「槙ーまきまきまきー」
 放課後、生徒会室での事務作業中に、堂島くんがそんなだらしのない声を上げた。
「なにさ、暑苦しい」
「そろそろ場所変わってくんねー? あっちぃのなんの」
 そう訴える堂島くんは確かに汗だくだった。扇いでいる団扇も役割を果たしてるようには見えない。
「残念ながら決まりだからね。あ、小糸さんは換わらなくて大丈夫?」
「うん、まぁ。がんばる」
 心配してきた槙くんにわたしは汗にふやけた笑顔を返す。
 まぁ堂島くんの言いたいことは分かるし、槙くんの誘いに乗りたいけれど、元ソフト部の根性でなんとか耐える。
 この暑さはひどい。今日の日中は三十八度だったそうだ。もう暑くて暑くて堪らない。実際わたしもとっくに汗だくだ。書類に被害が及ばないようタオルを用意しているけれど、それだってじっとりし始めてる。
「おーい槙知ってるかー、差別はよくないんだぞー」
「侑、場所換わろうか?」
 と、誕生日席で扇風機の風を受けながら仕事していた七海先輩が、続けて名乗り出てきた。
「一応元運動部ですんで、慣れてはいますから」
「七海せんぱーい」
「堂島くんも剣道部だったよね。なら大丈夫だね」
「ひどいっ」
「冗談冗談。ちょっと休憩しようか」
 こちら二人の意を汲んでくれたのか、先輩はそう言って立ち上がる。
 同時にわたしたちは、助かったとばかりに扇風機の前に陣取った。
「あぁー、涼しいー……」
「ほんとだよー……」
「こうも暑いと仕事もままならないわね。なにかいい方法ないかしら」
 扇風機前で涼んでいたはずの佐伯先輩も、幾筋もの汗を流しており、わたしが使っていた団扇を扇ぎながらぼやく。それでもよっぽど暑いのか、もふもふの髪の毛を軽くまとめ上げていた。
「エアコンがあれば手っ取り早いんだけどねぇ」
 七海先輩が苦笑する。
 この生徒会室は空調設備がない。近年温暖化が進んでいるというのに、だ。
 ……もっとも、そもそもとして校舎からも離れ使用頻度も多くないという実状があるものだから、付ける必要性が薄いという学校側の言い分も理解はできる。全くもって納得できないけど。
 とはいえ、生徒会としてこの離れを使っている以上、熱中症の危険性は否定できない。
 直射日光を避けるためのカーテンも効果のほどをいまいち感じられないし、窓を全開にしても周りが雑木林なものだから風通しもいいわけじゃない。
 そのような理路と生徒会長の人徳によって、生徒会室に扇風機が導入された。
 が、ここで問題が一つ。生徒会室にあるコンセントは奥の一つだけ。そこに挿してある延長コードの長さは心許ない。よってほとんど位置が固定されている。
 事務作業がなかったり休憩中なら扇風機にみんな集まって首を振らして涼を取るのだけれど、事務作業中はそうもいかない。
 扇風機の対面、誕生日席の一席、そして扇風機の前の二席。ここに座る三人だけが風の恩恵を受け、入り口側の二席はそれに預かれないのだ。当然、椅子取り合戦になるはず、なのだが。
 しかしここには二年生が二人。それも生徒会長と副会長だ。必然、席が二つ埋まることになる。残る一席を一年生三人で争わねばならない。
 そうは言ってもじゃんけんとかだと偏りが出てしまう。
 なので公平を期してローテで回そうということになった。文句なし、体調が悪くなった時は一旦交代というルールで。
 なのだけど、今日みたいな場合はその取り決めすら恨めしくなってしまう。
「というか、こんな辺鄙なところを生徒会室にしてるのが一番の問題だと思うけれど」
 佐伯先輩が根本的なことを言い出した。いやまぁ、最近そういう意識が薄れてきてたけど、実際その通りだ。わたしも最初、なんでこんなとこに、って思ったし。
「んー、そのことも含めてもっかい先生に言ってみようか」
「それがいいわ。……はいお二人さん、そろそろ再開しましょ」
「はぁーい……」
 無慈悲な佐伯先輩の宣告に、わたしたちは悲鳴のような声を上げざるを得なかった。
 /
「今日はもうこの辺にしよっか」
 七海先輩がそう言い出したのは、それから三十分も経たなかった。
「結局あまり進まなかったわね……」
「この暑さじゃしょうがないですよ」
 みんな暑さで集中できてなかったし。佐伯先輩でさえ苛々していたのだから相当だ。
 七海先輩のお開きの言葉に、流石にみんな暑さに辟易とした様子で、一も二もなく帰り支度を始める。堂島くんなんかは告げられた途端に勢いよく道具を片付けて風のように帰ってしまった。よっぽどだったんだろう。
 わたしも早く帰ろう。部屋にはエアコンないから居間でだらだらしたい。
「あ、侑。ちょっといいかな」
 少しばかり手間取りつつも荷物をまとめて立ち上がったところで、七海先輩に呼び止められた。
 靴に履き替えていた佐伯先輩と槙くんが、置き去りにするようにして別れの言葉と共に部屋を出ていく。
 ところで槙くん。どうして扉を閉めたのかな。暑くなるじゃないか。
 ……はぁ、と嘆息を漏らした。
「なんです?」
 その問いかけに、七海先輩は席を立って真っ直ぐにわたしの前まで来る。
 そうして――包み込むようにして抱き締めてきた。
「……なんです、これ」
 もう先輩の奇行には慣れてしまったけれど、それでも一応聞いておく。
「充電。もうすぐ夏休みだから」
「文脈繋がってないですよね?」
 呆れて言っても先輩に響いた様子はない。
「だめ?」
 ……もう。
 もう一度吐き出した溜め息は、まだ働いていた扇風機の風に流された。
「暑いです」
 それだけは言っておく。
 了承を得たと思ったのか、先輩は徐々に力を入れていく。言っても仕方がないのでわたしはされるがまま。
 と。
 すぅ――、
「な――にやってんですか、先輩」
 深くにおいを嗅ぐ音が耳元で聞こえたわたしは、慌てて先輩を引き剝がした。
 一方の先輩は、どうして遠ざけられたのか分からないといった風にきょとんとしていた。
「なにが?」
 なにが、ときたか。
「なんでにおい嗅ぎました今」
「え、汗かいた侑のにおい嗅ぎたくて?」
 なに言ってるのこの人。
「ほんとなに言ってんですか。汗臭いだけでしょもー」
 ぶちぶち文句を言いながら、わたしは鞄から制汗スプレーを取り出して汗臭さを上書きするようにかけまくると、先輩は情けない悲鳴を上げた。
「あ、あーっ」
「なにがあーっですか」
「うぅ、侑のにおいが……」
 そんな肩を落とすほどのことだろうか。
 ていうか、いくらわたしだって流石に女子としてそこら辺は気にしてるのに、なんてことを言うのか。信じらんない。全く。
「そんながっかりすることじゃないでしょ。犬ですか」
「だってぇ……」
「先輩のへんたい。もう帰っていいです?」
 それだけなんだったらこれ以上付き合い切れないと振り返ろうとすると、手首を掴まれて引き留められる。
「じゃ、じゃあ今度は嗅がないから! もう一回、だめ?」
 先輩はそこまでするほどかと思うくらいに、必死にお願いしてくる。
 そうやって、上から見上げてくる目は、どうにも。
 ……この人はほんとにずるいと思う。
「……もー」
 盛大に呆れた溜め息を吐いたわたしは、それ以上言うことなく再び先輩に向き直った。
「いくよ……?」
 今更のように確認してから、先輩はさっきと同じように抱き締める。
 ……とく、とく、と衣服越しに鼓動を感じる。熱が伝わってくる。
 扇風機の風に、先輩の長い髪が煽られる。
 ふわり、と。先輩のにおいと、汗のにおいが鼻を擽った。
「暑いんですが」
 また同じ言葉を吐く。それに先輩は穏やかな声で答える。
「侑はちょっとひんやりしてるね」
「先輩が体温高いだけじゃないですか」
「そうかなぁ?」
「そうですよ」
 でも。
 暑いけれど。文句は言うけれど。
 いやじゃあ、なくて。
 わたしにはその温かさが、どうにも手放せなかった。
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