「今年の隅田川の花火大会中止だって」
 理香子は、淡い黄緑色のスマホの明かりを見つめながら、夜光虫のように呟いた。
「そりゃあそうでしょうよ」
 マリーはウンザリしたように頬杖を付き、シャーペンを回しながら答える。
 理香子はロフトから手を伸ばし、丸い天窓をカチャンと開けた。ゆるい熱風が流れこんでくる。パタパタとうちわで仰ぎながら、クッションを引き寄せ、鮮やかなゴザの上へ寝転んだ。
「あんた暑くないの?」
 マリーが、タブレット越しに理香子へ聞いた。マリーはエアコンのある自室で勉強机に向かっている。机の上にはストローを挿した麦茶があり、グラスの中には大振りの四角い氷がたっぷりと入っていた。
「んー、花火大会の時の方が暑くない? 浴衣着て、人混みのなかで」
 白いタンクトップを着た理香子の二の腕には、うっすらと汗の粒が湧いていた。マリーには汗の視認はできなかったが、水飴のようにとろけた理香子の顔を見て、思わずストローをかき回した。カラン、と氷の音を聴かせる。
「あ、いい音」
 理香子は目をつぶり、一瞬の涼を受けとった。
 トラックがブロロロと走り去る音が聴こえる。マリーの飼い猫がニャアと鳴いて、彼女の部屋から出ていった。マリーは数学の課題をカリカリと解き、理香子はゆったりと夜風にあたり過ごしている。
「そこ、ずいぶん居心地良さそうね」
「マリーも来なよ」
 夏休み前に妄想した秘密基地を、理香子はロフトを片付ける事で完成させた。カラフルなゴザを買い、自室にあるCDプレーヤーとコーヒーセットと観葉植物を持ち込んで、中央には楕円形のローテーブルが置かれている。概ね理想通りの部屋だ。
「でもエアコンもないんでしょ? マスクで過ごすのは嫌だよ」
「むー」
 元々ロフトは大量の収納ケースがあったので、大掃除をマリーもタブレット越しに付き合わされた。処分したのは小学校の時に遊んだおもちゃや、使っていない季節のアイテム。理香子はいちいち広げて紹介したが、マリーもかなり覚えていた。
『見て、浴衣!』
 去年の花火大会で着ていた、理香子の浴衣もそこにあった。色とりどりの紫陽花の上に、風鈴が描かれた彼女の浴衣。水彩で滲んだようなその絵柄と色合いは、背の高い理香子によく似合っていた。
『それ、似合うよ』
『ありがと。マリーの浴衣も似合ってたよ』
 マリーは赤いスイカ柄の浴衣だった。理香子と並ぶと子供っぽくて恥ずかしかった。似合うと言われても非常に遺憾である。その時の会話を思いだし、苦い顔でプリントを眺めた。
 会話を止めて、勉強机に向き合うマリーに対し、理香子は頭上にあるピンク色のCDプレーヤーで、こないだ買ったCDを流し始めた。
 音量は最低限に落としているが、ドラムの重低音が聴こえてくる。マリーはしかめ面で文章問題を眺めながらも、利き手じゃない方の指先は、音楽に乗っていた。
「問題そんなに難しいの?」
「うん、最後の図形のやつ」
「あれかあ」
 理香子は起き上がったついでに、下から持ってきた湯沸かし器に電源を入れた。古い菓子箱からフィルターを取りだし、ドリッパーにセットする。一方、マリーはたくさん直線を引いて計算しては、丸い囲いをごしゃごしゃ描いた。
「数学の課題、あんたはもうやったの」
「うん、昨日の昼間に終わったよ」
 理香子は秘密基地の暗がりの中、コーヒー粉の上から、お湯を丁寧に注ぎ入れてドリップを始めた。マリーは皎々と光る電気スタンドの下、消しゴムのかけすぎでグシャグシャな藁半紙を見て絶望していた。
「夜はゆったり過ごすのね」
「だって昼の方が頭が働かない?」
「私、逆。昼はムリ」
 今でこそキリっと勉強しているマリーだが、昼はイモムシのようにグデっとソファで寝そべっている。夜は花弁を閉じるように静かに過ごす理香子は、出来上がったコーヒーを見て、満足そうに香りを嗅いだ。
「コーヒー、うまくできた?」
「うん」
「暑くないの」
「湯気が欲しかったの、見て」
 理香子は湯沸かし器に残っていたお湯を注いだ。抽出で少し冷えたコーヒーから、再び、白い湯気が立ちのぼる。
「花火の煙だよ」
 残念ながらタブレット越しでは、ほとんど湯気は見えなかったが、理香子の目にははっきりと隅田川の花火が映っている。
 コーヒーのカップにさざめく黒い波は、川だ。屋形船が浮かび、ドンドンと太鼓の音と同時に、ひゅうひゅうと花火の種打ち上がる。理香子は音量を上げた。ドラムの重低音が、川底に響いて波が盛り上がる。
 鮮やかな色とりどりのゴザは、川に映る花火の色だ。
 赤、青、桃、白、緑、黄、
 止めなく移り変わる色の郡れに、周囲のどよめきは大きくなる。
 マリーは屋台船の隣にいる、浴衣姿の理香子を見つめた。
 彼女の瞳はビー玉のように色がくるくると変わり、どの色もすべて美しく彼女を際立たす。
 
「——マリー」
「去年、屋形船乗ったの思い出してた」
「凄かったね、また乗りたいね」
「うん…………」
 いまだにゆらゆら揺れている心地だった。今すぐ、彼女の秘密基地に行きたい。
「私はね、砂漠を思い浮かべてた」
「砂漠の花火?」
 理香子はテーブルをスゥッと触った。白いブラウンの、一面、砂の色をしている。
「砂漠なら何もないし、広大だから、大勢の人が見れると思うの」
「あぁ、それなら開催できるかもね」
 茫漠たる砂漠の中心に、ゴザを敷いて花火を見よう。
 隣人とは距離がとても遠いから、暑くてもマスクをしなくて平気だ。
「そうなの、船に乗ってもいいの。砂漠の海に行こう」
 ゴザの下の砂から屋形船がゴウンと出てきた。ドンドンと花火が打ち上がる。
 凸凹した藁半紙に残る、線と円の数々が、打ち上げ花火に見えてきた。
 
「問題解けた?」
「えっ」
 砂漠の大海原の屋形船は、シュルシュルと消えていき、目の前には図形問題が残った。
 急に梯子を外されたマリーは、恨めしそうに理香子を睨んだが、彼女は全くこちらを見ずコーヒーを堪能している。飲み干した後、起き上がり、タブレットの画面から消えていった。
(トイレかな?)
 マリーはついに自力で問題を解くのは諦めて、問題集を開いた。似ている例題を探しあて、なんとか公式を当てはめ、解くことに成功した。図形なんて大っ嫌い。悪態をつきながらストローを啜る。グラスの氷はすっかり溶けて、麦味の水と化している。
 ロフトの梯子をドンドンのぼる音がして、理香子が戻ってきた。
「見て!」
 鮮やかな紫陽花の浴衣を纏っている。
「ど、どうしたの」
「いいじゃない、勉強終わったならもうちょっとおしゃべりしよ!」
「いいけど……」
「マリーもあの浴衣着てね、スイカのだよ!」
「なんでよっ」
「あ、このまま着替えてもいいよっ」
「えっち!」
 ふたりの秘密基地の通信は、まだまだ続くのだった……。
終わった!!!
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