長男
 父のことは言うまでもなくご存知でしょう。禪院恵。禪院家の血に愛された男です。五条悟と同じくらい強いと呪術界では言われていましたが、禪院家としては六眼などよりもずっと上等な存在だと思っておりました。何せ、父は家にいたまま遠い地の呪霊を祓うことも、或いは呪詛師を捕らえる事もできました。いくら強いと言ったって、五条悟にはそんな事はできますまい。無下限の素晴らしさは間違いありませんが、父の、言葉の通りに影から世界を掌握する力を思えば、全てちっぽけなものです。
 無論、その父の血を引きながら、十種影法術を継げなかった我々の価値などありはしません。禪院家当主についた父は禪院家の落ちこぼれと言われた男から産まれましたが、その父は落ちこぼれしか作れませんでした。弟妹共々、禪院家にいていいような術式を持ちえませんでした。この世の全ては父に注がれてしまったような気持ちになることもありました。禪院家がどういう家なのかを理解したその日から、父を妬まなかったことはありません。
 しかしながら、同時にとても誇らしいほど強い人だった。いつも忙しく、私達に構うことはありませんでしたし、四十を過ぎた頃から部屋の外にも出ずに、ただただ総監部からの頼まれごとをこなし、当主としての勤めを果たすだけで、話すことも少なくなりましたが、父の名を知らぬ術師はいませんでした。その子供であるということは、しかし、どうしたところで呪いでした。
 私達には母がおりません。父は人前に出られないのだと言っていました。弟妹たちはいつの間にか父に連れられて、私の前に現れました。
「新しい弟だ」
「新しい妹だ」
 その言葉しか父は発しませんでした。私は言われる前から弟妹たちの面倒を見なければならないのだと知っていたので、彼らを快く受け入れ、禪院家で生きることがどういうことなのか、父の子供としてどのように振る舞うべきなのかを教えながら面倒を見ました。
 今思えば不思議なことです。父は公に妻を迎え入れてはおりませんでした。そうなると、母は妻としてふさわしくない女であったため、どれだけ子供が産まれても表には出てこれなかったのかもしれないと、つい最近まで思っておりました。
 しかし、父にそんな暇があったであろうかと考えることもあったのです。
 父は寝る間も惜しんで呪霊を祓っていました。五条悟一人に背負わせるべきではないと言い、術師として果たすべき役目を果たすべく、家族も顧みずに働いておりました。時折、学生時代の友人方が尋ねられた時だけ、その手を止めましたが、帰られた後はそれまでの遅れを取り戻すかのように影を操り、日本中の呪霊を祓うことに努めておりました。
 私は父の背中すらあまり記憶にありません。部屋に閉じこもり、食事も共にせず、近隣の小学校などの授業参観にも現れなかった父を、そういうものだと思って育ちました。ふらりと庭に現れ、鳥の囀るのを静かに聞くことがあるのを知った時、私はその時間だけこっそりと庭の様子を窺いましたが、父に話しかけるのは恐れ多く、いつも黙ってじっと見るだけでした。父は気付いていたでしょうに、私が話しかけないのならと決して振り向いてはくれませんでした。幼心に、父が私を見てくれていたなら、私も勇気を出して声を掛けたであろうにと恨んでいました。父はあまりに偉大で、あまりに遠く、本当にあの美しく強い父の子供であるのだろうかと不安になる毎日でしたが、術式は継げなかったのにもかかわらず、容貌だけは父によく似ていると父の若い頃を知る人達に言われ続けました。容姿に優れた父の面影が自分にあることだけが、唯一父との繋がりを感じられるものでした。
 では、母は一体誰なのか。思春期の私は常に悩んでいました。父だけがいても私も弟妹たちも生まれるはずがない。人間は単為生殖ではない。必ず父があり、母があって、子がなされる。父は広い屋敷の真ん中に常におられる。では母は? どこにいるというのでしょう。人前に出られないと父は言いましたが、屋敷の中にはいるはずです。父はいつも弟妹たちを外からではなく、屋敷の中から連れて私の前に現れました。何処かの病院で出産したのではなく、この屋敷の中で産ませたに違いないと私は屋敷を隈なく探しました。母がどのような人であるのかを知りたい気持ちと、父に隠されていることを暴きたいという幼稚な心が、私に愚かなことをさせました。結局の所、父の書斎以外は全て探しましたが、何も見つからず、私は途方に暮れました。父の書斎だけは近寄ることすら恐れ多く、部屋の前では音を立てぬよう駆け足で立ち去りました。
 高校生になった頃、才能のない私は一般の学校に通っており、遺伝子の話を知りました。この肉体は父と母の遺伝子をかけ合わせたものであるからして、検査をすれば母が誰なのか分かるかも知れないと、学校の図書館でパソコンを借りて色々と調べました。結局の所、母の遺伝子情報を手に入れられない為、私の願いは叶いませんでした。ただ、これをきっかけに医学に興味を持ちました。
 一連のことを、未だ見ぬ母への憧れなどという言葉で誤魔化すつもりはありません。もっとずっと根源的な、執念のようなものでした。人前に出られぬとは言え、息子の前にすら現れぬとはどういうことなのか。もしや、呪いで醜くなった女を父は囲っているというのだろうか。では何処に隠しているというのだろう。座敷牢などがないわけではありませんでしたが、それらに母らしき姿はなく、また呪霊共に食われた骨の中にあるのかも知れませんが、私に呪霊の群れへ飛び込む蛮勇はありませんでした。呪力がないわけではなかったので、この身を守ることはできたでしょうが、私は呪霊の恐ろしい見た目が苦手でした。垣間見た父の美しさから最も掛け離れたものが呪霊です。呪いとは醜い人間の感情が形を得たものです。醜くて当然であり、美しい父がそれらの醜い者共を屠っていると思うと元気が出る時もありました。それほど父は美しかったのです。
 最後には影の中に女を匿っているのではないかと考えました。それならこの屋敷の何処にも禪院家以外の人間の気配がないことにも頷けます。部屋に人を寄せ付けたがらないのも、女を影から取り出していたのではないだろうかと考えました。では、そこまでして隠したい女とはどのような人物なのか。私には想像も付きませんでした。父は禪院家の歴代の当主の中で最も強く、最も優しい人でした。術式を持たぬ女にすら慈悲を与え、望めば外で暮らすことも許しておられました。私自身、禪院家の奴隷として生きるべき所を、一人の人間として生きるように取り計らってくださいました。弟妹も同様です。取るに足らない術式を持って生まれた者には術師になりたいかと聞き、なりたいと望めば呪術高専に通わせ、なりたくないと望めば一般の高等学校に通わせました。そのような人が、容姿が醜いという理由だけで人前に出さぬはずが有りません。息子にすら隠したい相手とは何なのか。私は常に母の姿を求めましたが、ある時までは決して見ることは叶いませんでした。
 二十歳を過ぎた頃、私は禪院の家を出ていました。大学が遠方にあったので、どうしても家を出なければなりませんでした。父から離れて暮らすことはとても寂しく思うと同時に、漸く解放されるような心持ちになりました。父への術師としての憧れは同じ程の妬みを私に抱かせていました。逆立ちした所で生まれ直すことはできません。人は生まれが全てです。恵まれた環境など些細な事でしかない。どのような資質を持って生まれたか。人生はそれ一点で決まるのです。私は父の背中を追いかけることが叶いませんでした。だから、美しい父から離れがたく、同時にあまりにも強い男への劣等感に苛まれていました。美貌も相伝の術式も術師としての才能も持ち合わせた、持たぬものがない完璧な男が傍にいることの辛さは言いようがありません。物理的に距離を置くことで精神的な余裕を持てるかもしれないと私は期待しました。実際、北海道の大自然の中で苦労しながら獣医学を学ぶのは随分と私の気持ちを前向きにさせました。血と臓物には慣れていたので、私はこの学問を嫌いになることはないだろうと安心しました。殺すためではなく生かすための血と臓物なら耐えられる。ただただ無碍に殺されるのではないと知るのは私にとってとても新鮮でした。
 正月になり、帰省して弟妹たちに挨拶をすると父に呼び出されました。例を見ない事に驚きながら、父の書斎へ足を運びます。離れたことで分かりましたが、父の書斎は常に薄暗く、電灯ではなく日光と蝋燭の火で照らしているような様子で、昔はそれが当たり前だったのに、今では髄分古臭く感じ、これが呪術師という生業の姿なのだと見せつけられたようで、私は少し怯えました。昼日中というのに、ぼんやりとした部屋の中、座布団の上に座る父はやはり美しく、年を召されているようには思えませんでした。皺のない、日に当たらぬゆえに恐ろしい程白い肌を覆う髪も全ての光を吸い込んで逃さぬような黒さでした。青とも緑とも付かぬ宝玉のような瞳だけが色付いてきらきらと輝いています。憧れと怖れが私の中で蘇ります。部屋中に溢れる父の呪力に噎せ返りながらも、私は父の前に腰を下ろしました。
「大学はどうだ」
「興味深いです。患畜には手を焼かされますが」
「獣医になりたいのか」
「いずれはそのように」
「そうか」
 それでいい、と父は呟きました。私に向けての言葉のようには思えませんでした。父の長い睫毛が憂うような影を瞳に落としています。この人は本当に人間なのだろうかと不安になりました。五条悟を見た時にはこのような恐れはありませんでした。ただただ強い人なのだと心臓から震えましたが、今の父程ではありません。この人は本当に私の父親なのか。神仏が人の姿を取っているのではないかと私は本気で思った程です。ただ、私の容姿は長ずるに連れて益々父に似通ってきました。だから、私は意を決して「母はどちらにいますでしょうか」と尋ねました。
「生まれてこの方、一度もお会いしたことがありませんが、せめて私の将来についてお話してみたいのです」
 成人の挨拶すら母には出来ませんでした。今更会えるとは思いませんが、口にするだけならばと愚かにも父に乞いました。父は「できない」ときっぱり断りました。
「あいつは誰にも会わないし、会った所で無意味だ」
「そんな、一目見るだけでも叶いませんか」
「見て知ってどうする」
「私の体の半分を作った方に興味を持つことはおかしいのでしょうか」
「……俺は親に興味はなかったものだがな、なるほど確かにお前は俺とは違う人間だ。興味があってもおかしくない」
 父は嘆息しましたが、結局母には会わせてくれませんでした。
「どのような方なのですか、私達の母は」
「お前の片親は、子供に興味がない。親に相応しくない、そんな奴だ」
 だからお前も忘れろと言い、父は私を下がらせました。
 その晩、私は父の寝室をこっそり訪ねました。父の言葉に納得できず、反抗的な気持ちになったのは初めての事です。できないの一点張りで、私達に会わせたがらない女とはどのような人物なのか。母が私に興味がなくても私は母に興味があります。この肉体の半分を構成する人間。人はルーツを知りたがるものです。隠されているなら尚更暴きたくなる。それが人間の愚かしさです。
 父の部屋は昔ながらの和室であるため、帳や結界などを張らなければ音は筒抜けになります。誰もが近寄らない父の部屋に人目を避けてでも行きたいと思うほど、私は今日の会話に腹を立てていました。禪院の外を知ってしまったがゆえに、気が大きくなっていたのも理由の一つだったでしょう。愚かにも子供が親の子を知る権利はあるはずだと息巻いていました。禪院家と外の世界の道理が異なることを忘れてはならなかったのに。
 息を潜めて近付いた父の部屋からはぼそぼそと話し声が聞こえてきました。父の低く少し冷たさを感じる美しい声と、見知らぬ男の声が私の耳に入ります。たとえ私に才がなくとも、私は当主の息子です。禪院家の殆どの人間とあったことがあるので、知らぬ男の声が父の部屋からすることに驚きました。
「――あいつは思いの外、人間らしく生きようとしている」と父が言いました。私のことであろうかと聞き耳を立てます。
「自分のもう一人の親が知りたいと、そう言った」
「教えてやればいい」
 知らぬ男の声が嘲笑うように言いました。ん、と鼻にかかる声が漏れました。それは父の声です。
「言える訳がない、そんな……」
「人でなしとの子だと、禪院恵の子は皆、俺との交合の副産物だと教えてやればいい」
 げらげらと笑う男の声を、何かが遮りました。また鼻にかかるような声と何らかの水音が聞こえます。私は何を聞いているのでしょうか。
「漏れ出た呪力から生まれたものが、たまたま人の形を取っていただけだ」
「育ち、羽ばたきそうになって漸く恐れたのか?」
「どうせ子を成すことはない。人ではないのだから、人に交わった所でどうにもならない。肉体を持った呪いのなりそこないだ。お前の恐れるようなことにはならない」
 男の言葉の合間に、父の声が漏れます。私は後ろによろめき、尻餅をつきましたが、二人は私の立てた音にも怯まず、何かを続けています。私は頭がおかしくなりそうで、這々の体で今晩泊まる自室に戻った後、荷物を纏めて出ていこうとしてから、所詮全ては無意味なのだと絶望しました。
 家を飛び出し、三日の間、私は何でもいいから私を殺してくれるものを探しました。結局の所、あなたにこうして拾われてしまった。
 虎杖さん、私は何者なのでしょう。あの声の男は何者なのでしょう。父は一体何をしたのですか。私はもう何もわかりません。
長女
 私、なんにも知りません。なんにもです。名前くらいしか知りません。本当ですよ。父は私達に自ら接したことは殆どありませんから。顔くらいは知っておりますけど、もう十年以上前の記憶ですから確かではありません。十年というと、小学校の半ばくらいですが、その時に正月の挨拶をしたっきりだったはずです。父は普段、本当に部屋に閉じこもって、誰にもお会いになりません。食事を持ってくる女中にすら会いません。女中らは決まった時間に父の部屋の前に膳を置き、きっかり一時間後に膳を下げに行くだけです。父との会話はありません。ですが、屋敷中に満ち満ちる父の呪力に誰もが父の生存を感じるのです。
 父は規格外です。五条悟も百年に一度、いえ、それ以上の存在であるということは、呪術師にならなかった私ですら分かっております。父よりも五条悟に会った回数の方が多いので、それくらいは知っております。五条悟のような恵まれた存在に育てられ、後ろ盾になってもらったことで父は禪院の当主になりました。前当主の直毘人様も後押ししてくださったと聞いております。それ故に直哉おじさまには随分と冷たく当たられました。私達のような大した術式も持たず、呪力も中途半端、才もないような人間が生きている事自体がおかしいと何度も詰られました。父は直哉おじさまを叱ることも止めることもありませんでしたが、私達を禪院の外に置くようになさいました。それが一体誰のためにされたことなのか、私には何とも言えません。
 私は兄同様、呪術師の才はありませんで、外の学校で育ちました。義務教育も、高校も公立を選びました。禪院家の金をお前らの為に使うつもりはないと直哉おじさまは常々私達に言い聞かせていました。
 中卒で働けばええねん、その面だけで稼げるやろ? 乳も尻も大きくなりそうやし、その陰気臭い顔めちゃくちゃにしたい男はようさんおるやろ。男を誘う悪い顔や。
 その言葉は私の中でいつも燻っておりました。父は決して庇うことがなかったので、私は父もそう望んでいるのだろうと高校進学を考えていませんでしたが、結局、父は、必ず高校を卒業するようにと全ての子供達に命令したので、私は大慌てで高校受験の対策を取らねばなりませんでした。何故父がいきなりそんな事を言いだしたのか知りませんし、分かりません。推測もしかねます。だって、何を考えてるのかさっぱりですから。父は普通じゃあないのです。決して、私達の考える程度のことをなさったりしませんよ。腐り果てた魑魅魍魎の家を纏め上げる男ですから。
 ああ、でも、私も妹達も生理が来ないのです。分かりますか、男の人は知らないかもしれませんが、女は大抵中学生くらいまでに初潮を迎えて、孕むための準備をします。未分化だった体が、生殖活動の為に変化するのです。それを私達は知りません。私が異常だと知ったのは、保健室の先生との会話の中の事でした。その後検査をしましたが、未だ何故生理が来ないのかは分かっていません。器官がないわけではなく、ホルモンバランスなども正常で、ありとあらゆる検査をして頂きましたが、結局の所医学では解明できないという結論に至りました。家入硝子様にも診て頂きましたが、結果は変わらず、私達は生涯検査を続けることになりました。どうせ何も分かりはしません。私達はただ、私達を心配する人達の気が済むまで付き合ってあげているだけですわ。
 呪術師の体なんて、呪われているのだから、異常をきたして当然でしょう。況してや私達は禪院恵の子供ですから、歪んでいてもおかしくはありません。たとえ家族としての繋がりを感じたことが日常の中になくとも、私達の繋がりはこの肉体で証明されています。
 だから、何も知りませんし分かりませんが、私は特にそれを不満に思ったことも、疑問に思ったこともないのです。だから、私に何を尋ねられても困るのです。私達兄妹が父と呪霊の間に生まれたのだとしても、私は何も恐ろしくはありませんよ。だって、私達の家は父の呪いで満たされていますから。今更恐れよと言われても、どのように振る舞うべきか分かりません。
次男
 父のことですか。すみませんが、恐らく一番上の兄以外まともに答えられないと思いますよ。姉にもそう言われたでしょう? まあね、兄は父の奴隷になりたがっていて、姉は父に興味がないんです。まあ、あの家でこんな体で生まれてきたのだから、そうなってもしようがないでしょうよ。
 僕ですか。僕も興味ないですね。ただ、大学進学の資金を出してくれることにはとても感謝してますよ。聞けば、父が当主になるまでは、術式を持たぬ人間なんて、ゴミクズのように扱われていたとか。人間としての尊厳を無視した政治をあの家はしていたわけですね。あんな狭い家の中だけで。馬鹿馬鹿しいと思いませんか。まあこれは、最初から何も持ってないことについて劣等感を抱けなかった僕が欠陥品なのかもしれませんが。ないものはないんだから、足掻いたって時間の無駄でしょう。あるものでどうにかするしかないんですよ。父は僕らに見向きもしないし、あの家は僕らを蔑んでいる。快適な環境とは程遠い、流石黴の生えた家らしい、クソみたいな場所でした。ぽっとん便所と禪院家のどちらがマシか、と言われたらぽっとん便所ですよ。蝿が飛んでる方がマシです。呪霊じゃないから、僕でもどうにかできるでしょう。
 昔から、僕も兄もあの家では生きてることすら烏滸がましいと言われました。外に出たのは、少しでも息苦しくない場所に出るためです。あの家に居たら頭がおかしくなる。僕は呪霊すら見れません。ただの一般人です。天与呪縛でもない、なんの取り柄もない人間です。真希おばさまより、真衣おばさまの方が話は通じましたが、真衣おばさまは外に出ていこうという気概はお持ちでなくてね、出ていけるのは僕が男だからそんなことを考えられるのよ、なんて言うわけですね。あの家の教育に染まりきった価値観の女だったわけです。出てみれば分かりますが、あの家にとって価値のないものが家の中にあろうと外にあろうと、あの家の古い男たちは気にしませんよ。それに、意外と何とか食っていけるものです。大学に進学するための資金は与えてくれたものの、生活費までは面倒を見てくれなくてね、バイトなんかで食いつないでいましたが、こうして無事に生き延びていますから。やってみなきゃわかんないのに、やる前から諦めるような人間を育てる罪深い家ですよ、あそこは。
 どういうわけだか、父はそういう家で育ったというのに、何かを変えようとはしてくれていますね。特級術師に認められてからは外出することが殆どないというし、新聞も読まれないそうだし、連絡手段としての機器類も持たないのに、その先進的な考えがどこから来たのか。唯一活発にしていたという学生時代の残滓でしょうか。まあ、父の齎す変化が私達のような劣った存在にとって利益があることなのかどうかまではわかりませんがね、古い体質を嫌っている様子ではあるので父のやることなすことに期待が膨らみますね。
 でも、僕はあの家には帰りませんよ、絶対に。黴アレルギーなんでね。父だって別に僕の帰りを待ってることもないでしょう。流石に死んだ時には焼香をあげますけどね。
次女
 どなたですか、え、ああ、父のお友達? そうなんですね、確かに本家で見たような。幼い頃の私を見たことがあるんですか、それはそれは、ご無沙汰しております。上がってください、片付いていないので申し訳ないんですが。
 父の子供の中で、私だけが変でしょう、大学にも行ってないのに家を出てるのは私だけですし。こんな安くて古いアパートに住んでいると、本家の人達が随分と怒るんですよ。貧乏臭くてかなわないって。でも、オートロックのそれなりのワンルームマンションに住んでいると、それはそれで、贅沢をしている、お前程度の身の上で勿体ないと、そう文句をつけるんです。なら、節約のために安くて惨めなアパートに住んでやろうと。そういうことです。ええ、治安が悪いのも承知の上です、夜になれば街灯も少なくて、随分真っ暗になるから、夜道はとても危険ですよ。ええ、全て承知です。寧ろ、それを期待して、こんな所に住んでいるのです。
 父の話を聞きに来られたんですってね。でも、私は父のことなんてなんにも知りませんよ。姉もそう言っていた? そうでしょうね、あの家で女の価値なんてないのに、更には呪術師として生きていくことすら出来ない、全くの出来損ないで、たとえ肉親とはいえ尊き当主様とそうそう親しくなれるはずもありませんよ。一番上の兄だけは、辛うじて、私達との取り次ぎとしていくらか言葉をかわしていたようで、兄だけは父を慕っていましたけどね、私は父なんて大嫌いですよ。
 この顔、この顔が本当に嫌いで嫌いで、剥いでやりたいと何度思ったことか。
 この体も、女のように見えるでしょう、体のどこもかしこも人間そっくりに作られていますけども、私達って実は人間じゃないんじゃないかって思うことがあるんです。だって、母のこと、何にも知らないんですよ。父も何も言わない。兄だけは母親が何処かにいると思っていますけれども、私は父から生まれたんじゃないかって思っています。だって、この顔! この顔の、どこからどうみても、父そっくりなこの顔、父以外の遺伝子なんて混じっていないとしか思えないじゃないですか。父の十五の頃の写真を見て、髪型以外、子供達全員が同じ顔をしていることに、どれほどぞっとしたことか。尊き当主様のお写真に嘔吐してしまったので、私は罰を受けそうになったほどです。父が結局止めたのですけれど。
 だからね、この顔と体で父に嫌がらせをしてやろうと思って、随分とはしたないことをして回りましたよ。犯罪もしました。売春だって、アダルトビデオにだって、出てやりました。スナッフフィルムさながらの、酷いことだってされてやりましたよ。見てみます? 出演した作品は全て手元に置いてあるんです。父そっくりなこの顔が、どんなふうに歪んで、みっともなくて、汚くなっているかを確認しては、私は満たされているんです。この顔に欲情する男がいるというだけで、随分と愉快な気持ちになりますよ。あの父の顔は、汚い男どもの欲情を煽り、殺人さえ犯しかねないのだと言ってやりたくて仕方がないのです。父に送りつけてやったこともありました。その翌日、禪院のお歴々が私のこの家、まさにこの家ですよ、この家に乗り込んできて、それはもう大変なことになりました。恥さらしだと殺そうとする男、ビデオの中身と同じようなことをしようとする男、哀れに思っているふりをして痛めつけようとする男、その他諸々、本当に酷くて、私は大笑いして全員の相手をしてやりましたが、結局、父の式神がやってきて、「やめろ」と一言だけ言ったら、男どもは恐れおののいて、慌てて家を去ってしまったんです。あの時は酷かった、大家にどれだけ怒られたことか。修繕費も馬鹿にならなかったので、私は喜々としてまた出演してやりました。名前? めぐみにしました。私の名前でやったって意味ないんですから。父の名前で、父の顔で、そういうものに出るから意味があるんです。そんな顔をしないでください。私はとても楽しいんですから。自分の意志でやっている。父も、だから、止めないんです。どんなに私自身を安く売っても、どれだけ酷い醜態を晒しても、豚のような顔をして男に抱かれたり、小汚い年寄にアンアン言ってやったり、野外で変態的な格好で何人もの男に抱かれているビデオを送りつけたって、父は「自分で選んだんだろう」としか言わないらしいですよ。兄がそう教えてくれました。ええ、そうです、私が確かに選んだ、選んだけれども、何だってそんな、そんな事言われて、私。
 ごめんなさい、父の話をするのは随分久しぶりなのです。家を出てから、ずっと父のことを誰にも話したりしてこなかったから、つい感情的になっていまいました。常に頭の中にある、どうしても消えない炎といえばいいのでしょうか、父に対するこの感情は、私には扱いきれなくて、どうすればいいのか分からなくて、だから、この父と同じ顔で、父の名前で、私を痛めつけるしか、わからないんです。ごめんなさい、父のことを尋ねに来られたというのに、私のことばかり話してしまいましたね、でも、私と父の関係って、それくらい薄いのです。私、父に嫌がらせをしてやるくらいしか、関わったことがありません。父は家のことも何もかも、興味がないのです。生まれてきた子供についても、最低限の責任をとってはくれますけど、関わってくれはしません。父のことは常に他人から聞かされ、過去を見ているだけで、父のあの部屋にすら私は行ったことがないんです。怖くて。だって、見てくれないって分かっていて、行って、傷つくだけ傷ついて、あの家を出るくらいなら、私から傷つけてやりたくて。怖いんです。父に必要とされてないって、分かっているつもりでも、教えられたくないのです。だって、生まれてきた意味がなくなってしまう。あの家の中で、唯一味方になってほしいと期待していた相手に、何とも思われていないって、突きつけられたら、私。私……。
 ねえ、虎杖さん、私のことを抱いてみませんか、そしたら、父だって、流石に私に怒鳴りつけるかも知れませんし、あの薄暗くて気味の悪い部屋から出てくるかも知れません。
 うちの連中が世話になっているらしいな。
 お前がここに来た理由は大体予想がついているが、話すことは何もない。お前も俺が話すと思ってここに来たわけじゃないだろうな、俺の性格はよく知っている筈だ。
 うちのも、そろそろ分別がついていい年なんだが……。何でもかんでもペラペラと家のことを話すのはよくない。それも親の友人に話すなんて。
 余程のこと? いいや、それなら呪術師の家系なんざ全てが余程のことだろう。狗巻家のような家は他にもあるし、逆にうちのようなのもお前が知らないだけで沢山ある。うちは特別規模がでかいから目立つだけだ。
 加茂家の分家でありながら、呪術師として育てられていなかったお前には分かるはずもない。
 あとからこの界隈に来たところで、生まれた時から死ぬまで一生この汚泥の溜まった底なし沼のような家で生きていかねばならないと幼心に理解した経験はないだろう。
 だから、話したところでお前が納得するとは思えないし、何かが解決するわけではない。
 話を聞き出そうとするのも、お前が何かを語ろうとするのも、お前の自己満足に過ぎない。
 友人だからといって踏み入っていい領域というものがある。お前はそれを踏み越えてどうする? 俺から聞いた話をあいつらにするのか? それであいつらが抱えているものが解決するとは思えないし、あいつらから聞いた話を俺が聞いて今更何かを変えるとでも? そんな段階は疾うに過ぎた。何かを変えたいと思っているときにはそれは効果的だろうがな。
 何故生まれてきたのかについて考えたところで答えは出ない。それらしき言葉を連ねたところで意味がない。経緯を知ったところで変えられない過去にとらわれるだけだろうに。
 人並みの幸せなどを求めたところで、根源に呪いのような疑念がある以上、いつか破綻する。それを無視すればあるいは可能かもしれないが、燻り続ける疑惑はいつしか己の身を燃やす炎になる。しかし、その火種を消すことはできないし、余計なことを知ればその火は遥かに早く燃え広がるだろう。
 俺は世間一般から見て、最低の親だ。それは重々承知している。しかし俺ができるのはこれだけだ。
 虎杖、人様の家庭に首を突っ込むな。
 この部屋から出られない俺には、お前と釘崎の訪問だけが楽しみなんだ。俺から楽しみを奪ってくれるなよ、いいな。
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影人形
初公開日: 2021年08月26日
最終更新日: 2023年08月07日
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宿伏の、よくわからない話です。語り手は恵の息子のはず
寝台列車
寝台列車に乗ってヤッてるだけの宿伏。短い。
あぼだ
彼女の翼を捥ぐ話 第三十二話
堕天した天使とそれに付き添われている主人公のお話の三十一話目を書きます。
ひさぎ