「今日はこれからカニを食べるの」
「良かったね」
「マリーも一緒に食べよう」
「は?」
夏休みが2週目に入ったある日。赤いカニの爪を持ちながら、タブレット越しに理香子がニッコリと微笑んだ。
ふたりの秘密基地——もとい理香子宅2階のロフト部屋に、カニ鍋とガスコンロを持ち込みグツグツと鍋を沸騰させた。
「そういうご馳走は家族と食べなさいよ」
マリーはタブレットから赤い蟹爪と白菜がグラグラ揺れる様子を呆れて見ている。
「いいんだ、もうウチの家族も飽きてるの。一緒に食べるの」
毎晩パパはベランダのテントでビールを飲んでるし、ママはスマホでドラマ見ながらご飯食べてるの。そう現代家族らしい様相を語った。
「フゥン」
最近はマリー家も似たようなものだった。夜はさすがに集まるものの、誰かしら欠けてる日も多くなってきた。マリーは出来上がっていくカニ鍋を眺めながら、ドクターペッパーの缶をプシっと開けた。
「カニ、かにかに、カニ♪」
「やめてよ」
理香子はカニを引き上げ、カチカチと長い蟹用フォークでほじりはじめた。マリーはそれを見ながらうどんを啜る。
「それ何のうどん?」
「アサリとワカメと天かす」
「わー、美味しそうだね」
「黙れよ」
マリーは下唇を尖らせて、アサリの黒い二枚貝を上唇にくっつけた。理香子の小皿に、蟹の白い身が溜まっていく。
「海行きたいね、海」
「海?」
マリーがうどんの出汁を啜る。
「うん。磯の香りを嗅いで、波の音を聞きたい」
モソモソと茹でた白菜を齧りながら、理香子が願望を述べた。
「お台場とかじゃダメなの」
「浜辺があるところがいいな。千葉県の銚子とか良かったよ」
「銚子って千葉の先端の?」
「うん。不思議な気分だった。ここからずっと行くと太平洋なの。ハワイなんだよ」
真っ白な犬吠埼の灯台に立ち、眼下に広がる海を見つめながら、理香子が両腕を横へ開いた。ゴツゴツした黒い砂岩に、白い波の飛沫がかかる。
「その前に小笠原諸島に会えるんじゃない」
「グアムに立ち寄ってもいいね」
マリーが本棚にある地球儀を持ち出し、うどんを啜りながらクルクル回した。
「私は沖縄行きたいなあ。前は冬に行ったから海には入ってないのよ」
「一昨年だったっけ。シーサーお土産に買ってきてくれたよね。マリーみたいな顔してるの」
「はい?」
マリーは一瞬でシーサーの顔になった。
理香子はマイペースに、モソモソと蟹の身をほじりながら食べている。うどんを汁まで飲み切ったマリーは、シーサー顔のまま部屋を出て、キッチンから切った桃を持ってきた。
「海行きたいね、海、うみ」
「カニの話しなさいよ」
太いタラバガニを食べながら、理香子は左右に体を揺すった。マリーは地理と生物の問題集と資料集を机に置いた。地理の問題集には青く美しいハワイ湾が、生物の資料集には両腕を上げたザリガニの写真が載っている。
「そうだ見てみてマリー。これ綺麗でしょ」
急に思い出した理香子は、ロフトに僅かに残った収納ケースから、何か物を取り出した。
それは貝殻の形のドールハウス。ツルツルしたアクアマリン色のプラスチックで、2階建てのドールハウスだ。シリーズの中でも大きいおもちゃで、マリーも当時大好きで憧れていた。幼稚園の時にトイザらスで購入し、確か小2まで遊んでいた。
「うわ懐かしい……! それ取っておいたんだ」
理香子がパチンと蓋を開けると、そこは海と砂浜のシールが広がっていた。手前には桟橋と小舟が浮かんでいる。砂浜を奥に進んで、赤いドアを開けたら上の殻には淡い色で塗られたおうちがある。
黄色いリビングテーブルとキッチンに、水色の浴室には猫脚バスタブ。エメラルド色の寝室は、天蓋付きの貝殻の形のダブルベッドだ。各部屋には丸窓がついていて、外には浜辺にヤシの木が揺れている。
ピンク色の勉強部屋には立派なグランドピアノが置いてあるが、ギターも置きたいと理香子が言って、マリーの家の食玩のミニギターを勝手に持っていったのを覚えている。10年近く経ち、再び出会ったマリーのギターは、ピアノのそばにちゃんと置いてあった。
「どうするの、それ」
「これで海を漂流するの」
パチンと貝殻ハウスの蓋が閉まった。白い犬吠埼の灯台から、アクアマリンの貝殻が落下し、ざぶんと群青色の海へと潜る。ぶくぶくと泡を立てながら海へ潜っていく。
二人はリビングでカニ鍋をつつきながら、丸窓から移りゆく太平洋の海中を眺めた。
「すごーい。このサイズだと、イワシもイルカみたいに大きく見えるね」
「この蟹はなんで小さいのよ」
「私たちと一緒に縮んだからじゃない」
甲羅から蟹味噌をちびちびつまむ。貝殻のドールハウスは黒潮から太平洋海流に乗り、すごい勢いで進んでいく。
「締めはうどんを入れよう」
「七味もかけてね」
脂の乗ったマグロと並走して海を進む。お腹が良くなり、猫脚バスタブで泡風呂パーティーすることにした。水色の浴室は、外の海の光が入り、より一層青い色をしていた。光で白くきらきら鱗が光る魚の軍団に、ドクターペッパーの缶と同じ赤紫の大きな魚が食事をするために群れの中へ入っていく。
「ここからまっすぐ進むと、カリフォルニアに着くのよね。よく日本からの漂流物が流れつくって」
「えっ、ハワイは?」
「いかない。ここから南へ逸れていかないと」
「待って待って」
理香子は慌てて泡まみれの体で出ていった。ドアを開け、シールの海に浮かぶ小舟を、キュッと右へ動かす。
「これで良し!」
「どういう原理よ」
2人はおうちに戻って着替えた。白いお揃いのキャミソール。ピアノ部屋で、音楽で遊ぶ。久々に出会った食玩ギターは、長年放置していたにも関わらず、見事な音を奏でてみせた。
「セッション楽しー!」
「次はこの曲ね、3小節目で入ってきて」
理香子はピアノをパンパン叩き、マリーはギターとくるくる踊る。海にいることも忘れて、ひたすら楽しんだ後は、寝室の貝殻ベッドに寝転んだ。
「明日ハワイの浜に到着するよ」
「早いわね」
「うん、いっぱい遊ぼうね」
エメラルド色の天幕を見ながら、2人は手を繋いで眠る。ゴポゴポと水の音を聴きながら——。
「あー、美味しかった!」
理香子がカニ鍋を食べ終わった。冷や飯を入れて、最後のシメまでしっかり楽しむ。マリーは桃を食べながら、地理の小問を解いていた。
「良かったね」
「片付けよっと」
テーブルのガスコンロと食器をまとめ始める。貝殻のドールハウスも、収納ケースにしまおうとした。
「待って。それ、飾っておいて」
「え」
理香子が振り向いた時には、マリーは机に頬杖をついて問題を解いていた。『マリアナ海溝』とカリカリ書く。
「わかった、しばらく置いておくね」
理香子は貝の口を開けて、テーブルに置いておいた。
マリー所有の食玩ギターが、天蓋ベッドの傍に置いてある。
「そのドールハウス、取っておいてよね」
「分かった。おばあちゃんになっても取っておくね」
「そこまでは、流石にいいよ」
「ついでに蟹の殻も飾っておこう」
「やめなさい」
片付け終えた理香子が、ベースを取り出し、かき鳴らして歌をうたい始めた。太平洋の真ん中で、セッションした時の歌だ。マリーは3小節目から鼻歌で参加する。千駄ヶ谷に住む彼女たちは、翌朝ハワイに流れ着くのを楽しみに眠りについた。