天から降り注ぐ雨が、真っ白な糸のようだと思った。手を伸ばして掴み取れば、編めてしまうのではないだろうか。
オンボロ寮へ帰ろうと学園から出るその間際、出入口で薄明るい空を見上げたまま、呆然と口を開く。
「……梅雨、かな?」
「ツユ?」
まさか返事が返ってくるとは思わなかった。飛び上がりそうになりながら恐る恐る振り返ると、随分と高い位置から見下ろされていた。見慣れたその姿に、少しだけ安堵する。
「ジャック」
「ああ、悪い。驚かせたか」
そう言いながらジャックは少しも悪びれた様子は無く、ゆったりと近付いて真後ろまで来ると、スンスンと鼻を鳴らしている。距離が近くて変に緊張しそうになるが、ジャックは雨の匂いを嗅いでいるらしい。「随分降ってるな」と険しい表情をしている。
「寮に戻るとこ?」
「そのつもりだったが、鏡舎まで少し外を歩くから考えてるところだ。お前は?」
「似たようなものかな。雨が嫌いなグリムを先に帰しといて良かったよ」
空を振り返って、雨が真っ直ぐ降りて来るその様を眺めながら、何をするともなく眺めていると、ジャックが「……で?」と口を開いた。
「ん?」
「さっきの……ツユ? ってのは、なんなんだ」
「ああ、梅雨ね。梅に雨って書くんだ。梅の実が熟す頃に降る雨だからそう呼ばれてる──っていうのは、一説なんだけどね」
「植物か。……なんか、いいな。お前の国。言葉が落ち着いているというか……上手く言えねえが、なんか上品な感じがする」
「風流ってことか」
「フーリュー?」
耳馴染みの無い言葉をいちいち聞き返すジャックが、不思議そうに狼の耳を動かしている。学び始めた小さな子供のようなその表情に、ふふ、と笑うとジャックが唸り声を上げる。
「馬鹿にしてんのか」
「してないよ。楽しそうだなあと思って」
「なっ……」
金色の瞳を丸く見開いたジャックが言い淀む。相変わらず、ぐるぐると獣の唸り声を上げながら暫くの間は顔ごと逸らしていたが、ガシガシと頭の後ろを掻くようにして、大きな溜息をついた。
「見たことの無い世界の、知らない知識は、誰だって気になるもんだろ」
「別に悪いことだなんて言ってないよ。聞いてくれて嬉しい。風流っていうのはね、ジャックが言ったように上品で、趣が……うーんと、味わい深さがあるって感じかな」
「なんとなく意味合いは分かった。……多分、意味は合ってると思う」
「そう言ってくれて嬉しいよ。あ、そういえばジャックは傘無いの?」
「傘?」
きょとんと聞き返すジャックに、瞬きして沈黙する他無かった。この世界にだって、傘はあるはずだ。暫く黙っていると、ハッとしたようにジャックが弁明する。
「いや、傘は知ってるが、持ってねえ。というか基本的に持たねえ」
「持たない? どういうこと?」
「俺の地元は雪が多く降ってたから、雨が降るってことは少なかった。他の国ならまあ雨は降るが、大体いつも天気が悪くて、曇ってることが多い。一日の内に天気がころころ変わるし、雨が降ったと思ったらすぐに晴れたりする。大雨は滅多に降らねえから、いちいち傘を持ち歩くという習慣が無ェんだよ」
「へえ……!」
そう言われてみれば、天気のいい快晴よりも、どちらかと言えば曇り空の方が多いような気がする。体力育成の授業で、暑くないから随分と楽だと思ったが、考えてみれば湿気も少ないし、日差しの強い日なんてほとんど無かった。深く感心していると、ジャックが続ける。
「大雨が降る時は大抵、風が強くて傘なんか差せねえ。だから、雨を凌ぐなら傘よりもコートを羽織っちまう方が断然楽だ。あとは……まあ、そうだな」
言いにくそうに目を伏せるジャックにどうかしたのかと問えば、気まずそうに口を開く。
「傘は、女性が持つイメージが強いんだ。どこの国も」
「アクセサリーみたいな感じ?」
「分かりやすく言うと、そうなるな」
「ふむ……じゃあ、私が持ってても変じゃないかな?」
「変だとは思わねえよ。男性向けの傘だって、売ってることは売ってるし」
「男女一緒に入るのは?」
「それは、あるだろ。普通に」
「じゃあ私の傘にジャックが入っても大丈夫だね」
「は?」
学園指定の真新しい鞄を手探りでごそごそと漁り、目当てのものを掴むとそれを取り出した。購買部で埃を被っているのを見つけて、どうしたのかとサムさんに聞いたら「此処じゃ、あまり需要が無いからね」と肩を竦めていたのを思い出す。その時はどういう意味か分からなかったが、……なるほど、此処は男子校だ。安くしてあげるよとウインクをしたサムさんに礼を言って、たった一本しか無いそれをタダ同然の値段で購入したのだった。
濡羽色の折り畳まれたそれを丁寧に解きほどいていく様子を、ジャックが物珍しげに覗き込んでくる。
「小さくねえか」
「そりゃ折り畳み傘だもん。でもこれ男の人も使えるやつだから、開いたら結構大きいんだよ」
バンドを外して中の骨組みまで丁寧に開き、大きな音を立てて押し開くと、ジャックの耳が震えて尻尾が僅かに膨らんだ。気付いていない様子のジャックは、予想よりもだいぶ大きなその様を見ながら「デカいな」と見たままの感想を述べた。
「グリムがいるから、傘が無いと耳の炎が消えちゃうと思って買っといたんだ。鏡舎まで送るから、良かったら入っていって」
「いや、俺は……」
「濡れたら風邪ひいちゃうよ。折角傘があるんだから」
使おう、と開いた傘の手元を持ったまま、ジャックの頭まで入れるためにはどのくらい腕を伸ばせばいいのかと考えながら、隣で傘を上げたり下げたりしていると、ジャックは素早く辺りに目を走らせた。
「……分かった。頼めるか」
「じゃあ、」
傘を差したまま歩き出そうと一歩足を踏み出すと、ローファーが水を踏み締めてぱしゃんと音が鳴った。同時に傘を叩く無数の雨音がして、ジャックが濡れないようにと首だけで振り返ると、ジャックは背を屈めて顔を寄せてきた。
「傘は、俺が持つ」
顔の真横まで近付いたジャックの金の瞳を、十センチもない至近距離で見つめた。傘を持つ手を上から覆うように握り込まれて、高い体温を直に感じて息を飲む。固まっていると、ジャックが眉を寄せて更に距離を詰めてきた。
「俺が持つって言ってんだ」
「うわはいお願いします!」
聞こえなかったのだと思ったのだろう。ジャックが此方の耳に口を付けそうなほどの近さで声を発した。語尾が引っくり返りそうになりながらも強引にジャックへ持っていた傘を押し付ける。思わず放り投げてしまうところだった。ばくばくと跳ねる心臓に鎮まれと念じながら、鞄が濡れないように前に抱え込むと、傘を受け取って少しだけ体を離したジャックが、ぴたりと足を止めた。
既に学園からは出てしまったので、雨を凌げる場所はこの大きな傘の下しか無い。たたらを踏みそうになりながら、なんとか持ち堪えて振り仰ぐとジャックが悠然と構えたまま見下ろしていた。
「ジャック? どうしたの?」
「少し詰められるか」
「え?……ああ、鞄なら大丈夫だよ。少しくらい濡れても──」
「鞄じゃねえ」
溜息を吐きながらジャックが傘を持つ手を変えるので、なんだろうと思いながら見つめていると、突然、視界がブレた。ジャックに触れないギリギリを保っていた所とは反対側の肩を大きな手に包まれ、ぐんと引き寄せられた。驚きすぎて声も出なかった。背にジャックの腕が回っている。肩から二の腕の途中までを、ジャックのあたたかい手がするりと撫でるから、びくりと揺れてしまう。此方の様子を知っているのか分からないが、ジャックは息を吐くように「……ああ」という声を出すと、その低い声を保ったまま、頭に言葉を零した。
「やっぱり、……濡れてんじゃねえか」
今回はこのくらいにしま~す