3.救済前夜
 あの事件から二週間が経った。
 田山さんは両足の怪我を治すために入院。二宮さんは突如気が狂ったとされ、半ば他の人たちに連れられるような形で精神科にかかったらしい。らしい、と言うのはマネージャーから聞いただけだからだ。僕は仕事で忙しく、その事件について深く知る機会を設けることが出来なかった。それを聞いたのだって、今さっきのことだ。
 過去に、過去というより少し前。去年の夏頃。
 僕は月島さんの弱いところを暴いてしまった。ただ彼を、自身を貶して他人を上げるような、可哀想な彼を救いたい。その一心で行動したら、最悪の事態を招いてしまったのだ。
 僕は彼の痛いところを突くだけ突いてしまった。その結果彼は自身の惨めさに拍車をかけただけだったし、おまけに僕はそんなことをしたのにゆるされてしまった。お前のせいで余計に自分が嫌いになったと責めるまでもなく、ただ、僕のことを「こんな自分を気にかけてくれる優しい子」と形容した。
 その時は、僕では彼をどうもできないと失望したものだ。深い沼、果てのない闇の底にいるような絶望が澱となって心を蝕んだ。
この苦痛と共にこれから生きていくのだと、歪み切った庇護欲だけを燻らせて死んでいくのだと、思っていた。あの事件が起こるまでは。
田山さんが倒れ二宮さんが取り押さえられた後、事は当然大きくなり事務所内は一時騒然としていた。僕はあの時、真っ先に月島さんの方に駆け寄り、嗚咽を吐き続ける彼の背をずっと擦りつつ声をかけるのに必死だった。
その時に月島さんが嗚咽と共に吐いていた言葉が、呪われたように、延々と吐き続けていた言葉やあの時僕に見せた表情や仕草全てが、僕を支配している。
『俺のせい。俺のせいなんや。全部、俺が、俺がおったから。遊惺にいたから。生まれてきたから。芸人なんかになろうと思うたから。ごめんなさい。ごめんなさい……』
存在を全否定された人間の、稚拙な嗚咽だった。長めの背丈をくるりと丸めて、寒さに耐えるようにがたがたと震えている様の、あまりにも惨めだったこと。垂れた瞳から零れた、誰よりも痛々しく、美しかった涙。そして僕を見て、僕に手を強く握られた時の、
『……かざき、くん……』
あの表情。眉間に深い皺を刻み、大粒の涙を遠慮なく垂れ流し、誰かに引っ張られたみたいに口角を下げ、恥も外聞もなく僕に泣きついた。
あまりに僕に縋りつくものだから、その時から「やっぱり彼を救えるのは僕しかいないのではないか」と、嫌に錯覚して、いや確信してしまった。昨夏の挽回ではないが……こんなにも頼られていたらそう思わざるを得ないだろう。
とかく、全てを失った月島さんが可哀想でならなかった。僕も苦しみを分けられて、泣いてしまいそうになった。
それと同時に、可愛そうでならなかった。歪な愛がさらに形を歪め、思わず口角が上がってしまった。
その時だった。「このまま二人でこの場から逃げられたらいいのに」と、思いついたのは。
 
『もうすぐ着きます』
『分かった ベンチに座って待っとるね』
 メッセージを送ったと同時に既読が付き、その数十秒後には返信が届く。相変わらず月島さんは連絡が速い。
 何か一言送ろうかと思ったら、指定した場所まで着いてしまった。仕方なくスマホの画面を落とす。
タクシーから降りると、冷えた空気が頬を刺した。四月にしては異様な冷え込みが続いている昨今、そこらの木々もあまり色づいていないように思える。単純に、僕自身の気分の問題だろうか。
番組出演の仕事終わり、本来ならば家に直帰しなければ後日の仕事に支障が出る。しかし今日は、いやしばらくはそんなことは気にしなくていい。
待ち合わせ場所である公園広場に向かうため、橙色の街灯が連なる道を歩く。夜景を彩るビル群の、白と時折混ざる赤や青の灯りが輝いている。星は明るさに塗れてほぼ見えない。上向いたところで見えるのは高層ビルやマンション、企業の広告看板、そして夜空くらいだ。
 左手に差し掛かった階段を上る。数歩だけ、夜空に近づく。上りきった先、視線を右にずらせばベンチに座ってスマホと相対している月島さんがいた。
「月島さん」
 と呼べば、彼は僕の方を向いてにこりと微笑み、片手をひらひらと振る。
「寒い中待たせてしまって、申し訳ないです」
「ええんよ。それよかこれ飲む? 待ってる間に買ってきてん」
 そうやって差し出してきたのは缶のホットココアだった。礼を言いながら受け取ったそれはまだ温かい。
「俺はもう飲み切ってもうたんやけどね、甘くてうまいで」
「甘いの、好きですもんね」
 そんな何気ない言葉に対しても、彼はふふ、と面映ゆそうに笑った。それはいつも通りの月島さんと何ら変わりなかったが、僕にはその顔すら儚く映ってしまう。儚いと思った通り、その笑顔も一瞬にして崩れてしまった。
「そういや華崎くんは嫌いやったっけ、甘いの」
「いえ、決して嫌いなわけではないです。むしろ好きですよ」
「そか」
 話している間にも、ゆらゆら、くらくらと彼の瞳は何度も瞼に隠れたりたくさんの景色を収めていた。それは僕一人を注視していないことも表す。
 前まで、彼は極力人と目を合わせるような人間だった。目をじっと見て、顔を背けずに一語一句を真剣に聞くのだ。その様子を見慣れていた僕からしたら、今の態度は酷く不自然に映った。
「……そんなに、」
「ん?」
「そんなに、見つめられないほどに僕が美しいのかい」
 僕がそう放ったボケに対して、彼はこちらを向いた。そしてまたくすくすと笑う。ああ、何だか、笑い方も変わってしまった気がする。前の彼はもっと声を上げたはずだ。
 彼はそのまま笑っていたかと思ったら、段々それは嗚咽のようなものに変わっていった。緩く上がっていた口角は、手によって隠されてしまう。そしてとうとう、泣き出してしまった。その泣き方が、確実に笑いすぎでないことは誰の目から見ても明らかである。
「月島さん、どうしたんです。大丈夫ですか」
「うっ、うう、ごめん、ごめんね。ちゃうの……綺麗なら、もっと見てたいもの。ちゃうの、ごめん、君のせいやない。ちやう、ちがうの……ううううっ、うう……」
 言葉が出ない。彼はそのまま顔を伏せてしまった。何もしてやれない自分に嫌悪感を抱きそうになる前に、彼の背中に手を伸ばし擦ってやる。
僕よりも幾分か背の高い、そして年上の大の大人がこんなにも小さく縮こまって泣いているのを見るのは、結構心に来る。そしてその人が月島さんなのだから、余計だ。
 そして今、なぜ彼が泣いているのか、さっぱり分からない。理解してやれないのが酷く歯がゆいのと同時に、訳の分からなさと若干の面倒臭さが顔を出す。
 理由をわざわざ聞き出せるわけもなく、彼が落ち着くまで僕は背中を擦ることしかできない。
「全部が、全部があかん気いしてん……」
 幾分か落ち着いたのか、涙を拭いながら彼は言葉を紡ぐ。
「俺のしてたこと、全部が間違いな気いしてん、それで全部変えようとしてん。俺がおったから十さんも田山さんもぐちゃぐちゃになって、木暮くんも死んで。俺、やからもう、全部変えよ思てん。俺のしてたこと全部間違いやったからこんなこと起こってんから。変えたら俺じゃなくなる思うたからやってんけど、つらい……」
 めちゃくちゃだ。言っていることが整っていない。言いたいことは分かるが微妙に理解できない。それが最初に弾き出た感想だった。その後に、嫌なくらい冷めている自分を心の中で消して、憐れむ。
「間違いじゃない」
 彼の太腿に左手を添える。
「変わらないでいい。貴方は、貴方のままでいてくれ……」
「…………むり……」
 ビルが輝いている。今二人ぼっちで佇んでいる僕らを差し置いて。
木々が騒めいている。気持ちを囃し立てるように。
街灯が照っている。誰も居ない道を延々と。
夜風が冷たい。僕の心の様に。
手が温かい。彼の流した涙が当たったところだけ。
「むりやよ……このまんまじゃ、また俺は誰かを殺すんや……。芸人殺し、やから……」
 月島さんは皆のことを愛していた。ネタをよく見て、見知った誰かがテレビに出ればそれは必ず視聴して、おもろかったよ、あそこよかったなと言ってくれる。他の人にネタなどを貶されていたら真っ先に励ましに行っていた。逆に彼は決して誰かを否定しなかった。優しい言葉をかけてくれる。
 月島さんは誰よりも、遊惺芸人のことを気にかけていた。遊惺芸人のみならず、他事務所の芸人にも同じように接していた。裏表なく、ただ優しく芸人たちを愛していただけだったのに。芸人殺しだなんて。
 彼がこうなってしまったのは、全てあの事件のせいだ。
 やはり、あの事件は想像以上に彼の心に深い深い傷を負わせたのだと、彼が自らのことを「芸人殺し」と言ったことから確信した。
 ほら、やっぱり逃げなきゃいけないんだ。傷心旅行じゃないけれど。
貴方をこうさせた人間がいる場所から、遠く、遠く離れなきゃ、貴方は救われない。
「それじゃあ、逃げてしまえばいい。誰も殺さないように。遠くへ、誰とも知れぬところへ」
 月島さんは僕をじっと見つめる。僕の言葉を確と聞くように。
「逃げよう」
 無人の公園広場にその声だけが判然と浮かんだ。季節外れの冷気に包まれながら、涙を拭おうとして胸元辺りで往生している彼の手を、暖を取るかのように優しく包んでやる。
「どこに……」
「最北端でも、最南端でも。貴方の行きたい場所でいい」
「……逃げるったって、華崎くん、仕事とか……」
「ああ、はは、はあ……もういいんです。正直、僕も疲れてしまって」
 嘘。嘘だ。本当は何も疲れてなんていない。人気が故に湧き出る誹謗中傷は元から苦でもないし、仕事だって何不自由ない。人気芸人としての箔は纏っていて非常に心地いいものだ。だから嘘だ。
 僕は月島成を救うために全てを擲つ。そのための嘘だ。
「周りからの期待とか、ファンの目線とか、単純な誹謗中傷とか……色んなものに巻き込まれすぎて、ガタが来ているというか。一度、どことも知れぬところに逃げたくて。人気もテレビも人間関係もなにもいらない場所に……」
 演技は得意だ。僕は悲哀のこもった声で、瞼と手を下ろしながら言う。思い悩んでいる、といった様相で。
 付け込む、と言っては本当にタチが悪いが、こうまで言わないときっと彼は動いてくれない。自分のことを全部ほったらかしてでも他人を気遣うような人間だ。ならば、僕が病んでいるふりをすればいい。貴方は付き添い。僕のための救済旅行。そう思ってくれればいい。
 僕は貴方のための救済旅行として、ここじゃないどこかに行ければ、それで貴方が開き直るか、全てを忘れてくれればそれでいい。
 案の定、彼は態度や言葉を鵜呑みにしたようで、
「そか。大変やったんやね、つらかったやろう」
 と微睡んでしまいそうなくらい優しい声で言った。
「月島さんが逃げたいかは分かりませんけれど。僕は、これから遠くへと行くつもりです。今日、誘ったのも実はこれを話すためで。ついでと言っちゃあ失礼でしょうけれど、さっき逃げようと言ったのも、そういうことなんです」
「一緒に逃げようって……?」
「ええ。嫌ならいいんです。僕一人で、勝手に消えますから」
「それはあかんよ……! ……あっ……、いや……ごめん……」
 呪いはまだ解けていない、むしろ事件から殊更強くなってしまったようだ。彼は何かあるたびに謝罪をする癖がある。自分が関わっていないことでも、口をついて「ごめんね」と言う顔が前から酷く痛々しく映っていた。
「なら、一緒についてきてくれますか」
 彼はすぐにこくりと頷いた。なんて愚直なんだ。子供でももう少し戸惑うだろうに。
「僕を、」
 貴方を、
「救ってくれますか」
 今度は少し固まった。いきなり放たれた、救ってくれないかという言葉の意図が呑めていないようだった。
 それでも戸惑う時間は少なく、今度は「うん」と静かに発した。その声は、確かな意志がこもっていた。
4.相方
 相方の月ちゃんが失踪した。ついでに後輩芸人の翔ちゃんもいなくなった。
 当然どこに行ったかは分からない。そして、もう十日は帰ってきてない。いや、それ以上か。全部のツール、元からスマホに入ってる電話とかラインとかツイッターとか、全部に連絡飛ばしてみたけど、帰ってきたのは無、だけだった。
 駅に向かうまでの道にある、高架下の道端にたむろする路上生活者に混じって酒を煽っていたところ、明らかに疲弊した様子の万さんが見える。
「どもー」
 と軽く言って手をひらりと振ると、万さんは明らかにドン引きしていた。
「どもーじゃ、ないよ。何してんの……!」
 万さんはつかつか歩いて俺のところまで近づき、手を引く。少しだけ、缶ビールの中が漏れて、悲しくなった。
「俺そんな変なことしてなかったじゃん」
「じゃんじゃねーよも~……! 何でああいうのと混ざって平然と酒飲んでるわけ……?」
「意外と面白い話聞けますよ」
「知らないよ……」
 半ば強引に手を引かれながら歩を進めた。長い時間覆いかぶさっていた影が退き、眩しい日差しが全身を焼く。
「あー、それよかどうです、十さんは」
「……駄目。口利いてくれなくなった」
 万さんは二宮さんの相方だ。頑固で変人と言っても過言ではない二宮さんに対して、かなりの常識人である。事件の最中、半狂乱に陥った二宮さんを無理やり精神科に通わせたのは万さんだった。
「しばらくほっといた方がいいっすよ」
「そう……」
 かなり疲弊している様子だった。見るからに痩せたし、顔色もいいとは言えない。眉根は常に寄っているし、心なしか歩き方も半分酔ってる俺よりふらふらしているように見えた。
「ねえ、工澄は大丈夫なの」
 心配をする前に、万さんが先に俺の心配をしてきた。どこまで先輩面したいの? という言葉も浮かんだが、今はそんないじりをしている場合ではないな、と思ってから言葉を返す。
「ま~、ぼちぼち、っすねえ」
「相方失踪してんだよ……? もうちょっと焦ったら?」
 俯きながら万さんは言う。呆れと、絶望が混じった声色だった。
「いや、こっちが焦ったところで月ちゃんが帰ってくるわけじゃないですし。そもそも酷すぎたんですよ、あの事件が。何が起こったか、月ちゃんが全部話してくれたんですけどね、全部聞き終わった瞬間、人間って愚かだなって思ったもんですわ。人間大好きな月ちゃんが全てに絶望して、全てを投げ出してどっか行っちゃうのも分かるな、って、思っちゃったんです」
 二宮さんが月ちゃんに対してめちゃくちゃに甘やかして、可愛がっていたのを俺は知っている。
 田山さんが、月ちゃんの存在を話に出しただけで険のある目がさらに鋭くなったのを、俺は何度か見たことがある。
 翔ちゃんが、月ちゃんに対して好意的な感情を抱いているんだろうなと思わされるような顔や態度を取っているのを、見たことがある。
 そして月ちゃんは、そんな人たちを平等に愛していることを俺は一番知っている。
 それら人間関係のひずみと木暮くんの自殺が重なって、事件が起こってしまった。
 話を聞いた限りじゃ、そうとしか言いようがない。最悪に最悪を重ねてしまったような凄惨な話だ。同時に、人間ってここまでできるのか、と感心すらしてしまったが。
「……何で止めなかったの」
 突如歩みを止め、俯いたまま万さんは言う。交差点の中腹、道路と道路の間に、行き交う人々を邪魔しつつ横目に二人、突っ立つ。
「止め? あっ、失踪ですか」
「それ以外何があんのさ。事件がそれだけ酷いもんだって分かったら、ショックに身を任せてどこかに逃げそうなことくらい分からなかったの? アンタ、さあ。相方のこと好きだって、運命だって、何なら愛してるとか言いふらしておきながらそんなことも分からないようじゃ、ただの自惚れだよ。愛でも、何でもない」
 弦の切れたギターをかき鳴らしたようなガスガスの声で、俺に向き直りながらひとりでに吐く。ふらついているのも相まって、酔っぱらいの屁理屈にも聞こえる。しかしその顔は酔いで上気しているのではなく、憐みとどこか怒りで紅に染まっているのは目に見て明らかである。
「じゃ逆に万さんは二宮さんが月ちゃん好きなあまり人を殺すような男だって分かってたんすか」
 鉄の塊が横切る。排気ガスが肌を吹き付けて髪に絡まっていく。塊の鳴き声が人の声を遮る。それでも、俺の声は万さんに届いているようで、
「……そんなの、さあ」
 と引き攣った顔と涙目、そして蚊の鳴くような声が返ってくる。
「分かるわけ、ないじゃん……!」
 そのまま項垂れ、端にしゃがみこんでしまった。今更自分がめちゃくちゃなことを言ったことに気が付いたのだろうか。
「そ~いうことだよ」
「……そもそも俺は、二宮のこと、分かった試しはないよ……好きでも、ないし、分からないことだらけだから、工澄とはわけが違う」
「屁理屈っすね! 好きじゃないから分からない、好きだから分かるって理不尽っすよ!」
「うるさい……」
 万さんはそう言ったっきり口をきいてくれなくなってしまった。言いすぎたな、と思いつつしばらく見下げていたが、信号が変わり人が行きかうようになり、自分が障害物のようになってしまったことに気付いてから、何も言わずに自分も人ごみに混じって横断歩道を渡る。万さんだけが交差点の中腹に取り残されていた。
「置いてきたの?」
 みえるちゃんは人のことを物みたいに言う。暇だったので、近くにあった事務所に立ち寄った時に偶然すれ違ったのが同期の宮持みえる、通称みえるちゃんだった。
「追いかけてこないんだもん。待つのも飽きちゃって、そのままここまで来ちゃった」
「来ちゃった、じゃねーよ。よく先輩のこと置いてけるよね?」
 光の入らない大きな黒目が俺を睨んだ。可愛らしい顔立ちと妙にマッチしているショッキングピンクの髪が目に眩しい。染め直したのだろうか。
「まあ万さんは怒らないでしょ。それにあんな疲れてたらそんな気力もないはずだし。それよか、髪染めなおした? きれーになったじゃ、」
「話逸らすなよ」
 廊下が静寂に包まれる。幼い見た目からは想像もつかないほどドスのきいた声が脳天を突き刺す。ああ、気ィ立ってんな、と思う。
 たかだか二人の失踪で。何をそんなに気に病むのだろうか。
「万さんのことも心配してんの?」
「心配に決まってんでしょ……! あんなに元気のない姿見たら普通みんな心配するって!」
「普通ね。みえるちゃん、俺のこと普通じゃないヤツだと思ってるくせにその文句使うのはちょっと的外れじゃない?」
「は……⁉」
 みえるちゃんは常日頃から俺のことをイジり倒すような子だ。というのも、不本意ではなくむしろ本位である。俺くらいならイジってもいーよ、他の人に気遣うのしんどいでしょ、と言ってから毎回暴言紛いのイジりを受けてきた。
俺が変なことを言う度に突っかかってくる。変、おかしいよそれ、悪魔! サイコパス! ……その言葉に本心があるとは何となく分かってはいた。自分でも頭おかしいな、異常だな、と思うことがあった。そう思う度に、みえるちゃんは俺の心を炙り出すように頭がおかしい、と言った。
「人が不調訴えたり狂ったとこで真面目に心配するタイプじゃないこと、みえるちゃんが一番分かってるんじゃない?」
 しばらく鳩が豆鉄砲を食ったような間の抜けた顔をしていたが、その後嘲笑を浮かべて、
「サイテー」
 と吐き捨てた。
「万さんのことは百歩譲ってどうでもいいけどさ、それ月島と華崎が失踪したことにも言ってるよね?」
 ん、そだねえ、と軽く返事する。
「他の芸人仲間なら薄情者が、ってせせら笑って終わりだったけどさ、お前、相方が失踪してんだよ? 十年連れ添った相方が。お前が何度も運命だといってきた相手が。何とも思わないの?」
 真上にある蛍光灯が明滅を繰り返す。切れかけてるな、みえるちゃんも、この蛍光灯も。
「何とも思わない、というか。別に思って何を苦しんだところで。月ちゃんを絶望の淵に追い込んだ事件、木暮くんの飛び降りから連鎖した田山さんの復讐、二宮さんの凶行、それを全部聞いてから思うとそれは、ここから逃げるほかないよなと思っちゃったわけだし」
 黒い眼が少し納得の色を帯びた。伏し目がちになったそれを見かねて、言葉を続ける。
「そもそもそれは、月ちゃんが全部悪いと思うからさあ」
 そこから表情が一変した。何か言い出す前に喋る。な、という突っかかった声だけが酷く腑抜けて聞こえた。
「ほんとにずるい子だよ、あの子は。歳不相応に無邪気なのも、自分が愚かだということを愚かなりに理解しているのも、それだから唯一抜きん出たお笑いの才能に縋っているのも、他人のことを過剰に構うのも、俺の運命だという言葉を純粋に信じるのも。可愛くてならなかった。だからこそ、一番苦しんでほしかった。俺の手で狂わなかったのは先越された感じして少しムカつくけど、十分だよ。あの事件、月ちゃんがいたから全部起こったって思ってさあ、笑いこらえるのに必死だったよ。サイコー、だな、って思って、嬉しかった。月ちゃんは、人をたくさん狂わせるような男だって、分かって、ひひ、俺さあ、嬉しくなっちゃったんだよねえ!」
 蛍光灯が完全に消えていた。それに気づいたと同時に、右頬に鋭い痛みが走る。破裂音がした。次いでセミロングに伸ばしてあった髪先を乱雑に掴まれ、引っ張られる。
 俺は歪んだ笑みを浮かべて、みえるちゃんは今まで見たこともないような鬼のような形相をして、可愛い顔が台無しだよ、と言ってみたが、ますます顔が不細工になっていくだけだった。
「……死ね、クソ野郎……‼」
 髪が、何本か、ブチブチと抜ける音がした。乾いた笑い声が出る。
「何で笑ってんだよォ‼」
 こえ~、とせせら笑った。みえるちゃんの怒鳴り声に気付いた何人かの芸人仲間がひょこひょこと顔を出した。皆怯えた表情をしている。
「お前っ……、相方が失踪して、それをろくに心配もしないで、あの事件を唯一の被害者のせいにして、人間じゃねえだろあんた。ヘラヘラしてんなよ、悪魔……‼」
 呵々大笑。皆が笑ってたわけじゃない。俺だけだ。俺だけが大観衆の笑い声を一人で再現してるみたいに、声の出る限り笑い続けた。
「何怒ってんの⁉ 何をそんなに心配してんの⁉ 俺のこと嫌いすぎん⁉ あ~~~~~おもしろ‼ ねえ! やっぱ、サイコー! だねえ! みえるちゃ、」
 顎が今まで立てたことのないような音を立てた。いってえ。たまらなく痛い。折れた? 間髪入れずに今度は股間を蹴られた。笑い声に似た悲鳴が出た。たまらず倒れ込む。横っ腹が踏まれる。虫でも踏み潰すように。
「ふざけんな、ふざけんな、ふざけんな、ふざけん、なあ! 何が、月島のせいだよ、お前くらいは、味方でいろよ! 正しい、味方でいてあげろよ、相方なら、さあ! あんなどうしようもないやつの味方、お前しかいないようなモンなのに‼ そのお前ですらこれだ‼ もういやだ、もう、お前なんか、お前なんか、月島を守る権利も無ェよクソが‼ 死ね! 死ね! 死ね……!」
 あんなどうしようもないやつ。
 みえるちゃんも結局そう思ってたんだね。人一倍危なっかしい馬鹿な月ちゃんを気遣ってたと思ってたら、やっぱそういうこと思ってたんだね。今の月ちゃんに聞かせてあげたいなあ。
ねえ、月ちゃん。今どこにいるの。それとも、失踪のフリしてもう死んじゃった? それだけは許さない。だって、月ちゃんには、生きてほしい。
 生きて、生きて、苦しんで、吐いて、泣きついて、めちゃくちゃになって、相方の俺が死んでもっとめちゃくちゃになって、ずっと苦しむために、生きてほしいよ。
 完全に消えた蛍光灯がぼんやり映る。その暗がりがもっと真っ黒い影に覆われる。段々それは眼前に迫っていく。顔を踏まれるのだけは御免だから、咄嗟にさっき打たれた右頬を向けた。
 こんな暴力じゃ殺せないよ、と呟く。それは罵声に搔き消された。
5.閉じぬ瞳
 自分事のように他人事を気にしすぎるような人間だ。みえるは。月島もそう。だから、同期なのもあって二人併せて「遊惺の良心」なんて呼ばれる時もあった。
 ただ今となっては良心の欠片もない。結局工澄を殴り散らかした後、誰彼の声も無視してその場から立ち去った。後輩の誰かに引き止められたが、「触らないで」と言っただけで引き止めは剥がれた。その時の声は自分でも驚くくらい低い声で、とうとう自分が堕ちるところまで堕ちてしまったのだと思う。
 ずっと、死人のように生きている。
 それでも時間は進んだし、他の芸人たちもいつまでも事件を引きずってはいなかった。華崎や二宮さん、田山さんの相方たちを除いて。
失踪から二か月と半分ちょっと。六月下旬。
二人は四月初旬の春に消えた。もう梅雨入りしたよ。どこにいるんだよ。エゴサしてもデマの情報しか出てこない。二人のアカウントはあの事件以降更新されていない。
スマホを投げた。自室の白い壁にぶつかって鈍い音が部屋中に響く。
二か月ともなると、事件当初より戸惑う人間は少なくなった。時の経過ほど恐ろしいものはない。どんなものも風化させてしまう。たかだか二か月だったが、そんなに気にしない人間もいるにはいたし、仕事で忙しくなって気にかけている場合ではないという人間もいた。
みえるは売れていないので、仕事に出ずっぱりの人間が憎らしくてならなかった。前は気にしなかったが、気が立った今じゃそれすらに腹が立つようになってしまった。馬鹿らしいのは理解している。本能が気を静めることを許してくれない。
自分はあの事件に関して、一切関係のない人物である。それなのに、誰よりも何よりも引きずっている。自覚もある。
被害者である月島が同期だからだろうか、と言われたらそうだろう。けれど、大きな要因ではない。みえるが一番気にかかったのは、個々の感情であった。
昔から、というより生まれつき、みえるは人の感情に機敏なところがある。態度に出ていなくても、何となしに注視するだけで人の感情が分かる。
例えば、とても冷静な態度をとっていても今怒っているんだなとか、笑っているけれど本当は泣きたいくらい悲しいのだろうなとか。そういうのが分かるからこそ、軽率に手を差し伸べたくなる。そういう性分だった。
けれど、生きていくうちに手を差し伸べればいいというものではないと嫌でも理解してしまった。悪意ある人間に引っかからないためには、面倒事に巻き込まれないためには、何より自分の心を殺さないためには、「無関心」でいることが大事なのだ。と、二十五年の中で、悟った。
開け放しにしたままの、窓から這入る風が生温くて気持ちが悪くなり、閉めた。その音の全てが乱雑で、自分の乱れように嫌気が差す。ガラスで隔たれた先に広がる空は快晴、南国の海と見紛うほどの果てのない青が、心持とは真逆のそれが、余計に精神を痛めつける。
月島は、無関心の自分とは真逆だった。おまけに人の感情には鈍い。無差別に善意を振りまいた。悪意の欠片もなく、ただ、純粋に、愛を振りまいた。結果。
有り余るほどの、溢れんばかりの純潔は、時に人を救い、時に人を殺す。それがまさに体言化されたような事件が起こってしまった。
多くの人間に関わるから。うまく立ち回らずに全部に首を突っ込むから。あんなことが起きたのだ。無視していれば生まれなかった恨み、関わる人間を選んでいれば起こり得なかった憎悪、本当、どうしようもない。だから、相方すらもどうしようもないクソ野郎なんじゃないか。みえるだって、お前のことをそうしようもないと思って見下すようなクソなわけだし、お前が好きなゆえに人を殺しかけたり、逆に殺そうとして来たり、攫ったり、そんな人間ばっかり、寄り付く。
気がかりだった。隅に置けなかった。月島の悪いところは、どうしようもないなりに、放っておけない雰囲気があった。危なっかしいような、未熟な何かがずっとまとわりついている。いつも通り無視できなかったのは、同期だからだろうか、売れないで燻る自分らを、ずっと励ましては前に推し進めてくれた恩があったからだろうか。
髪の色より薄いピンク色のソファと同化してしまうほどに身を沈める。このまま呑まれて綿になりたい、と、訳の分からぬ感情が湧いた。血も、涙も出ない。ただ沈むだけ。考えたくないのに、月島は死んではいないだろうかと想像してしまう。
ただ一人の人間を夢想しながら、溶ける、夏至の日。
眠りに落ちようとして瞼を閉じかけた時、投げ飛ばしたままのスマホが鳴った。ソファの裏手にあったそれを、流動体よろしくだらだらと動きながら手に取る。誰からかの通話かも確認せずに、緑色に光るアイコンを左にスワイプして、耳許に寄せた。
「もしもし」
『みえるちゃん? 声元気ないね。しょーがないか。あ、そう。俺、病院行ったの。あまりに身体痛くって。ほんとさあ勘弁してくれよな~、じゃなくて、特に大きな怪我なかったんだわ。まあそんなに痛えなら安静にしてなって言われたけど。あと事故には気をつけてねだてさ。事故じゃねえんだけどな。それだけ! ……どーせこうなるんだからさ、暴力で俺を殺そうとしないでね』
 相槌すら入れず、唯々聞き流していた。会話する気なんて元よりない。何で出ちゃったんだろう、と声を聞いてから一秒でそう思った。
「……死ね」
 通話を切った。わざわざ耳許に寄せるために上げた腕をだらりと垂らして、スマホをボウリングの球を投げるように下手で放って、溜息を吐いた。寝る意欲は消え失せてしまった。
 十三時。SNSにはほぼ誰にもいない。テレビも面白いものはやっていない。そして自分には何もやる気はない。落ちぶれてしまった。何もかも。ネタ書きをする余裕だってない。寝ていたいのに、眠気はどっか行った。身体に力を入れるのが面倒になって、力を抜いたらソファから落ちた。いて、と声は出たがその声に可愛げの欠片もなかった。
 落ちた状態のままの視界に映ったのは、天板がガラス張りになっている薄ピンク色のローテーブル、の下にあったB6サイズの本。白いジャギーラグの毛に埋もれているそれは、いつだか、三か月前かに借りた本だった。
「何で三か月も……」
 ぽそりとそう声に出してしまったが、理由は分かっていた。普段は本であれば二週間程度で返すが、三か月にも伸びたのは、事件のごたごたのせいで全く会えなくなってしまっていたからだ。
 今返しに行くとなれば、病院に行くほかない。どこに入院しているか、自分は知る由もない。退院した後でもいいじゃないか、とも思ったが、気をおかしくしていたその時は、それしかすることが無いのだからと、何となく知ってそうな工澄に病院の場所を聞き出すメッセージを送っていた。結局、こういう時に頼れるのは今一番嫌いなやつだと思って惨めになった。
 既読はすぐついた。何の小言も言わないで、病院名だけを送ってくれた。画面を眺めているうちに、次いで住所が添付される。『みえるちゃん家からはそう遠くないよ』と余計な一言がついていたが、それには気にも留めないですぐに支度を始めた。起き上がった時に、丁度窓から射しこむ陽光がぶわりと舞う埃を照らした。
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憧月の子 2
初公開日: 2021年04月26日
最終更新日: 2021年06月22日
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3.救済旅行 (華崎視点)
を現在ゆるゆる執筆中。