豪に数えられる奥武のスタメンをひとりで軽々と抜いて帰還していく男が本調子でないというなら、本来はどれだけ怪物じみているのだろう。
インドでのヴィハーンさんについてはあまりよく知らない。プロチームからは声がかからなかったというけれど、スカイプ越しに見た練習風景はいつも圧倒的だった。文字通り世界レベルの選手たちのなかで、いつもヴィハーンさんは互角に戦っていた。留学生として対面した本人は思っていたより細身かつ小柄で驚いたものの、筋肉はしっかりついていたし、僕自身もさして体格が良いわけではないから、あまり気にならなかった。
「サンダーに、調子が良くないって相談したら、脚技ならいけるんじゃないか、って。だから、練習……したけど……」
「ああ、最近集中的にやってましたね」
充分実戦レベルに見える技も、本人にとっては納得のいく練度まで持っていけていないらしい。かつて世界MVPを取ったハイレベルな実力者の視界は、僕にはわからない。わかるのは、いま、目の前の恋人が、深い夜の底で凍えていることだけだった。さわってもいいですか、と、小指一本をそっと手の甲に寄せる。いいよ、と招くように指を曲げ伸ばしながら答えたヴィハーンさんの左手を取り、両手で包み込んだ。親指でてのひらの真ん中を軽く押すように揉む。冬居はビビりだかんなー、と、山田さんが昔よく僕にしてくれたおまじないのやり方を思い出しながら、小刻みに位置を移動させて、満遍なくほぐしていく。あれは山田さんをまだ駿君と呼んでいた頃だった。やだ、しゅんくんみたいにできない、そときらい、えほんがいい、と嫌がる僕の手を取って、山田さんはおまじないをした。じーちゃんからおまじない習ったんだよ、こーすっと、俺のパワーが冬居にこう、ぎゅーんてなるから、ぎゅーんて、だからヘーキヘーキ、いっしょ行こうぜ。そんなふうに、山田さんは僕を部屋の外に連れ出した。虫捕り、ザリガニ釣り、サッカー、隣町までの遠出、それからカバディ教室。勇気が必要なときにはいつも山田さんがそうやって手を握ってくれた。中学に上がって読んだ体のセルフケアに関する本で、「おまじない」に似たマッサージが載っていて、あの正体は単に緊張を解くてのひらのツボへの刺激だと知った。あれって根拠あったんだ、と感心して山田さんに言うと、「ああアレか、おまえ理由わかんないほうがビビるから逆によく効くかと思って」とあっさり種明かしをされた。なんだ、とがっかりするよりも、山田さんが僕のためにわざわざ「おまじない」と名前をつけて施術してくれた嬉しさが勝った。あの頃、山田さんが手を握ってくれるとなんでもできる気がしたのは、おまじない自体よりもそれで僕を勇気づけようとした心遣いに支えられてのことだったと、いまならわかる。
同じように、ヴィハーンさんのために手を握ってあげたかった。気休め程度にしかならないとわかっていても。
「トウイ……?」
「あたためようかと思って。血行促進というか……。体の問題じゃなくても、ストレスで血流が減って冷えたりするでしょう。結構大事ですよ、こういうの」
「…………」
「……すみません、やめましょうか……」
ふわりと髪からヴィハーンさんの匂いがして、かすかに首を振ったことがわかった。トウイ、あっためて、と、ヴィハーンさんの指が僕のTシャツの裾を引いた。おれ、このままいっしょに寝たい。いっしょに、です、か。いやなら、いいよ。いやではないです、全くいやではないですけど、その、あの。じゃあ、いっしょに寝てよ、トウイ、とヴィハーンさんは僕の胸にもたれこみながら言った。試合の後でもこんなには乱れないだろう速さでばくばくと心臓が鳴る。僕は男性女性どちらも未経験で、正確に言えばヴィハーンさんが初めての恋人で、どっちがどっちなのかも決めてないし、使う道具類についての予習も不十分だし、そもそも明日は試合なんだからそんな未知の行為に及ぶわけにはいかなくて、でも、ととめどなく拡散していく思考を制御できずに呆然とただヴィハーンさんを見つめる。ゆっくり瞬いたヴィハーンさんは、だいじょぶだよ、と僕の胸を軽く叩いた。だいじょぶ、おれ、へんなこと、しないよ、安心して。僕から意に染まない行為を強要される危険性など考えもしていない、ゆるみきった身体を抱きしめる。すうっと爽やかにつめたい薄荷のボディーローションが、ふたりぶんの体温であたためられて、夏草のような匂いが肌から漂った。トウイ、どうしたの、と、ヴィハーンさんがふしぎそうに僕を呼ぶ声が、あまりにも無邪気な信頼で満ちていて、堪らなくなった。
「……ヴィハーンさんは、僕になにかされるとは、思わないんですか」
「なにかって?」
「……無理に襲う、とか。あなたを傷つけるような、ことを……」
「どうして?」
心底意味がわからない、と言わんばかりの怪訝そうな様子に、ああやっぱりこのひとは僕をそういう目では見ていないのだと改めて思い知らされる。衝動的に告げてしまった感情を、おれもトウイのこと好きだよ、と笑って受け入れてくれたとき、このひとはきっと互いの表面を撫でるような淡い恋人ごっこしか想像していなかった。同じ季節を過ごすことのない、短い夢のような異国の恋に、肉体への烈しい渇望などという現実は要らない。
「トウイは、だいじょぶだよ。おれにさわるの、いつもこわがってるから」
「…………」
「ごはん行くとき食べられるもの訊いたり、さわるときに許可とったり、……日本のひとは、おれたちの信仰についてきっとよく知らないから、悪気ないなら怒らないよ、おれはだけどね。でも、トウイはこわいんでしょ。おれに嫌われるのが、じゃなくて、おれを傷つけるのがこわい、って、いつもこわがってる」
「それは……当然、じゃない、ですか」
「おれにさわるのがこわいのに、それでもこうやってそばにいてくれるから、トウイはおれのことが大事なんだなってわかる。トウイといると安心する……」
ぎゅ、っとヴィハーンさんが僕を抱きしめ返しながら、首筋にそっとくちびるを寄せてきた。痕のつくはずもないやわらかな接触の繰り返しが徐々に這い上がってきて、背筋がぞわぞわする。いままでのじゃれるようなものと同程度に浅い、けれど、明らかに僕とおなじ種類の欲望が込められたキスは、肌にかすかな水気として残った。クーラーを効かせていても、抱き合った身体同士の間にはやはり汗がじわりとにじむ。しなやかな筋肉の詰まった背中は見かけ上の体格よりも厚く、その肉感はあまりにも刺激的だった。体育館での健全な先輩後輩らしいコミュニケーションとは面積の違うふれあいに、体温が上がる。唾を飲み込むと、緊張と情欲が腹の底へ落ちたようにじわじわと拡がった。汗のせいかヴィハーンさんの匂いが強くなって、欲望は一段と色濃く下腹部を滾らせている。そういうことをしにきたわけではない。泊まってもいいですか、と訊いたのは、本当にヴィハーンさんをひとりにしたくなかっただけだった。それでも、恋人を腕のなかに入れれば、高校生の身体はどうしても期待を抑えきれないのだった。
「だから、おれはトウイのしてくれることはなんでもうれしい。こわいのに、避けるんじゃなくて、さわろうとしてくれるの、うれしいよ」
トウイがしたいなら、いいよ、おれ。やわらかく耳を食まれて、いままで抑え込んできたどろつく血が一気に熱く沸き立つ。トウイ、こういうこと言わないから、興味ないのかなって思ってたよ。ないわけないでしょう、ただ、僕は、ずっと。ずっと、なんなの、トウイ。ずっと、あなたが、僕とおなじ気持ちかわからなくて、だから、怖かったんです。そっか、ごめんね、でもさあ、おれずっと言ってたでしょ、トウイのさわりたいところが、さわっていいところだよ。
警戒心のかけらもない無防備さの理由がようやくわかった。僕から意に染まない行為を強要される、などとそもそも思うはずがない。ヴィハーンさんは僕が何もしないと信頼していたのではなく、何かされても構わないくらいに信頼してくれていたのだ。ねえ、トウイ、おれと、なにがしたいの、と囁くヴィハーンさんの髪を撫でる手がふるえる。顔が見えないせいなのか吐息がひどく扇情的で、鼓膜にしびれるような余韻を残して溶けていく。抱きしめている腕にいっそう強く力をこめる。押し倒したら何かが変わるだろうか、と煩悶し続けてきた想像の答えがいまここにある。ヴィハーンさんは僕の欲を拒まない。心を汚すこともない。あなたの一番深いところにふれたい、と望んでも、受け入れてくれるのだろう。僕は、とこたえる声が、緊張で掠れる。
「僕は……このまま、一緒に、眠りたい……です」
「……ほんとにそれでいいの?」
「……僕は、ヴィハーンさんと……その……できるなら、それは、やりたい……ええと、つまり、セックスをしたい、ですけど、でも、怖いです」
ヴィハーンさんは数拍黙ってから、おれも、はじめてだし、こわいけど、だいじょうぶ、と言った。はじめて、という響きに否応なく興奮する自分を死に物狂いで落ち着かせ、それもあるけど、そうじゃないです、と首を振る。
「ヴィハーンさんは……、カバディが……好き、でしょう。明日からの試合に、悔いの残るコンディションで出るようなことになったらと思うと、怖いです。ヴィハーンさんがどれだけカバディが好きか、この半年……見てきました、見てきた、つもりです……」
のびやかに守備を屠る獰猛な笑顔が、コートに祈りを捧げる背中が、もがき続けてきた歴史が傷として刻まれた手が、好きだと思った。世界レベルの努力を積み重ね、望んだ結果を得られないまま三年を過ごし、それでも、コートに立つことを選んだこのひとの執着にも近い心のありように惹かれた。ヴィハーンさんのことがどうしようもなく好きだ。体どころかくちびるさえ重ねられずにいたくらいこのひとが大切だ。諦めたほうがいい理由は数え切れないくらいあって、傷つけることに怯えてばかりで、ふれるたびに罪悪感で苦しくなって、それでもこの恋を捨てられずにいた。それくらい好きな相手だから、ヴィハーンさんがゆるしてくれても、今夜はこの体にひとすじたりとも傷をつけるわけにはいかない。
「……明日の試合に障ったら、僕はずっと後悔します。きっとヴィハーンさんだってそうでしょう」
笑って終わりたい、と、幼馴染は言った。僕のカバディはまだ続くけれど、来年の試合で、あるいは進学先のカバディ部の引退試合で、同じことを思うだろう。ヴィハーンさんだってきっとそうだ。
日本ではカバディだけで食っていけないし、インドでだってプロになれなければそれは同じだ。カバディを好きなだけでいい時間はいつか終わる。山田さんのように辞めることも、ヴィハーンさんのように食らいつき続けることも、きっと苦しい。どちらが正しいわけでも間違っているわけでもなくて、ただ、笑って終わりを迎えるために、日々を選び続けることしかできない。何度やり直せるとしても同じことをする、他の道なんてない、と言い切れるような、後悔のない選択をするしかない。
一層強くヴィハーンさんを抱きしめる。ふたりのあいだに服があることも皮膚があることももどかしかった。このひとが欲しくてたまらずに滾る体の火照りは、でも、ヴィハーンさんを救わない。この血潮の熱さなど何の役にも立たない。夢破れても、不調で苦しんでも、このひとはカバディがしたかった。異国にやってきてまで求めたコートにしか、きっとヴィハーンさんの救いはない。
「僕は、好きなひとには、笑っていてほしいです。それ以上に望むことなんか、何も無いです……」
「…………」
ヴィハーンさんは僕の肩口に顔を埋めたまま、ごめんねトウイ、と呟いた。おれ、いま、トウイにひどいことさせようとした、ごめん、ほんとに、ごめんね。いえ、あの、そんな、謝らないでください。このまま、おれの顔見ないで、そのまま聞いて、トウイ、おれ、おれね、サンダーが留学に誘ってくれる直前、首、吊ろうかと思ったこと、あるんだ、それで、いまちょっと、あのときの気持ちに、心の色が、似てた、だって、おれ、調子、完全じゃないんだ、もどりきってない、サンダーは、こんなおれを、必要だって、言ってくれたんだ、だれも言ってくれなかった、ことを、サンダーだけが、あのとき、言ってくれたのに、なのに、がっかりさせる、かも、しれないんだ、せっかく、期待してくれたのに、うらぎるかも、しれなくて、それで、おれ、トウイは、おれのこと、すきで、だいじにしてるって、しってるのに、おれ、いま、トウイ、トウイに、…………。泣いてるように小さく歪んだ声はヒンディー語に変わっていて聞き取れず、だから何も答えられないまま、僕はただヴィハーンさんを抱きしめた。僕のTシャツの背中はいつまでも乾いたままで、こんな告白をしても涙のひとつも落とせないほど、このひとは笑顔で自分を鎧いながら戦ってきたのだとわかった。あらゆる加害から守りたいと思っている相手に自傷めいたセックスを誘われた事実が、喉の奥を締めつける。雫の代わりに落ちてくる懺悔がすべて吐きつくされるまで、無言で背中をやさしく叩いた。ごめん、ごめんね、と繰り返される謝罪に、いいんです、と応じる。あなたが傷つきたいときにそばにいたのが僕でよかったって思ってます、あなたが傷つかずに済んだから、僕は、大丈夫です。
「……トウイ」
「はい」
ヴィハーンさんは、トウイ、トウイ、と僕を繰り返し呼んだ。はい、と応じながら、ヴィハーンさんの髪をするすると指で梳く。いきいきとうねる黒髪がところどころもつれているのを、慎重にほぐしながら、首のあたりをゆるやかに撫でた。トウイ、おれ、トウイとセックスしたいって、その、きょう言ったような意味じゃなくて、好きだからしたい、って、ちゃんと、思ってるよ。わかってますよ。おれ、さっき、あんなひどいこと言ったのに、信じてくれるの。もちろんです。トウイ、おれのこと、好きなんだね。好きです、ヴィハーンさんが思ってるより、ずっと好きですよ。おれも、トウイのこと好きだよ、トウイに会えて、良かったよ。睦みあう言葉とは裏腹に、声はどんどん不安げで頼りなく、何かに縋るようにか細くなっていった。
「……トウイ……」
腕をゆるませて顔を上げたヴィハーンさんが、僕の目を見ながらうたうように言葉をこぼした。意味はなにもわからなくて、でも直感的に、「はい」と答えた。耳馴染みのない音の群れが理解できなくても、その目には見覚えがあった。ドアの前で僕は大丈夫じゃないですと言ったときの、あの夜の中に置き去りにされた子供のような目だった。
言葉などなんでもよかった。ヴィハーンさんが何を言っているのかも、僕が何と答えるのかも、問題ではなかった。ヴィハーンさんが求めて僕が応じる、そのやりとりのあることだけが、僕らのすべてだった。ヴィハーンさんが僕の目を見つめながら、トウイ、と呼んだ。トウイ、トウイ、と繰り返される声は、滲んで揺らいでいる。はい、と答えても、大丈夫です、と答えても、僕の気持ちから遠い気がした。こみあげるすべてを声に変えると、ヴィハーンさん、にしかならなかった。何度も互いの名前を呼びながら、僕らはきつく抱き合った。こんなにも恋しい相手に何もしてあげられないことが悲しい。それでも、ここにいられてよかったと思う気持ちに嘘はない。
僕にできることなどあるはずもなかった。それでも、彼が信じる神様の目が届かないほどに遠いこの異国で、ヴィハーンさんをひとりにしたくなかった。せめて共に夜明けを待ちたかった。何の意味も無くたって、そうせずにはいられないくらい、僕はヴィハーンさんが好きだ。このひとを好きなだけでいい時間の終わりがいつか来たとき、きっと僕は今夜の選択を、正しかったと悔いなく振り返る。
いつもより早く部活が終わってしまったせいで、夜はいつ明けるかもわからないほどに長く深い。それでも、恋人の手を握りながら、ふるえる身体を抱きしめながら、僕は夜明けを待っている。このひとの凍った腕を溶かす灼熱が、コートに待っていることを、信じている。
(ここから下 メモ書き移植)
・断片
腕が凍ったみたいに動かないんだ、というヴィハーンの言葉を覚えている冬居
試合前にてのひらをマッサージしてあげるのがルーティンになる
試合の前日 練習の後で「ひとりでだいじょうぶですか」「だいじょうぶだよ?」「……僕は大丈夫じゃないです」
多少小柄とはいえど高二と高三の男二人でくっつくのは暑苦しくて、それでも、このひとを温めたかったし、こんなことではどうにもならないことだってわかっていた
あなたを溶かすほどの灼熱がきっとコートに待っている、それだけを信じている、祈っているのではなく
・「だいじょうぶだよ」「僕は大丈夫じゃないです。泊まっていいですか」
・調子悪いんですか、と訊く冬居 「そうじゃないけど、わたし、腕が凍ったみたいだよ」
・インドでのことはほとんど聞いてない ただMVPを取った選手でありながら小柄でプロリーグ昇格もしてないことからなんとなく察してはいる それでもスカイプ越しに見ていた通りの強く美しいレイダーで、だから彼の「腕が動かない」の意味がよくわからない冬居
・「……インドと日本は、気候が違いますからね。あたためましょうか」「……」「あっ……暑い、ですよね……」無言で腕を広げるヴィハーンを抱きしめて布団の中に入る
・わたし、サンダーが留学の話してくれて、呼んでくれて、うれしかったから。日本にきて、奥武のみんなとカバディができて、よかったって、思ってるから。だから、サンダーのこと、がっかりさせたく、ない。
・がっかりなんかしないですよ、と言おうとして、ヴィハーンさんが言いたいのはそんなことじゃないし、僕が言いたいのもそんなことじゃないとわかって、「ヴィハーンさんのことが好きです」と言う冬居
・ヴィハーンさんは子供みたいに僕に抱きついてくる。安心しきって、頬を寄せて、でも、僕はヴィハーンさんを欲望している。
・知らないことは怖くて、ヴィハーンさんとの関係がどうなっていくかわからなくて怖くて、でも、ヴィハーンさんのことは、聞けばわかる。この先どうなるのかわからないヴィハーンさんの方が怖いのかもしれない。
・僕にしてあげられることは何もなかった。それでも夜明けをあなたと待っている。あなたを溶かす灼熱がコートに満ちることを信じている。
・要素
凍ったように動かないというなら温度の低い話にするべきだ、作中は夏でも彼らの夜はどこか底冷えする
太陽に愛された肌を持っているのにこのひとは寒いと言うんだ
群青、濃紺、夜明け前の一番暗いここは夜の底
季節は夏だけどイメージは冬の夜でもいいかなあ
最後に少しだけ光の気配がするように(本当には光は差し込まなくて、ただそれを信じている心があるだけだから、実際には暗くしておきたい、どうやって光らせる?)
・統一
腕が凍ったみたいなんだよ、と、ヴィハーンさんは俯いた。消える攻撃でやすやすと守備を捕らえて楽しくてたまらないというように笑っていた練習中とは、別人のように静かな表情だった。そう、なん、ですか、と、我ながら下手な相槌を打つ。あれだけの攻撃が出来て不調だと言うなら、万全ならばどれだけ強いのだろう、このひとは。
暑いですか、と訊くと、ヴィハーンさんは僕の胸に頬をすり寄せるように首を振った。だいじょぶ、と答える吐息で、Tシャツがわずかに湿った。
自国のことばで話すのは、日本語には存在しない単語でしか表せない、微妙で繊細なニュアンスを込めて話しているのだろう。あるいは、僕に聞かれたくないような弱音や本心なのかもしれない。話したい、聞いてほしい、でもわかられたくはない。日本語と英語をたどたどしく混ぜながらわかりあおうとするように、僕らのコミュニケーションは不完全で、曖昧な言葉が感情を誤って定義してしまうくらいなら、いっそ何も伝わらないほうがいい、と、僕も思う。どんな言葉もいまは遠かった。ヒンディー語でも英語でも日本語でもきっとヴィハーンさんの中にある澱は吐き出せないし、僕もそれを癒すことはできない、それだけが確かだった。