ぬるい風が頬に当たる。すっかり日も傾きつつある初夏の夕暮れに、審神者は好い刀である鶴丸国永と並んで庭を眺めていた。少し離れたところでは非番の短刀たちが楽しそうな笑い声を上げながら鬼ごっこをしている。極めた短刀を交えたそれは、一般人の目に捉えられるものではなかったが。
審神者はすっかり残像を化した短刀たちから目を離し、ぴったりとくっついている鶴丸に視線をやる。汗をひとつもかかず涼しい顔をしていつ彼の体温が、布越しに審神者に伝わってきた。
「つーるーまーる、暑い」
「悪い悪い」
そうは言っても相変わらず鶴丸は寄りかかったままである。仕方なく審神者はぱたぱたと扇子で自分を扇ぎはじめた。絶妙に、鶴丸に当たらない角度で。
ちりんちりん。
風鈴が頭上で愛らしい音を立てる。不服そうな顔で鶴丸は審神者を見上げた。
「きみ、一緒に扇いでくれたっていいだろう」
「元はといえば鶴丸が離れないからでしょうが」
「はいはい、わかりましたよー」
鶴丸は仕方なく、といった様子で審神者から離れた。そして審神者の前にしゃがみこんで風を浴びる。ふわふわと白髪が仄かに橙に輝きながら揺れた。目を閉じて気持ち良さそうにしている姿は、どこか子供のようであどけない。
「……何かに似ている」
審神者はぽつりと呟いた。確かに子供のようではあるのだが、それ以外にもっとぴったりなものがある。そう彼女は思えてならなかったのだ。怪訝そうな顔をして鶴丸は審神者を見る。審神者は扇子を動かしつつしばらく黙り込んだ。
ちりんちりん。
遠ざかる短刀たちの声。ひときわ大きく鳴る風鈴の音。審神者はやっと口を開いた。
「犬だわ。なんか今の鶴丸、犬っぽいね」
「いやどこがだ! そこはきみ、もうちょっとなんかなかったのかい?」
「いやー懐かしいわ。実家の犬によくこうして扇いでやってたのよねぇ」
鶴丸の抗議も虚しく、審神者は思い出の中に浸る。鶴丸は一つため息をつくと、審神者の手を取って凛とした瞳を向けた。姫に忠誠を誓う騎士のごとく綺麗に跪いて。
審神者はいきなりの行動に動揺して扇子を取り落とす。夕暮れのせいだけではない紅みが頬にさした。
「我ら刀剣はきみのためにある。きみの盾となり剣となり果てるが我が定め。さしずめ、きみの犬といったところだな」
「ちょっと、なにを……」
審神者は鶴丸から逃れようと手を引くが、鶴丸は逆に審神者を引き寄せてしかと捕まえる。鶴丸はそっと審神者の耳に口を近づけた。
「きみが犬と言ったんだ。なぁ、ご主人様?」
堪えていた審神者の顔が一気に真っ赤になった。手の甲にひとつ口づけを落とし鶴丸はそっと立ち上がる。名残惜しそうに、審神者の手が伸ばされた。しかし鶴丸にそれが届くことはない。鶴丸はにやりと笑うと、審神者に告げた。
「光坊に夕餉の手伝いをすると約束していたからな!……またあとで」
『またあとで』というなんてことのない言葉が、どこか妖しく艶めいた響きを持っていた。すっかり力の入らなくなった審神者は、しばしの間その場から動けない。すると、とてとてと軽い音とともに今剣が審神者のもとにやってきた。
「あるじさまー! ゆうげのじゅんびがととのったそうですよ……って、また鶴丸になにかされたようですね」
「いまつるちゃん……」
やれやれといった様子で、今剣は審神者に手を貸して立たせる。それとなく審神者を支えながら二人は大広間へと向かった。
「……あるじさま。あれのいたずらがすぎるようでしたら、三条でこんどしつけておきますよ」
今剣の声は、どこか冷たさをはらんでいた。三条の『しつけ』は生易しいものではなかろうと容易に想像がつく。審神者は、ぎこちない笑みを浮かべることしかできなかった。
「ハハ、そこまでしなくていいです……」
「そうですか?」
「それよりもいまつるちゃん、今日のお夕飯はなにかなー?」
若干食い気味に、審神者は全力で話題を変える。好い刀が三条の手にかかるのは避けたい。何よりも三条の怖い側面をこれ以上覗きたくない一心であった。
今剣は無邪気に笑うと、弾むような声で献立を告げていく。
気付けば、空を夜が覆っていた。