鏡に映るのは真実のみ。無いものは無い。すでに失ったものを繋ぎとめているからといって、在るとはならない。それが、どんなに残酷なことであろうとも。
✽ ✽ ✽
朝日が室内に優しく忍び込む。木々の隙間からもれるそれは仄かに青く色づいていた。さらさらと木の葉を鳴らして、植物たちは新しい一日の始まりを告げる。
厨にほど近い粟田口の大部屋が珍しく静かな日であった。昨日は藤四郎の短刀たちが夜戦に駆り出され、夜明けごろに帰還した。それを知っている他の男士たちは誰も起こしにはこない。
するり。
一振り布団を抜け出し、布団をたたむものがいる。乱藤四郎だ。兄弟を起こさぬようにと静かに着替え、髪紐を片手に部屋を出る。冷気を僅かばかり含んだ風が乱の頬を撫でた。渡り廊下には何処からか忍び込んだ百合の花。それを拾い上げて向かったのは審神者と近侍の執務室であった。
コンコンコン。
乱は執務室の重厚な扉を三回叩く。すると、中からややくぐもったような声が返ってきた。
「どうぞー」
「失礼しまーす」
そう言って乱は足を踏み入れる。中には書類を整理する清光の姿があった。彼は乱が髪紐を持っているのを見つけると、懐から櫛を取り出して手招きをする。
「今日一期いないもんね。座りなよ」
ソファをとんとんと叩いて優しく清光は乱に微笑みかける。乱は清光の隣に腰を下ろし、髪紐を清光に手渡した。慣れた手付きで清光は乱の髪を梳いていく。艶々と光る金髪が、窓からさしこむ日に照らされた。乱はほんの少し目を伏せて口を開く。
「……いつもありがとう、加州さん」
「何? いきなり」
清光を手を止めずにそう返す。乱は大人しく髪を梳かれながらそうっと言葉を唇に乗せた。
「いち兄がいないときはいつもボクの髪を結ってくれるでしょ。迷惑、だったりしない?」
清光は一つため息をつく。それから、ひどく優しい声でこう返した。
「鏡に映らないんじゃしょうがないよ。可愛くいたい乱の気持ちもわかるしさ。……それに、俺は乱の髪結うの結構楽しみなんだ。だからそんなこと気にしなくていーの」
「加州さんは、優しいね」
「そりゃあ皆の初期刀様だからね」
ふっ、と乱は笑みをもらす。清光は乱の髪を一つに纏めて、ぐるりと髪紐を巻きつけた。
「……ほんと、なんでボクは鏡に映らなくなったんだろう」
乱のつぶやきに一瞬清光の手が止まる。かすかに彼の手が震えていた。にこやかだった表情に固いものが滲む。
「さぁ、なんでだろうね」
感情をどこかに置き去りにしてしまったように平坦な声で彼はそっと呟く。それから何事もなかったかのように彼は固く髪紐を結んだ。穏やかな表情を作ると、乱の背中を軽く叩く。パン、という良い音が執務室に響いた。
「痛っ……もう、加州さんったらひどーい」
少し茶化したような恨めしいような感じで乱は清光を見上げる。清光は乱の頬に触れると、ぐいっと口角を上げて笑顔を作らせる。
「しゃんとしなって、らしくない。いつも笑って、可愛くて、格好いいのが乱藤四郎って刀でしょ。頼むよ初鍛刀殿」
乱の瞳が大きく揺れた。呼吸を二つばかり数える間、二振りはそのままの状態でいる。乱は清光の手を外すと、いつもどおりの花が咲くような笑みを浮かべた。
「うん。ボクはそう在るべきだからね」
「よろしい」
清光は満足そうに頷き、乱から離れる。
「さ、そろそろ朝食の時間だしねぼすけたちを起こしてきてくれる? 夜戦組はそっとしといてやっていいから」
「はーい。加州さんは?」
「この書類片付けたら主と一緒に行く」
「わかった。また後でね」
ひらひらと手を振り乱の姿は見えなくなる。執務室には彼が置いていった百合の花だけが残った。清光はそっとそれを手に取ると、ペン立てに軽くさしこむ。
「まだ、彼には本当のことを告げていないのかい?」
廊下から不意に声が聞こえてくる。清光が振り返ると、青江があやしい笑みを浮かべて扉の前に立っていた。清光は書類を棚に収めてあったファイルに仕舞いながら切り返す。
「乱はこの本丸の大事な仲間。もう二度と失うわけにはいかないんだよ」
ぱたん、と清光はファイルを閉じて青江を見る。鋭いものが、青江を射抜いた。
「青江もわかってるでしょ。乱が真実を知ったらどうなるか」
「ああ、勿論。だが最近の様子を見ているとね……」
「これは主が決めたことだ」
清光は食い気味に、厳しい声音でそう告げた。青江は諦めたようにため息をつき、清光の手にあるファイルを奪った。
「じゃあコレは機密書庫に隠しておくよ。今日みたいなこともあるだろうからね」
そのまま青江はふらりと消えていく。
渡り廊下の向こうから、賑やかな声と足音が響いてきた。執務室に、やわらかい風がそっと吹き抜ける。
✽ ✽ ✽
剣戟の音が響く演練場。受付を済ませた乱達は腕章をつけて他の本丸が戦っている様子を眺めていた。中央で高く飛び上がる蒼の腕章を付けた一振り。サイドを編んだ金髪に碧眼に、たっぷりとしたフリルをあしらった他のものとは異なる衣装。極の乱藤四郎であった。楽しそうに戦場を駆ける彼の姿はくっきりと水たまりに映る。
乱はその姿を試合が終わるまずっと眺めていた。緑の腕章を付けた部隊の隊長である歌仙が戦線崩壊したのを最後に、その演練は終わりを告げた。
「会場L。戦場想定、雨上がり。第163782本丸対第46832本丸の対戦結果は──」
施設内に響くアナウンス。それを聞き流しつつ乱達は指定された会場へと移動する。その途中、先程の極の乱がいる部隊とすれ違った。ほんの一瞬、彼は足を止めて乱を見る。否、彼が見ていたのは乱の先にある水たまりの方だった。乱の姿だけが、透明になってしまったかのように映っていない。
「……乱兄さん? どうかしましたか?」
隣にいた前田が彼を振り返る。