「秘密基地が欲しいー!」
駅を降りてすぐ、暑い夏の始まりの坂道、前を歩いていた理香子が唐突に叫んだ。
「秘密基地って?」
学校に置きっぱなしにしていた大量の荷物を左右の肩に背負って、マリーはイライラと返事した。
「そう、秘密基地。欲しくない?」
「この千駄ヶ谷のどこにそんなスペースあるのよ」
東京で坂の上に住むってのはステータスだと婆ちゃんはよく言っていたけど、送り迎えの車があるわけでもない坂道を登るのは億劫でしかない。常に不機嫌なマリーと違い、理香子はステップしながら外苑西通りを上へと進んでいく。
「そんな広くなくていいの。ふたりだけの秘密基地がいいな。クッションを敷いてコーヒー淹れるの。植物もいっぱい置いて。CDプレーヤーでボサノバをかけるの。あとはギターとベースを置く場所があればいい」
「ロフトを片付ければ? 理香子んちにあったでしょ」
「違うのよ。外にあるのがいいの。風の音を聞きながら、虫が入ってくるの」
「いやだよ虫は。奥多摩の婆ちゃんちでもう懲り懲り」
「そうなの?」
「そうだよ、バッタとカマドウマがしょっちゅう廊下を歩いているんだから」
マリーは幼少期に見た木造家屋の様子を思い出して震え上がった。
「形はドーナツ型の基地がいいな。真ん中に楕円形のローテーブル置いて、左右にゴザ引くの。あ、ゴザっていっても、なんかインドみたいな凄いいろんな色で織ってあるカラフルな敷物ね。ゴザに寝そべって、クッションに寝転んで、ふたりで色んなことお喋りするの。頭のところにCDプレーヤーとCD置いて、テーブルの上にはコーヒーメーカーとティファール置いて。足元にはギターとベース置いといて、周りには観葉植物が置いてあるの。ちっちゃなヤシの木とか、モンテスラとか、ガジュマルとか。でね、夜になったら風とセッションして、植物に音楽聴かせるの。素敵じゃない?」
「ふーん」
理香子はマスク越しに想像力たっぷりに語っているが、秘密基地のモデルは、どうみても目の前にある新しい国立競技場である。色々な植物が建物の外周に植わってるが、どうも虫がたくさんいそうで苦手だった。
「国立競技場があるじゃない。あれにしときなよ」
重い鞄の取ってから指を外し、マリーは左にある巨大な建物に向かって指さした。オリンピックは果たして開催されるのだろうか。
「やだなあ、あれを秘密基地にできるほど、わたし巨人じゃないよ」
女子高生としてはかなり背の高い理香子は、キャッキャと拒否してきた。
「それに国立競技場はいつか宇宙人が地球から切り離して空へ飛んでっちゃうと思うの。だから使っちゃダメだよ。基地として使うなら最高の形をしてるけど」
「へえ。宇宙に行ったらあの植物も枯れちゃうね」
マリーは理香子の空想に乗ることにした。
「それは大丈夫。屋根からプシューってバリアが出るから。宇宙でも全然枯れないの」
「じゃあ宇宙でもオリンピックできるわね」
「そうだよお、宇宙飛行士じゃなくてもマラソンができる時代になるから」
ゴオオと後ろで競技場が宙へ登る音を聞きながら、坂道を登っていく。
「それで秘密基地はどこに建てるの? 虫がいっぱいいる所はやだよ」
「じゃあ、あんま虫が出なさそうな森にしよう」
「そんなとこある?」
「新宿御苑」
御苑かい。マリーは思わず後ろを振り向いた。遠くにうっすらと緑が見える。
「御苑なら虫はほとんどいないと思う」
「まあ家からも近いけど。人が寄ってくるんじゃない」
「いいよ、音楽聴いてもらおうよ」
理香子が手を叩いて喜んでいる。ふたりだけの秘密基地とはなんだったのか。
「趣旨変わってきてるじゃないの。まああそこで路上ライブしたら気持ち良さそうだけどさあ」
「プラタナスのところはだめだよ。あそこは飛行機の滑走路だから」
プラタナスの並木道の真ん中に、空想の飛行機がブオオオと音を立てて降りていく。
「どうせならその飛行機を秘密基地にしようよ、ふたりだけの秘密基地だよ」
マリーが理香子に提案した。飛行機の中なら虫もいないし、どんなに音楽を鳴らしてもたしなめる者は誰もいない。
「えっ、飛行機が秘密基地? ずっと座っているのは嫌かなあ」
「座席は全部とっちゃっていいよ。中は楕円形で、ソファーとテーブルとゴザがあるのよ。窓から東京の景色を見ながら、寝転んで鳥と一緒に飛ぶの」
「コーヒーを飲みながら? ギターとベースもそばに置いていい?」
「もちろん。そんで、あちこちの公園に降りて、ゲリラライブやって去っていくのよ」
「代々木公園も井の頭公園も行き放題だね!」
「そうよ、もし警察に目をつけれて、いざとなったら国立競技場に乗って、宇宙へ飛び立つの」
「それで、宇宙基地へ行くのね、楽しみ!」
ふたりの女子中学生は、笑いながら千駄ヶ谷の坂道を歩いていく。夏はまだ始まったばかり。