9話 ソルティーの落馬(仮
調教コースには疾風の姿は見えなくなっていた。
もう、体の手入れをしているころか。
物見台から降りてきたリュミエールと調教師が静かに厩舎へ向かって歩いていると、反対側から血相変えて駆け込んでくるヒートの姿があった。
「落馬だ! ソルティーが落ちた」
思わず調教師と顔を見合わせる。
体が勝手に反応し、走り出した。
「ソルティーは無事か」
「落下の時に腕をやっちまった」
大袈裟に右腕をおさえる仕草で伝えてくる。
現場に到着すると、腕を抱えてうずくまったソルティーがいた。
地面に落ちたせいか、土埃が顔に張り付いたままだ。
「す、すみません……」
調教師の顔を見ると開口一番、目を真っ赤にして、彼女は詫びをいれてきた。
駆けつけた救護班の担架にのせられ、慌てるヒートに付き添われながら医務室へ急いで運ばれていく。
その際に、彼女はリュミエールに視線を投げかけ、なにかを言おうとしていた。
だが、言葉にならず、リュミエールも口を開くことはなかった。
「大きな事故でないのはありがたい」
ケガの程度がそれほどでもないだろうとぱっと見てわかり、一安心も、今度は別の問題が出てくる。
「おまえさんの言葉が効いてくるな。慣れない騎乗だ、こういうこともある」
ソルティーが謝っていたのは、他でもない。
「乗り手がいなくなったな……」
疾風はソルティー、金獅子はリュミエール。
そう決めたのはいつだったか。
二人とも騎乗しないとなれば、誰が乗るのか。
その道の者こそがふさわしい。
リュミエールの説が意図していない方向から真実味を帯びてきた。
「申し訳ありません。私が未熟なばかりに……」
三角巾で右腕を吊ったソルティーはミストに深々と頭を下げた。
頭を下げながら、無事だった左手であの王冠の刺繍の入った鞭を返上する。
もう騎手は出来ない、と。
「俺としたことが不注意でソルティーを危ない目に遭わせてしまった。俺からも謝りたい」
ヒートも同じく頭を下げる。
扉の影から、リュミエールは見守っていた。
ロイヤルガードという立場を捨てた身分だけで言えば、この場に堂々と入ることは出来ない。
だが、ついてきてしまった。
「大丈夫? ……でもないか。腕ですんだからよしとしようよ。きっとすぐ治るよ」
返上された鞭を受け取り、
「思うんだけど、たぶん、あたしの方が馬の扱いうまいよ」
冗談半分で笑ってみせるが、ヒートとソルティーには次に続く言葉がわかったようで、頭を抱える。
「疾風(はやて)なら、あたしが乗るから大丈夫」
別にソルティーがケガしたのを喜んでいるわけではないからね、とフォローするが誰もその言葉を聞いてない。
「いやそれは……」
ソルティーもヒートも、ダメだと言い切れない。
二人が起こした事故だ。
「わたしのように落馬するとも限りません!」
ソルティーが体を張って叫ぶ。
いやいや、とミストは指を振って得意気に反論する。
「疾風に皇女が乗る、それがニュースになれば、こっちのもん。疾風に注目を集めて、金獅子へのマークが少しでも減ればいい」
青空賞に勝ったこともあり、疾風にスポットライトがあたってもなんらおかしくない。
それにミストが乗れば話題性抜群。新聞はこぞってアイスブループリンセスの出陣と書き立てるだろう。
出走馬すべての陣営への牽制にもなる。
ウィリアムだけが敵ではないのだ。
すべての出走馬に勝たなければいけない。
気を抜けば、皇族勢全滅、ウィリアムも共倒れ、今回の騒動に全然関係ない人が勝つ場合もありえる。
そのとき、それこそメリーを指名されたら元も子もない。
百歩譲って、まだウィリアムの方がマシだと思う事態は避けたい。
「でもそうしたら、金獅子には誰が……」
扉の影にいるリュミエールへ、一斉に視線が集まる。
当然の流れだ。
しかし、当の本人は眉一つ動かさない。
つかつかとミストがリュミエールに歩み寄って、その腕をぐいっとつかみ、明るいところに引っ張り出す。
「あんたがその気になれば、話が早い」
問い詰めるように、話を一気にまとめる。
「自分から申し出てくれるまで、待ってるつもりだけど、そろそろ時間切れ」
たとえどんな悪態をつこうが、帰ってくるのを待っている。
ミストは妹が決して自分から言わない気持ちを代弁した。
レースは近づいている。
負傷交代で乗り替わりと申し出る分には仕方がないので、当日だろうと乗り替わりが認められる。
ただ、前日や当日に当事者の気持ちの問題で乗り替わりを申し出ても、正当な理由がない限り不正を疑われて裁定委員に蹴られてしまう。それはどんな権力者も同じだ。
審判である裁定委員に協力することになっている。
乗り役が決まらず失格なんてあまりにみっともないし、情けない話だ。
「ぎりぎりまで粘るのもいいけど、明日の最終追い切り、あの子が見に来るから、せめて志願してくれないかな」
その予定も知っていた。
調教師が迷ったあげく、背に腹は代えられないといいながら、ベテラン騎手に依頼していたことも。
「すでに……サウス騎手に依頼済みであります」
調教助手が乗るのは自然なので、あえて騎手に頼むことはないが、レースを意識した追い切りにしたいと考えていたのかもしれない。もし、リュミエールを乗せるなというお触れが出ていたら、調教師は悩まない。
「その騎手さんにあたしから断っておく。それでいいでしょ」
仕事をドタキャンするとは言え、わざわざ皇女が頭を下げることではない。
「そこまでしていただかなくても……」
「そこまでしたいの。だって、当たり前のことでしょ。あの子はあんたに乗ってもらって戦いたいんだから」
それでは勝てないと、言い返そうとしたとき、
「リュミエールで負けたら、仕方ない」
強い口調でかぶせてきた。
反論をさせないとばかりにミストが続ける。
「あんたががんばって戦って、負けたら仕方ない。そう思える。どこの誰かわからない人よりよっぽど。たぶん、いつか、そういう日が来るとは心のどこかで覚悟はしてるんじゃない」
いつかそういう日が来る?
それがいつになるか。
「それだけ信頼されてるんだから、結果はどうあれ全力でつきあってあげなきゃ」
イヤダイヤダと言うことは出来るが、結局、政治的な都合で今後も政略結婚話が出てくるだろう。
それを全部断って、自分の想いだけでそういう話をもってくることができるのは希有な話。
そっちの理屈もリュミエールはわからないではない。
それに、それをサポートすることこそがロイヤルガードの仕事。
「……お話、わかりました」
しかし、とリュミエールは続ける。
「姫様はこのたびのレースで負けるわけにはいかないのです」
いや、違います。
リュミエールは自分の思いに気づいたことを正直に述べる。
「どんな手を使っても勝ちたい、とわたしが思ったのです」
表情を変えずにリュミエールは言い切る。
軽くうなずいて、うれしそうにほほえむミスト。
「それでいいよ。じゃあ、明日の朝、よろしくね」
肩を叩いて、その場を立ち去った。ヒートとソルティーもそのうしろをついていく。
ソルティーはケガをした腕をかばいながら、何度も振り返り、リュミエールを心配そうに見ていた。
リュミエールは天を仰いで、調教用の鞭を軽く自身の腿に打ち付けた。
馬と同じで、気合を入れるように。
今日はここまで。