日本の夜は泥に似ていて眠りにくい。
湿度だけならインドの雨季のほうがよほどひどいはずなのに、どうしてだか全身にどろりと重たくまとわりついて、寝返りさえ邪魔されているような錯覚を起こす。空気が無臭だからだろうか。ここらへんだってそんな都会でもないぜとチームメイトは言うけれど、喉奥まで真っ黒く煤けるほどの塵埃も、町の土壁に歴史のように染み込んだスパイスの香りも、生き物の肌が呼吸するたび発する饐えたにおいもなにもない日本の空気はクリーンで、嗅覚を失ったかのようにこころもとない。目を閉じると立体感のないべったりとした闇のなかにずぶずぶ沈み込んでいくような気さえする。呼吸に支障はないのに、泥で溺れるようにどこか息苦しい。
試合に向けて練習はどんどん厳しくなっていくけれど、もうすぐ始まる東日本大会に、おれはもしかして出られないかもしれない。おれはコートに立つことなく日本を去るのかもしれない。沸きあがってきた不安を、歯の裏を舐めて唾液ごと飲みくだした。そんなことを考えるべきではない。決勝リーグに連れていくと言った親友を、疑うべきでは、ない。
ケジメとして決勝リーグまでは奥武だけで勝ちたい、と親友は言った。
留学にまで誘っておいてこんなこと言うのは勝手だ、それはわかってる、だからヴィハーンが本当に不服なら強引にそうする気はねえ、でも、これが最後なんだ、どうにか頼めねえか。クロサワ映画のサムライみたいに頭を下げるサンダーに、決勝リーグまで勝てるの、と訊く以外、おれになにが言えただろう。トーナメント表見たよ、この学校にも、ここにも元日本チームの選手いるでしょ、奥武は強いけど、ほんとに勝てるの。勝つに決まってんだろ。まあ、そだね、マサトとかは別のブロックだもんね。そうじゃねえよ、決勝リーグまでおまえのこと連れてくから、絶対に勝つ。言い切ったサンダーの真剣な眼差しは澄みきっていて、嘘の濁りはなかった。「山田」が「サン・ダ」と読めると知ってから洒落で呼び始めたサンダーという綽名は、おれにとってはシュン・ヤマダというフルネームよりもずっとよく彼をあらわす名前に思える。莫大なエネルギーの凝縮と爆発、それによって放たれる純度の高い光。人間の意思などでは太刀打ちできない圧倒的なちから。サンダーにはそういうところがある。別に高圧的なわけでもひとをねじふせようとするわけでもないのに、どうしてだか逆らいがたい。キャプテンに向いている男だと思う。
奥武だけ、に、おれは入らないんだね、と、だからおれは言わなかった。「決勝リーグまでに足技かんぺきに仕上げるよ」と、笑った。決勝で全員倒そうな、と、サンダーも笑った。伸び悩んだ身長のせいかリーチの感覚が調整できない、どうしても意識とタッチの速度が一致しないんだ、と相談したおれに、じゃあ足技を磨けばいいとこともなげに言ったときと同じ、明るくてひらけた笑顔だった。そもそもが速いんだし、身長のカバーとかじゃなくて新しい武器増やすつもりでやれよ、足技ならいけんじゃねーの、と、頭からおれを信じて、背中を叩いてくれたのだった。アカデミーで基礎はできているといえど身のこなしから組み立てを変える必要があって、正直、大会までに実戦レベルへと持っていける自信は無い。実のところ、「決勝リーグから参加する」というのはおれにとって好都合でさえあるのだ、と頭では考えている。「奥武だけ」というのも、同じ代の日本チームがそれぞれの進学先で新しいチームを作って、誰が一番強いか決めよう、という約束に基づく言葉だと理解はしている。三年になって急にやってきた俺を素直にエースとして受け入れてくれた奥武のみんなが、おれを仲間だと思っていてくれることも、わかっている。わかっていたって、苦しいものは苦しいことに、変わりはないのだけれど。
瞼の裏がぱっと濃紺に光った。体を起こしてカーテンを開けると、スコールみたいに激しい雨の向こうで強い閃光が輝くのが見えた。サンダーに留学へ誘われた夜に似ている。天気は記憶にないけれど(自主練を「できなかった」のではなく「休んだ」覚えがあるから晴れていたんだろう)おれの精神は嵐のようだった。トイレから自室に戻って、消し忘れたままのパソコンがメッセージの受信を知らせてぼうっと光っているのを見たときのおれの気持ち、サンダーからのメッセージを読んだあの瞬間のことは、きっと誰にもわからない。
日本に留学しないか、と誘ってきたサンダーは、おれの現状を単にプロ昇格できず落ち込んでいるだろうという程度にしか把握していなかった。それは当然といえば当然で、サンダーはおれがアカデミーでどういう位置にいるのか知らない。ロッカールームの会話を聞いたこともない。サンダーがおれのみじめさを知らないこと、それでもおれを気遣ってくれたこと、おれのカバディ選手としてのちからを信じてくれたこと、それらがどれだけあの夜のおれを救ってくれたか、一生サンダーに言う気はない。雷光のように嵐を切り裂いてあたらしい道を示してくれた恩は、プレーでしか返せないほどに大きい。返せるだろうか。試合に出られるだろうか。出られたとして、いまのおれはそれができるプレーヤーだろうか。泥に足を取られてもがきながら必死でコートに立っている、いまのおれは。
窓を開け、日中のどろついた暑さを押し流す強い雨脚を嗅ぐと、すこしだけデリーに似ていて安心した。奥武だけ、のなかに、サンダーはおれを数えない。インドにも日本にも、おれが本当に帰れる場所なんて無いのかもしれない。それでも構わない。サンダーはおれに「奥武に来てくれ」と言った。チームメイトは衒いなくおれをエースと呼んでくれた。それだけで、もう、おれは充分だ。
大丈夫だ。おれを信頼してくれるチームがあって、背中を押してくれる親友がいて、だからおれは、この泥のなかから這いずり出してどこにだって行ける。
どこにだって行けるはずなんだ。
(以下、作成用メモほか)
要素
・泥のようだ、日本の空気はインドと違って、(でもインドにだって雨季はあるから湿度の高さなんて慣れっこのはずなのに)どうしてだろうか、息がしづらい、どこにも行けないような
・足を取られている、前に進むのにひどく疲労する
・「奥武だけで勝ちたい」ということばの意味を、きっと彼は知らないから、おれも知らないことにする
・だって「脚技ならいける」と言ってくれた、日本に来てみろと言ってくれた、夜から連れ出してくれた、雷、一瞬の閃光、あの夜、isoratingな世界を超えてつながったひかり
・きっとこの国でなら、彼らとなら、どこかに行ける それがどこなのかはまだわからないけれど
断片
・雷が鳴っている。死のうと思った夜にさした光を思い出す。
・泥のようにまとわりつく空気のなかで、沈むように眠る、蓮の花は泥から咲く