「今日はキスの日らしいですよ」
「は?」
それは夕食後の彼女の部屋でのこと。二人はテーブルを挟んで向かいに座り、直哉は本を読んでいて、彼女はテレビを見ていた。月九とかいうドラマらしい。彼女はやはりテレビが好きなようで、というか、特に他にすることがないからなのだろうが、いつだか直哉が割ってしまったテレビは新しいものが用意されていた。
直哉が本から目を離して彼女を見遣るも、彼女の視線はテレビに向いたままで、彼もすぐに本に視線を戻した。
そのタイミングとずらして彼女が直哉をちらりと盗み見た。その無表情に特に変化は見られない。彼女はあわよくばちょっといい雰囲気になってキスしたいななどと思っていた。別に今までにいくらでもキスなどしているが、好きなのだからしたいはしたいし、彼女は自分からは殆どしたことがない。今日は思い切って自分からしてみる良い機会かもしれない、と甘い恋愛ドラマを見ながら思っていた。
「は、初めてキスをしたときのこと、覚えてらっしゃいますか?」
「おん」
直哉がまた本から目を上げて彼女の方を見る。彼女はテレビの方を向いたままだが、きちんとその内容は頭に入っているのか、目の焦点は画面には合っていないように見えるし、頬は紅潮している。彼女から話し始めたのに、なんと続けようか困っているようだ。
「オマエ……あん時、ちゃんと俺のこと好きやったんか」
「え?」
直哉もまた本に視線を戻していた。こちらも彼女ほどではないが、その情報は頭にまともに届かなくなってきている。
「無理矢理したんやないかって」
あの日、彼女が直哉の羽織りを失くしたと泣いて縋った時のことを思い出して直哉の本を支える指先に僅かに力がこもった。
「勿論、好きでしたよ……」
「えっ」
「えっ?」
「いや……」
予想外の答えに直哉にしては間抜けな声がもれた。それに彼女も驚く。
彼女にとってもいつ直哉を恋愛感情で好きになったかは曖昧ではあるが、あの時には確実に直哉を好きになっていた。それ以前に一度、キスしそうな雰囲気になってしてくれなかったときにはがっかりしたものだ。直哉はあれを覚えているだろうか。その時も「すまん」と言っていたから、彼女は直哉のことを好きではないと勘違いしていたのかもしれないと彼女は思った。しかし彼女もあの時も、初めてキスをした時も──言ってしまえば今でも若干──直哉がどう思っていたのかわからずにいた。
「直哉様は、どうだったんですか?」
テレビはドラマが終わってニュース番組になっていた。彼女は画面の方を向き続けたまま、というより、直哉から視線を逸らし続けたまま話す。
「俺も……ちゃんと好きやったよ、……多分」
「多分、ですか……」
彼女の画面に向いていた顔がかすかに俯いた。本の頁を捲る手の止まっていた直哉がついに本を閉じてテーブルに置いた。立ち上がって、テーブルを回って彼女の隣に座り直す。
「不満か」
ずいと迫った直哉の顔は息がかかるほど──もう少しでキスしていまいそうなほど彼女の顔に近かった。
「い、いえ!」
恥ずかしくなった彼女は僅かに頭を退いて視線を逸らせた。キスをしたくてこんな話を始めた筈なのに。
直哉はその後は追わず、テーブルに頬杖をついてその日のことを思い出しながら言った。
「実際あん時は俺もはっきり分かっとらんくて……でも今はちゃんとその……す、好きやから」
彼女が瞠目してばっと顔をあげると、その横顔は照れ臭そうな仏頂面だった。直哉にしては珍しく、頬がうっすらと染まっていた。にわかに彼女の顔も赤くなる。
「直哉さま……」
彼女ははにかむようにほほえむと、直哉は突然彼女の方へ向き直りキスをした。急なことに驚いて後退ろうとした彼女の後頭部を直哉が緩く抑える。
ちゅ、と小さな音を立てて唇は離れた。
「ほれ、この話はこれで終わりな」
直哉はテーブルの向こう側に手を伸ばして読みかけの本を引き寄せた。テレビのニュース番組も終わりにさしかかり、天気予報をやっていた。明日は晴れるらしい。
直哉は器用に片手で本を開き再び読み始めた。テーブルの下ではもう片方の手で彼女の手を優しく握ったままだった。
彼女は自分からキスをするということはできなかったが、予想外の嬉しい言葉と口づけをもらえてそんなことはどうでもよくなってしまって、直哉の手に更に自分の手を重ねた。