薄暗い木影、日の当たらない以上に冷えた空気に吸い寄せられたのが全ての間違いだった。
 先客がいたことに、常の自分なら気付いただろう。最近、あまりにも眩しく賑やかな存在が傍に居たから、静謐な神性が湛える気配を、そのまま自然のものとして捉えてしまったのだ。
 そう、その場所はあまりにも静かで穏やかだった。
「あなたも、旧いものね」
 話しかけられてからようやく、この冷気の主に気付く。碧の瞳はどこか非人間的にまるい。声色は甘く柔らかく、それでいて異質な存在であると伝わる声が空気を震わせる。冷き運命 froid femme fatale 氷の白蛇を真の姿とする同輩は、存在は知っていても今まで交わったことのない魔法使いだった。
 まさしく蛇に睨まれた蛙の如き状態となって、言葉はその場に凍りついた。思考が白く染まる。堂々とした態度の彼女は、言葉が最も苦手とするタイプの存在だ。あたりには、彼女に付き従う精霊たちが見える。彼女の意を汲み、それに沿うようにはたらく従僕たち。それを当然のものとする傲慢さ。
「忘失の御伽噺、ねぇ、あなた、そこにかけてゆきなさいな」
 そこ、と繊手が差したのは彼女の隣だった。久々に、かりそめの名でない方で呼びかけられた、と思う。分科会を結成することの多い面子では、もはや普段でもかりそめの名で呼び合うことの方が自然だ。自身にまつわることをポロポロと溢していく言葉にとって、けれど失くすことのできない本質。失い、忘れられることだけが、言葉にとって、唯一失えないものだった。
「あ、いえ、ぼくは……」 固辞する素振りを見せた途端、周囲が剣呑に揺らめいた。彼女に付き従う精霊たちの「姫様の申し出を断るとは」「無礼なやつだ」「討ってしまえ」「人でないなら約定にも触れぬ」と囁き交わす声ならぬ声。
 刺々しい声が自身に向けられるのは新鮮な思いで、しかし心地良いものではない。圧に負け、おずおずと彼女の隣に腰かけると声は止んだ。とはいえ、気配は立ち去らず、細かな雨のように言葉に降り注いでいる。
「私、あなたとお話してみたかったのだわ。忘れられる物語。胡蝶の翅と交わり、朧の音色と響きあうもの。ねぇ、あなた、そんな風に頼りないかたちで、どうしてここに、そうして、居られるの?」
 彼女の言葉に棘は無かった。悪意もなく、純粋に疑問を声にのせた風情。定めを自身の名に冠する彼女にとって、言葉の存在は理解しがたいほど曖昧に見えるのだろう。
 言葉自身、それに対する確固とした答えが返せるわけではない。亡失することはどうしようもない真実で、自身が欠けて、足りなくなって、穴だらけになっていて、それが正しいかたちなのだと、そう考えられるようになったのはごく最近のことだ。
 穴の開いたドーナッツは、しかし決して球形になることはない。がらんどうの中心。空いた穴から向こうが見えて、それが言葉自身の在り様である、と。どう伝えればよいだろう? どんな言の葉を紡いでも、それは言葉のことを説明しきれない。
 沈黙が暫し横たわる。次に口を開いたのは、やはりと言うべきか彼女だった。言葉の返答を待たず、さらに問いを重ねる。
「忘れてしまうって、どんな気持ちなの? 忘れられてしまうって、どんな気持ちになるの?」
 続いた台詞には何故か哀惜が滲んでいた。横顔は澄んだ湖のように静かで、痛みも、悲しみも、苦しみも、もどかしさも、『忘れる』という単語から想起される感情は一つとして浮かんでいない。
 忘れること、忘れられること。そのどちらも、言葉自身を対象に取ったものだ。考える。自分を喪失することに対して、どんな感情を抱いていただろう。
 かつて持っていた筈の思いを手繰り寄せようとする。摩耗した記憶はあまりに滑らかで、引っかかるものがない。
「忘れてしまったことさえ憶えていないから、意外と、と言うべきでしょうか。何も思わないですね……」
 再度の沈黙。会話が続かないのは、明らかに言葉のせいだ。お供のあやかしもくちばしを突っ込んでは来ない。二人の魔法使いのみにやり取りの主導権はあり、しかし言葉はそれの扱いが下手だった。氷の姫君も、投げては落ちる問答の行方にはさほど興味が無い様子で、沈黙が続いても言葉を開放してくれようとはしない。
「忘れてしまったことも忘れてしまうなら、何も感じないのねぇ。氷の中に閉じ込めたなら、いつか溶け出す日も来たろうに。腹の中に満たしたなら、この血の中に通ったろうに。春の雪より、夏の風より、秋の雲より、冬の枯葉より、触れることの能わないもの。鍵どころか蓋のない箱は、開けようとすら思われない」
 言葉の答えを受けたように見えて、その実それは殆ど独り言だった。しんしんと静かな声。表情は変わらず、ただ凪いでいる。新雪のようにまっさらな、白くうつくしい頬。感情の浮かばない透徹な瞳は、遠く中空へ向けられている。
 また、静寂。
「ごめんなさいね。あなたに興味は無かったのだけれど、どうしてかしら。不思議な話をしてしまったわ」
 大きな瞳がぱちりと瞬きをして、視線がこちらに向けられる。芯のある眼。こちらにはっきりと焦点が合わさったまなざし。先程の独白の時に漂わせた此処ではない何処かを回顧するような雰囲気はなりを潜めている。
「いいえ。きっと、あの言葉たちも、あなたにとっては大切な物語の一部でしょうから。何にも繋がっていないと思えても、運命の一頁であることに変わりはない筈です」
 この答えが正しいかどうかは分からない。頓珍漢なことを言っているかもしれない。ただ、彼女が平静であることがどうしてだか淋しく思えたから。何か、言わずにいられなかった。慰めのような、そうでないような。行くあての分からない応え。
「もう行くわ。あなたは可愛いものではないもの。けど、お話しできて楽しかったわ。またいつか時が交わったなら、お喋りしましょうね」
 彼女が微笑む。甘くとろけるような笑顔。うつくしく、それ以上に、興味が無い、と告げた文字通りに余所行きだと伝えてくる笑い。彼女が立ち上がる。帯に付けられた銀の鈴が揺れた。
 澄んだ音は聞こえなかった。
 鈴は、自身の居場所を知らせるために付けられる。ここにいるよ、と涼やかに鳴く。鳴らない鈴は何のためにあるだろう。音の響かないそれで、誰に何を伝えるのだろう。どこにその音は届くだろう。ここに居ない誰かになら、その響きは届くのだろうか。
 言葉は知らない。その鈴の意味も。彼女が何を失ったかも。何故言葉に声をかけたのかも。銀の鈴の音も。これからもきっと、知る術はない。それはきっと、彼女自身からも失われてしまった物語だから。
 知らないまま、静寂の意味を想う。今日はずっと、そのはじまりから静かだった。
 銀の鈴は鳴らない。この世界に音をもたらさない。ただ、静かに彼女の元に在る。
 それはほんの少しだけ寂しくない気がした。
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向き
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銀の鈴は鳴らない
初公開日: 2021年05月03日
最終更新日: 2021年05月03日
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