0.今際の私怨
「……もしもし、十さん。木暮です。ええ、はい、元風来坊、の。……何故、野暮ですね。俺、今から飛び降りるんですよ。……冗談? そんな、本当ですよ。俺は死ぬんです。……もう耐えかねたんですよ。芸人を辞めても、ずっと、辞めた原因のやつが付き纏うんです。君は面白いから、きっと売れる。大丈夫。俺は君を応援しているから。そういう呪いの言葉が、ずっと、ずっと離れないんです。悪夢のように。…………クソッ、イライラしてきた。同じ世界に生きていることが辛くてたまらない。ああ、十さん。俺の最期の言葉、聞いてくださいよ。……いいんですね、ありがとうございます。…………芸人殺しめ‼ 全てを愛していると言っておきながら、地獄に追い込むサイコパスが‼ 今まさに俺を殺すんだ‼ これは自殺なんかじゃない、殺人なんだ、俺は今、月島成に殺されるんだ‼」
 直後、爆音にも似た風切り音が鳴る。三秒後、くぐもった衝撃音が二度鳴った後、再生は終了した。
 たった一分十六秒の録音データには、一人の元芸人の死と、私怨が込められている。
1.呪縛
『十さん、あの、月島です。ニュース、見ましたか。木暮くんって、あの木暮くん。やんな。飛び降り自殺なんて、そんな』
 午後二時、さっきまで寝ぼけ眼で見ていたニュースは、一人の男性の自殺を報じていた。そして、その話題が終わったなり電話がかかってきて、前述の言葉を言われた。音質の悪い通話音声でも、酷く憔悴しきっているのが鮮明に伝わってくる。
「落ち着け。同姓同名のやつかもしれないだろ」
 皮肉なことに、自分は確実にそうではないと分かっている。今日未明、今際の木暮と話をしたばかりなのだから。
『でも、年齢も一緒やないですか』
「同い年のやつなんてごまんといるじゃねえか」
 随分と適当な返しをしてしまった、と思う時間ができてしまうくらいの沈黙が襲う。電話越しの月島の顔が気にかかった。
『……ほんまに違う人やったら、ええのに』
 スピーカー越しの塩辛い声に対して、何も返すことはできなかった。
木暮は元々同じ事務所、遊惺芸能のピン芸人だった。事務所の規模と制度の都合で所属芸人が極端に少ない芸人部門では、芸歴年齢関係なく、皆家族のような存在として扱われるほど結束力が固い。だからこそ、遊惺を出、辞めた芸人ですら気にかける人はいてもおかしくない。
俺はさほど気にしない人間であったが、月島は真逆だ。
『木暮くん、ほんまに死んでもうたんやとしたら、何があったか言ってくれれば力になれたかもしれんのに。話を聞くだけでも、出来たのに……!』
 彼の後悔の言葉に眉を顰めつつ、木暮の最期の言葉を思い出す。
芸人殺し。サイコパス。俺は今、月島成に殺される。
『ずっと遊惺におって、今でも芸人やっとったらなんか、なんか違ったんかな。あの子は、木暮くんはまだ生きとったんかな』
 声に嗚咽が混じってくる。ああ、こいつ、本気で木暮の死を本気で悼んでいる。それを皮肉に思いつつ、咥えたままの煙草を齧った。芸人を続けても、遊惺にいても木暮は死んだだろう。飛び降りた原因が、今電話越しで啜り泣いている月島なのだから。彼が生きてる時点で、木暮は憎しみの末に空を飛んだのだから。だからといって、「お前のせいで木暮が死んだ」とは言えるわけもなく。
「泣くなよ辛気臭え。そんな泣いてたら、心持たねえぞ」
『ごめんなさい、でも、あの子は死んでええ子じゃなかった。なあ、どうしてあの子が、なんで木暮くんやなかったら、あかんかったんやろうか』
 生まれながらに白い頭をガシガシ掻いて、額に爪が食い込むんじゃないかと思うくらいに頭を抱えた。そんなの知るか、と投げ出してもよかったのに、世辞や空泣きなどという混じりっ気のない嘆きに感化されてしまって、普段乾いている赤い瞳が湿り気を帯びる。
 同じ事務所にいた芸人仲間。ましてや自分を、文字通り死ぬほど憎んでいた存在。後者は知らずとも、ここまで一人の死に泣ける人間はそうそういないんじゃないかと思う。それほど月島は愛していたのだろう。木暮のことを、一人の芸人として。
「嘆いても帰って来やしねえよ。人は死んだらそれまでなんだよ。どれだけ悔やんだってお前が苦しくなるだけだから、もうこの話は、やめよう……」
 地べたに敷きっぱなしの布団からせり上がってくる嫌な熱が、目頭まで熱くさせる。電池が切れかかって表示の薄い蛍光色のデジタル時計が、通話からたった五分しか経過していないことを告げた。
『……ごめんなさい、ほんまに、迷惑かけました。すんません』
「いいよ。お前は本当に、後輩思いなんだな。呆れちまうくらいによ」
『俺がそう思わんといられへんだけです。みんなおもろいから、なあ』
 ああ、と溜息が漏れかけた。みんなおもろい。それが月島の口癖だ。馬鹿みたいにスベっているやつに対しても面白いと言って、芸人たちを励ましていた。芸人の才能が明らかに無いと断定できるくらいつまらないやつにも面白いと言って、勇気づけているのを何回も見た。その時励まされていた奴らは皆、遊惺どころか芸人自体辞めたらしいが。
 月島にとっては本気で全員面白いのだろう。だからさっきみたいな言葉を何の躊躇もなくかける。それで救われる芸人が何人もいたのもまた事実だった。何故なら俺も過去に救われていたから。今年エムワン王者に輝いた後輩だって、月島の言葉に救われたと言っていたくらいだ。
 何が正しいかなんて分からない。その言葉が尊いものであると俺は思うが、もしかしたら、それが毒になって奴だって少なくとも存在するのだろう。考えたくないが。
また変な思考に沈みかける前に、口を動かす。
「……そういや、何で俺にかけた? 電話。月島なら他のやつに言うことだって出来ただろ」
『え、ああ、十さんがいっちゃん木暮と仲良うしてた印象があったんで。それだけです』
「お前の言うことだからな、マジでそれだけか」
『そうですよ。……なんか、あったんですか』
 その言葉に悪寒が走った。一気に血の気が引いたのは、ずっと脳裏に木暮の遺言があったからだ。月島はそれを知るわけもないのに、俺が遺言を聞いたことを探ってきたように思えてしまって、嫌な汗が噴き出してきた。
「な、なんも無えよ。無いさ。俺も仲の良かったやつが死んで、参ってんだよ」
 苦し紛れの言葉だった。察しのいいやつはともかく、自分でも一度はカマをかけるくらいに怪しい言葉だが彼は一ミリも疑わずに、むしろ心配するように、
『無理せんといてくださいね。ゆっくり休んでください、気を紛らわすための飲みとかだったら、いつでも付き合いますから』
 と言う始末だった。
「ああ、ありがとよ。どうせすぐ立ち直るさ。そんじゃあ、休みたいから切るわ」
『はい。おやすみなさい』
 二時十五分、凡そ二十分前には起きたばかりのはずなのに、おやすみなさいなんて。とせせら笑いながら電話を切った。休みたいっつったのは俺だろうが。味の無くなりかけた煙草の煙を一吹きしてから真横にあるテレビを見ると、話題は嫌いな政治の話になっていた。飛び降り自殺の話は、見る影もない。
 どんなに大事なことを告げられようと、そんなに時間が経ってなくても忘れてしまう質なので、電話は全て録音するように設定している。先刻の月島との通話も全て残っているし、未明の木暮との会話も、全て残っている。聞いた直後は、気味が悪いから消してやろうと思っていたのに、消す前にもう一度だけ再生して気が変わり、そのまま取ってあったのだった。
 人の今際から、魂の消滅までを判然と残した録音データに呪われた。消せなくなった。一人の人間が終わっていく直前を残すことなんて、早々無いだろう。そう思ってしまうと、不気味だとか不謹慎だとか言う前に、とても貴重なものに見え、結果削除という選択肢が消える。
敷布団の上に胡坐をかいたまま、木暮との通話記録を見つめていた。僅かに震える右の親指でそれをタップして、再生する。
木暮はお世辞にもいい性格とは言えなかった。単純に、性格の悪いやつだった。うまく立ち回るために平気で嘘を吐く。器用に生きるためにいつも仮面一つつけているような、胡散臭い野郎だった。今思えば、よく仲良くしていたと思う。人に悪い印象を植え付けないためか、遊惺にいる間は悪口ひとつ言わなかった。しかし、辞め際に俺だけに言った一言があった。
『遊惺を辞めた本当の原因、家業を継ぐなんてのは全くの嘘で、本当は全部、月島のせいなんですよね。しんどかったんですよ、あいつからの言葉が』
 そう告げられた時も、電話だった。辞めたかと思えばいきなり後輩の悪口言いやがって、てめえは愚図かと叱責した後、そのまま木暮との連絡を一切断ったのだった。それが、三年前のこと。
電話がかかってきた時、正直知らない電話番号からだったので三回ほど無視したのだが、あまりにしつこくかかってきたものだったから出てみたら今際の木暮に繋がった。三年前から携帯は変えていなかったので、繋がったのは納得する。ただ、俺が奇妙に思ったのは月島への怨嗟だった。固執であり、私怨であり、呪いにも思える。遊惺を辞めた時ならず、自分の命を落とした要因までもが月島という男だった。三年も恨んでいたのかと思うと、つくづく気色が悪い。執念深いやつは、嫌いだ。
『——芸人殺しめ‼ 全てを愛していると言っておきながら、地獄に追い込むサイコパスが——』
 芸人殺し、という暴言が自分に向けられて放たれた悪口だと知ったら、月島はどれだけ絶望するだろうか。先輩後輩芸人を分け隔てなく尊敬し、愛するという強固な意志を持った唯一無二の彼が、芸人殺しという残酷な言葉とは無縁な彼にその言葉が突き刺さったらと思うと、胸が締まり、息が詰まる。
 俺は月島の、揺るぎない意志に基づくお笑いや他の芸人との向き合い方を好んでいる故に、この音声は、木暮の私怨は絶対に聞かせまいと決めた。これを聞かせてしまったら、彼の意思が崩壊しかねないからだ。
  携帯を放り、コメンテーターの下らない意見を聞き流しながら目頭に溜まった目やにを取るがてら目を擦る。小さく欠伸を一つしてから、人らしく腹だけは減っているなとぼんやり思慮した。木暮が死んでも、この世は本当に何も変わらないし、俺すらもあまり変わっていない。きっと事務所に行っても、そんなに変わりはないんだろう。力が入らないまま起き上がり、のろのろ台所に向かい、電子レンジの上にあった六枚切り食パンが入った袋を取り上げた。一枚しか入っていない。いつも通りの少ない朝飯兼昼飯にするか。俺の命は、トースト一枚と醤油がかかった目玉焼きでしっかり持つから。
 三月初旬は春と定義できるかと言われたら、そうなんじゃないかと返せるが、今日の気温は少なくとも春ではないと思う。どこが三月だ、と脳内で愚痴った末に寒さで泡立った腕を撫でた。
 飯を食い終えて、皿もそのままに洗面所に向かう。鏡の前には、ぼさぼさの白髪に、鮮血色の瞳を持った無精髭面の男がぼんやりと立っていた。俺のことだ。普通の人間でいうところの黒髪と黒または茶色目のところを、俺は白髪赤目と全部を取り違えた姿で生まれた。異端そのものだった。だからといってどうもない。もう四十年この身体で生きているのだから、外見に対する愚痴も二十代くらいの時に全て出尽くしてしまった。
 ただ、この外見だからと言って神聖視されるのが死ぬほど嫌いだった。今はこんなずさんな性格をしているせいでそう見られることは無いが。幼少期、実際そう見られつつ生きてきた。とっくに離婚した、どこで野垂れ死んでいるかも知れない父が新興宗教を立ち上げようとしたレベルの話だ。気色悪い。
どんなに崇めたところで皆愚かな人間だ。愚なんだよ。欲で突き動かされている。鏡前の俺だって、何で芸人やってんだって話だ。明日を生きるためだ。金目当てが第一。それと真剣に馬鹿やりたい、面白いことやりたさだ。つまらんやつは芸人やめろって思うし、芸人のくせして真剣に面白さと向き合わない奴は死んでしまえと野次を飛ばしたくなる。人気者になりたいからとか、ほざくなよと芸歴十八年の中で何度思ったか。
……頭が急激に重く感ぜられたので、俯いた。冷えた裸足の、ところどころの爪が黒ずんでいるだけで何となく惨めな気持ちになった。
放っておくと、ずっとこうやって思考してしまう。答えのない思慮を無限にしてしまう。これで何の精神病もないですと言われたから、人間としての正しさとは? とたまに思ってしまうのだ。
そも人間に正しさなんて、とせせら笑いもした。歪んだ笑みを浮かべたアルビノじじいが鏡に映っただけだった。さっきも言ったが人間は愚かだって、もう、随分前から思っている。 新興宗教立ち上げられそうになったくらいだから、小学生くらいからずっとこんな思想を引っ提げている。
やっとのこと蛇口を捻って水を出し、顔を洗った。冬場になると極端に冷たくなる水は何なのだろうか。
 顔だけ水浸しになったまま、深く息を吐いた。昔は顔を洗うだけで気分が晴れた気がするのに、もうそんなことはいつしか思わなくなってしまった。
 何か今日、駄目だな。一つ一つのアクションを起こすのが億劫でならない。横にかかっているタオルを引っ張って顔を拭く気にもなれないから、洗面台を前にして、びしょ濡れの面を引っ提げたまま俯いているしかない。
 定期的にこんな日はあったが、今日は特に疲れている。自殺直前の木暮の声を聞いたからか。さっきの通話でぼろぼろ泣いている月島の声を聞いてしまったからだろうか。
 畜生の次に神の名前を並べてしまって、何だか申し訳なくなった。
 さっき、人間は愚かだと言った——言ってはいない、思っただけだ——が、ここのところそうとは思えなくなってきていて、というのも、それは月島成という存在だけがそうだ。
 月島成という人間の神聖性を、往々、度々として考える時があった。それはとらわれたように、とそこまで苦しいものではなかったが。通話中にも少し過った。口癖について。みんな面白いなんて、媚びた女優しか言わんだろうものを、月島は、何の濁りもなく言って、それは言葉の裏を詮索する方が愚かに思えるほどに清廉な、言葉を。
 綺麗だった。他の芸人のネタで笑った顔が。普段の柔らかい表情が。柔く優しい。彼の態度を前にする度に、ずさんな心に鎮静剤を塗りこめられるような感覚がした。人間離れしている、とすら思う。あそこまで優しいと。
自分が神聖視されるのは御免なくせに、月島のことはそう見ているなんて皮肉にもほどがある。本当に気色悪いのは、俺の方だったのかもしれない。
 ほぼ乾きかけの顔面に、最後の雫がぱたりと落ち、洗面器の中心にある穴に流れていく。
 それを見てやっと、ああ、動かねえとな。と何と無しに思うのだった。
 徒歩で幡ヶ谷駅まで三十分歩き、電車で二駅乗り継いで新宿まで。新宿駅から徒歩十分歩いた先に、遊惺の事務所がある。遊惺芸能自体はかなり立派な会社だが、芸人部門は事務所が別、且つ小規模なのでこぢんまりとした三階建ての建物が事務所となっている。今ここにいる人間の、何人が木暮の死を知っただろう。そして、そいつの死を悼んだだろうか。
 寒風に晒され氷よろしく冷え切ったフロアヒンジドアの取っ手を握り、手前に引いて開く。暖房で温まった空気の温風を全身に浴びながら、あんな、クソ野郎なんかに悼むやつはいないよな、と思慮した。外からの寒気と事務所内の暖気が混ざり合って少し気持ち悪い。取っ手を離して扉が閉まりきる頃、一人の男がエントランスの受付前の壁にもたれているのに気が付いた。携帯を持って、頭をもたげている。
「何してんだ、田山」
 そう声をかけると、頭を持ち上げるなり七三分けの前髪と、険のある鋭い目が俺を捉えた。田山郁史という男の面相は、いつ見ても不機嫌そうだ。
 田山は芸人でありながら小説家でもある。小説家だけならどの面下げていたところで評価対象は文であるから何も言うことはないが、芸人は表に出る分顔もよく見られる。少なくとも、彼の顔面は楽し気で面白おかしい芸人のイメージとはかなりかけ離れている。それなのに本分は芸人だ。逆じゃあないかと時折思う。
「相変わらず人生キツそうな顔立ちしてんな」
「出会い頭に悪口言って楽しい?」
「そこまで言うかよ、そうじゃねえ、わざわざ入口前に立って何してんだよって」
「ああ」
 中途半端に言葉を濁して、田山はまた視線を落とした。
「木暮が死んだろ」
 彼の視線は下ろされたままだ。俯いてるから悲しそうには見えるが、実際微塵も憐れんでいないだろうというのは、声色で何となく察することが出来る。
「それが何だ。もしかしてそれについて聞くつもりか?」
「聞いちゃ悪いのか」
 こいつ、と眉を顰める。いちいち棘のある言い方をする。圧をかけてくる。そんなんだから、後輩芸人に鬼だの手厳しいだのと忌み嫌われるのではないか。
「聞いてまわっているというより、お前を待っていた」
「張り込みのつもりかよ。何だ、どうせ俺が木暮と親しかったから何か知ってるんじゃねえかって踏んだ次第だろ。なら、俺は何も知らない。それ以上も以下も無え」
 正直、何か問い詰める時の田山に捕まると心底面倒臭い。根掘り葉掘り聞かれ、あることないこと吐かされる。飲みの席だとか、ネタの参考にしたいから、どういう生活してるか聞かせてほしいと言われた時に経験したが、そんな面倒な尋問に何度も引っ掛かってたまるかという話だ。全部の発言を先回りして、田山の真正面を通り、二階に続く階段の一段目に足を置いた時だった。
「逃げるのか? 大体そう言うやつは何か知ってるモンだよ。逃げるな」
 上着のフードを勢いよく引っ張られ、階段にかけていた足もその勢いに乗って引きずり降ろされる。瞬時に気道が塞がり、呻き声が漏れた。地に足がつき、何発か空咳が出た。
「そこまでするか馬鹿」
そう首元を押さえながら叱咤すると、
「聞かないと気が済まないタチなのはお前が一番分かってんだろ?」
 と頓珍漢で屁理屈にも思える言い訳をぶつけられた。
 田山がここまで木暮の死について問い詰めたい理由は何だ。
 何か知っているのは正直言って、事実だ。木暮の死に際の声を聞いた男が何もないとほざく方がおかしい。生前の木暮と仲が良かったから俺に聞く、というのはキレ者の田山でなくとも誰もがやることだろうが、それにしたって張り込みはやりすぎだろう。逃がすまいと掴みかかるところまでするだろうか。はっきり言って、異常なまでの固執を感じる。まさか、仲の良かった友人の自殺した原因を突き詰めたいとか言うわけではないよな。だって、田山は大して木暮と仲のいい印象はなかった。むしろ不仲だったまである。生前の木暮が、「田山先輩は怖いから、極力近づきたくないしネタも見せたくないんですよね。絶対何か言ってきそうじゃないですか」と愚痴っていたのを思い出した。
「それで、話す気は起きたのか」
 まだフードを掴みながら、鋭利な視線を向けて聞いてくる。視線だけで人を殺せそうだ。次逃げたら刺されるのではないかという殺気すら感じる。
「あー、あぁ、もういい。降伏だ降伏。白旗だ。許してくれ」
両手を上げる。その態度と発言に白状する意思を感じ取ったのか、田山はフードから手を離す。首元にわだかまっていた苦しさが消えた。
「やっぱり知っているんじゃないか」
「何も無くても、ここまでしつこくされたらこうせざるを得ないだろ」
「悪かったな、しつこい野郎で」
 エントランスで話すわけにはいかない、人が入るたびに扉から風が入って寒いし話が話だからと言いながら、田山は二階の一番奥の部屋に俺を連れた。事情聴取される犯人、拷問にかけられる直前の人間、死刑執行前に絞首台に連れられる死刑囚の気持ちはこんな感じなのだろうかと薄々と思うのだった。
 通された部屋は事務所の中でも用途がはっきりしていない、所謂空き部屋であった。空き部屋の割には、一丁前にガラス張りのテーブルや、それを挟むように黒レザーのボックスソファが置かれている。他にも小型テレビや、何の植物か分からない観葉植物。空気の固さを和らげるかの如く飾られている抽象画やぬいぐるみや造花が、各々の位置を確立してそこに鎮座している。テーマの決まり切っていない、ともかく各々の好きなものを適当に置いたという感じが否めない若干混沌とした雰囲気があるのがこの事務所の部屋の特徴だった。少なくとも、俺が好きな酒や煙草は置いてありそうにない。そうやって部屋の物をつらつら眺めて、ソファに腰かけようとした矢先のことだった。
「嫌いな奴はいるか」
 田山が突如、そう開口したのである。彼は座らないで、俺に背を向けて棚に置いてあるブックスタンドに収められている本を物色していた。
「……は?」
「だから、嫌いな奴は。そういう人間がいるのかと聞いているんだ」
 鋭さは目にだけ留まらず、語気にまで宿っていた。ここまでくると、全身凶器と言っても過言ではない気がしてくる。それよか嫌いな人はいるかだと。こいつは何を言っているんだ。聞いて何になる。聞くならば早く本題に入れ。この会話に前哨戦なんかいらないだろ。そうは思うが、さっき逃げた時みたいに、ここでも話を逸らしたところで答えろと言われそうなので、仕方なく話に乗る。
「意思がないやつ全般だ。自分の意見を持たないやつが……」
「個人にはいないのか」
 そこまで聞く意図は読めないままだったが、返答は続けた。
「じゃあそれこそ木暮だよ。性格悪いし」
「はっ、じゃあ死んで清々したんじゃないの」
「まぁ、な」
 清々したんじゃないかという問いにはっきりそうだと言えなかったのは、言うほど嫌っていなかったからだろう、と言い終わってから思う。嫌っていなかったというのは、実は好きだったとかいうツンデレのようなオチではなく、もはや好きか嫌いかという枠にすら入っていない、ということだ。要は、無関心だった。どうでもいい、赤の他人という範疇に、木暮という人間は俺の中でカテゴライズされていた。
 口にしてみてやっと気づいたが、俺は木暮が死んだことについて、これっぽっちも悲しんでいなかった。ありえないほど、何も思っていない。悲しいと思うのは愚か、え、そうなの。という薄っぺらの感想すら抱いていなかった。やった、死んだ。と歓喜すらしていない。虚無。最早、ふーんとすら思っていなかった。ここまで無関心なのが、不気味に思えてきた。人間じゃないみたいだ。
「羨ましいよ。嫌いな奴が死んでくれるなんて。人生に早々ないだろう、嫌いな人間がピンポイントでこの世から消えるなんて」
 田山はそう言いつつ、ブックスタンドから引き出したであろう本を片手に、やっとソファに腰を下ろした。俺と向き合うや否や、
「俺もその後に続きたいものだよ」
 と軽々しく言い放つ。
 視線だけを動かして彼を見た。微かに笑みを湛えている。その表情が、どことなく薄気味悪かった。
「で、これは。何の話なんだよ。俺に尋問するんじゃなかったのか」
 組んでいた足を解き、前のめりの姿勢で田山に問うた。その拍子に、傍らに置いてある本が視界に入る。裏側だったため、あらすじが書いてあるだけで表題は分からなかったが、太文字の『復讐』という文字が嫌に目立っていた。
「私刑を、下したくて」
 彼の方に視線を戻すと、上がっていた口角はいつの間にか下がっていた。眉根一つ動かさずに、最小限の口の動きだけでただそれだけを告げる。
「私刑だと?」
「木暮の死を通して、殺したいほど憎い奴に私刑を下すんだ。そいつにとって、深い傷を残せる機会が今なんだ。下らないことをしている自覚はあるよ。復讐をしても何も残らないとよく人はほざくけれど、嫌悪が募ると最早そういうことではなくなるんだ。手を下さないと気が済まない。木暮が死んだ今が好機なんだよ。私刑の、な」
 田山は誰とも向けていない冷笑を浮かべながらつらつらと話した。随分物騒なワードが飛び出たものだ。誰に下すための私刑や復讐なのかは分からないが、どちらにせよろくなことではないだろう。
「お前の私刑や復讐の片棒を担げって言うのか? ふざけるのも大概にしろよ。人を巻き込んでまでする復讐なんて何が楽しい」
「何を拡大解釈しているんだ? ただ話を聞くだけだよ。共犯者になれって言ってるわけじゃないんだ」
「俺の話によっては、その下らねえ私刑を完遂するための計画を進めちまうってことになるだろうが。私欲のダシにされてたまるかよ、誰に恨み持ってんだか知らねえけどよ、少なくともそんなやつに話すことなんて一文字も無ェ」
 もうこいつに話す資格は無い。こちらに話す資格が無い、というより、あいつに話を聞く権利が無い。私刑などと下らないことに身を費やす奴に構ってたまるか、と痺れを切らして膝に手を置き立ち上がろうとした時だった。
「録音データ」
 俺を引き止めるが如く、その言葉が放たれる。腕に力がこもったまま、動きが止まる。録音? 何のだ? まさか。
「通話音声の録音データだ。それに何か残ってたりしないか」
 ……何でこいつが? こいつがあの録音データの存在を知っている? 少なくとも、俺よりも木暮との繋がりが薄かったであろう田山が。そんなピンポイントで、知っているんだ。思考盗聴か? 誰かから聞いた? でも、あの音声は俺と、もう死んだ木暮しか聞いていないはず。流出した? そんなわけあるか。木暮の携帯でも拾っていない限り。そんなことあってたまるか。
思考が止まらず流れていき脳は混乱を始め、腕が、足が、震えだす。視界がブレていく。焦点が定まらない。自分でも引くほど動揺している。隠し通したかったものを晒されていく感覚は、生殺しにも近くて。
「図星だな。反応を見れば分かる。流石に音声の内容までは知らないからな……話してもらおうか」
 腕のみならず、肩の力まで抜ける。生きた心地がしない。動悸が激しくなっていく。殺すなら、早く殺せ。視線を上に向け、田山の顔を見る。
 いつもの、真顔に近い、不機嫌そうな顔をしていた。いつも通りの顔が逆に恐怖を煽った。
 部屋の空気は暖房が効きすぎてむしろ暑いほどなのに、身体の芯だけが凍って溶けない。足先、手、頬、全てが温まっているはずなのに、その熱っぽさが逆に首を絞めてくる。普段の煙草の吸いすぎが祟ったのか、深呼吸をしたくても浅くしか空気を取り込めず、また吐く息も同様に小さくなった。ふ、と呼吸にも満たない息を漏らした後、力が抜けたかのようにどっかと座り込んだ。
「お前は逃げるのが下手だな。誤魔化しにしたって、あれじゃ逆に俺は証拠を持っていますと言わんばかりの素振りだったじゃないか。今もそうだ。走った後のように呼吸を乱して。そんな焦って、いつもの偏屈さはどこ行ったのさ、二宮」
 観念した直後、俺に向かって放たれた言葉がこれだ。動悸が収まるのを待って息をついていた矢先の言葉で、既に全身の血が沸騰しそうになったものだから、休もうにも休めたものじゃない。
「……何だ、お前、いつもに増して機嫌悪くねえか。言葉が一々キツすぎやしねえか」
「木暮が死んでから機嫌が悪いんだ。アイツへの疑念が募ってね」
 嘲笑を含ませ、田山はそう話した。アイツって誰だ。そもそも何故録音データの存在を特定できたんだ。こんなことをしてまで私刑を下したいやつとは誰なんだ。湧き出し始めていた怒りに覆いかぶさるように、疑問がのさばる。
「それよか二宮、そんな苦悶に満ちた顔をしなくたっていいんじゃない? さっきも言ったけど、大袈裟だよ、お前」
「悪いが、そもお前と会話するのがあまり好きじゃねんだよ、小言を交わすだけでも尋問されてるみたいに思えてくる」
「はあ、可哀想な奴だな。今なんて尋問そのものじゃないか……まあ、そんなのはいいか。話したいのはこんなことじゃない。お前だって早く解放されたいだろ。俺もお前と無意味なお喋りなんて御免だ」
 そうぶつくさ言いつつ懐からスマホを取り出し、数秒それを操作した後に画面を伏せるような形で置く。
「詫びのつもりじゃないが、先に質問に答えてあげるよ。俺もお前にとって不可解な発言を沢山したとは思っているから」
「それじゃあ早速だが、今スマホをいじった理由は」
「見て分からない? 録音しているんだよ。証拠収集だ」
「……俺の発言を上手いこと加工して、嫌いな野郎に聞かせるとかいう魂胆じゃあないだろうな」
「ああ、そうか。そのやり方もあるな。ただ俺は嘘が嫌いだから、そんな姑息なことはしないよ」
 そのやり方もある、と言われた瞬間、性格が悪いなと眉を顰めた。そも私刑を企む地点で性根が最悪なのは確実であるが。これ以上食い下がる理由もない、結局この音声も私刑の一環で使われて終いだろう。
「嘘が嫌い、だからこそ嫌悪を示す、その手段としてアイツを貶める。言えば言うほどしょうもないな。しょうもないけど、そうでもしないと馬鹿には分からないし伝わらない」
「ついには馬鹿呼ばわりかよ……で、その馬鹿は何者なんだ、ずっと気にかかってならんくてな。いちいち濁すくらい嫌いなのはこっちも嫌ってくらい分かってんだ」
 その言葉を放った瞬間、田山の瞳がさらにきつく細められ、睥睨の色が滲んだ。自分が下の場所にいるわけでも、俺より上の場所にいるわけでもないのに見下されているようだ。彼が私刑に向ける嫌悪の鋭さを直に刺さる感覚がする。もしかしなくても、俺というオチか、という期待はすぐに打ち砕かれた。
「月島成」
 は、と言葉が出かけるより先に、恨みつらみがのしかかる。
「優しさの意味をはき違えた愚か者だよあいつは。ネタに対して正当な評価もせず、全員面白いって言いやがる。それで芸人を生殺しにする。つまらないネタをやる芸人すら肯定するもんだから、面白くない人間が増えていく。そして誰にもウケなくなって、月島しか笑わないと気づいた時に辞めるんだ。月島さえいなければすぐに気づけたものを、何年も後に気づいて、人生を棒に振ったと嘆く。……三年前の木暮みたいにな。おぞましいよ。緩やかに地獄に堕としてるんだ。善人のフリして、才能がないやつを芸人として縛り付けている。呪いをかけている。天使のフリした悪魔が、何人もの芸人を殺している。今回、実際に死んだよな、木暮が。最早ここまで来ると、喜劇だ。お笑いしかないからって、こんな喜劇を仕立て上げなくたって、な……」
喜劇、とせせら笑った瞬間、怒りが湧き上がって衝動のままに田山の胸ぐらを両手で掴んでいた。俺と田山の間を隔てていたテーブルに右膝を乗っけて距離を詰める。
このまま首を絞めてやろうか。赤い眼が余計に深紅の色に染まりそうなほどに血が巡る、血涙すら溢れそうだ。まさか崇めていると言っても過言ではない対象が、こんなボロクソ言われるなんて思わないだろ。
「畜生が……! 人の善意を悪意に読み取るド愚図が、月島の何を知って勝手に恨んで私刑だか復讐だか下そうとして精神的に殺すだと、ふざけるなよ、そうするくらいなら俺がこの場で殺す、俺がテメェに私刑を、下したらぁ……!」
「……何? 何だよ、逆にお前、月島の何を知って擁護するわけ? 痛々しいぞ、その血眼も、必死の形相も」
五月蝿いし煩わしいし何より不快。冷めた態度の余裕、こいつ馬鹿じゃないの、人の悪口聞いてそれに激昂して擁護して友達ごっこのつもりなの、そう言いたげな不遜な顔、僅かな口角の吊り上がり、殺したい。比喩抜きで。お前をこの手で。
正常な判断なんて何処かに置いてきてしまった。自分でも引くほどに。それでも、殺すことがこの場において最善、この事件について最前の収束だと思ってしまうのは。
「お前は月島の何だって言うんだ、相方でもないくせに」
俺が月島成という人間を、人間として尊敬しているから。それ故に後輩として一番可愛がっているから。他の人間と違う、尊くて、崇高で、清廉すぎる思考が、俺にとっての救いであったから。理由は、それに尽きる。
 尊敬する人を、可愛がっている者を、自分にとっての救いをボロクソに言われて限界だった。最早自分自身が傷つけられているように苦しかった。いや、それよりも月島成に嫌悪の感情を向ける者がいるという事実が苦しくて堪らない。
何奴も此奴も、分かってない。月島がどれだけ貴い存在かを、他の芸人にとっても救いになっているかを。遊惺内とはいえ芸人一人ひとりの面倒を見ては気にかけ、何かあったら自分事のように喜んだり泣いたり、皆に平等に向き合う。そんなことを純粋に出来る奴がこの世に何人といるだろうか。
救いだった。救われている。今もそうだ。人並みの道から外れた、人間嫌いの俺を、人間も実はそんなに悪かない存在なのかもと思わせてくれた。馬鹿正直だから変にひねくれていない、その誠実さが俺の拗れた心を癒した。そんな優しい彼を、こんなクズに傷つけさせてたまるか。
胸ぐらから手を離し、次いで何かを言いかけた田山の首を間髪入れずに締め上げる。テーブルに乗っていなかった左足を、一気に田山の座っている方のソファに乗り上げる。ピキ、とガラス天板のテーブルが鳴いた。それは脳内の血管がブチ切れる音にも似ていた。こうでもされると流石に余裕は無くなったようで、餌を乞う鯉のように口を開閉しながら俺の腕を掴んでいる。それを見て、余計に離したくなくなった。
彼の思想を傷つける可能性のある奴はここで殺しておかねばならない。この悪意が彼の前に現れる前に消しておかねばならない。
殺せ、彼の思想を守るために。殺せ、俺が今後とも救われるために。殺せ、と、より一層力をこめようとした瞬間。
 鳩尾に打撃に似た衝撃が走り、その勢いで首を絞めていた手は緩まり、そのまま後ろに倒れ込んだ。直後、甲高くきめ細やかな何かが割れる音が全身から発せられた気がした。背中に無数の針が突き刺さったのかと錯覚するほどの痛み。鳩尾に鈍痛もある。痛みと苦しみが同時に襲う。すぐに立ち上がることが出来ない。白の直管蛍光灯が視界にぼんやり映る中、声が降ってくる。
「これぐらい正当防衛だよな。お前は首を絞めてきたんだ。妥当だよな。割ったテーブルは弁償するよ、壊した理由もこっちから話しといてやる。……殺人未遂者にここまでしてやってるんだ、感謝しろよ」
 浅い呼吸をしながら視界を右にずらす。俺の携帯が落ちていた。録音データが入っている。それに一本の腕が上から伸びる。息が詰まった。
「やめっ……」
ほぼ嗚咽と化した醜い声が出た。それでも田山は気付いたようで、
「やっぱこれか、これに録音データが入ってるんだな。いいだろ? お前が壊した物を弁償してやるんだ。理由を話すにしたって、お前に殺されかけたとは言わないつもりだし、等価交換だと思えばいい」
と冷めた声で返答する。携帯は今一番渡してはいけないものだ。それに、激昂したあまりに何故録音データの存在を知っているのかすら聞いていない。愚かにもほどがある。ああ、今頃熱が冷めてきた。なのに身体は起こせない、嗚咽を垂れるしかない、赤い眼を震わせるしかない。録音データ内の音声内容を聞かれたら、俺がこんなになった意味が全て水の泡と化す。あの語り口だと、録音データを月島に聞かせる魂胆だろう。そんなことさせてたまるか、とまた怒りが溜まっていく。眉間に皺だけが刻まれていった。
 田山は俺の、赤色の携帯を手にしながら部屋の扉を開ける。待て、行くな、俺はこの場でお前を止めないと。そう嘔吐き、腕を伸ばしても、奴は外に出、無情にも扉は閉まった。上体を起こそうとしたが、地面に体重をかけた腕にテーブルだったガラスの破片がぶすぶすと刺さったのと、息苦しさのあまり力が抜け、もう一度倒れ込んでしまう。自分の体の弱さを、愚かさを呪う。
 忘れられない話がある。
 俺が月島成の神聖性を考察し、信仰するに至った一つの話。
 彼の思想について。
 事務所に行く途中にある公園内で何と無しに話していたただけなのに、ずっと覚えている。
 遠くに思える何年か前の、麗かな春の陽をめいっぱいに浴びながら俺たちは話していた。
「十さんって、好きな人いますか」
「なんだぁ? そんなうら若き乙女みたいなこと聞くか?」
「ちゃいますよ、言い方悪かったですね。遊惺ん中で、みんなのことをどう思ってるか聞きたかっただけなんです」
「何でまた」
「大体みな、好き嫌いを決めるやないですか。面白いと、面白くないを分けるやないですか。それが、正しいことなんやろうけど。俺にはさっぱり、分からなくて」
プラスチックで出来た木目柄のベンチで、脚を一本ずつ畳みながら、深く息を吐くように、
「みんな好き、みんなおもろい、じゃ、だめなんですかね」
と、言った。とろんと垂れた、彼の瞳は陽の光を受けててらてらと輝いていた。
「駄目なこた無ェだろ」
瞳が伏せられる。
「ただな、人間は差別をする生き物だ」
深い溜息が聞こえた。
「摂理だよ」
もそもそと動きながら、月島は顔を埋めてしまった。
「駄目とは、言ってないだろ。むしろお前は、いいやつだ。……駄目と言う人間の気が知れねェな」
彼の携える濡羽色を、片手でわしわしと撫でてやった。陽光の暖かさが掌に染み付いた。
「誰に何言われたか知らんけどよ、お前はそのままでいてくれ。いいんだ。みんな好き、みんな面白い、いいじゃねぇか。それが月島の意志だろ。なら俺は、それを尊重するまでさ。な、ほれ、顔上げろ。後でまた話聞くから、まずは事務所行こう」
半ば無理やり話を切り、立ち上がった時見た月島の柔い笑みが、まだ、あの春の暖かさと共に残っている。
今思えば、弱々しい笑みだったと思う。
優しいからこそ、自分の思想に反した言葉すらも受け取って傷ついてしまうのだろう。
俺は、彼の思想を傷つけられることが怖かった。
誰にも持ち得ない綺麗な思想を穢されるのが恐ろしかった。
だから、彼の思想を尊重してやることが、俺に出来る最大の擁護だ。
誰にも犯されてほしくない。
誰にも邪魔されてほしくない。
誰にも崩されないまま、我が思想を貫いてくれ。
そう思っているのに、視界が滲んでいく。俺が止めなければ、彼は穢される。それなのに身体が動かない。むしろ意識を落としかけている。
愚かだ。俺は愚かだ。この期に及んでまで。
赤の瞳から透明の雫が流れる。ガラス片が、陽を受けてきらきら煌めいている。
俺は動けないまま、その煌めきを目に入れながら、意識の傾くままに瞼を閉ざした。
2.虚仮
 木暮が死んだ、というニュースを見た瞬間に脳裏に蘇ったのは、劇場の楽屋で月島に何やら言われている時の木暮の明らかな作り笑いだった。誰の目に見ても分かるほどの不自然な笑み。取り繕って、とりあえず相手に合わせているあの顔。痛々しかった。それだけで見るに堪えなかったのに、月島ときたらそれを作り笑いとも、世辞とも分からずに接していた! 木暮の態度が本心そのものだと信じて疑っていないまま、会話を続けていた。
分からないか? 口角が引き攣っているのを。顔に「もういい」と書いているのを。耳を傾ける価値も無い会話をしてそうな二人だったから、何を話しているかまでは聞かなかったが、その両者の表情や態度だけでも両者への嫌悪感は増していく一方だった。木暮は隠せていない本心を取り繕ってばかりだし、何より月島は相手の意思も分からずに無遠慮に接していた。分かれよそれくらい、と内心で何度呟いたことか。
 実際、月島は鈍いところがあるので木暮のみならず、ほぼ全員に対して無遠慮なところがある。俺もその被害は受けていた。ネタに関しても、日常会話でも的外れなことを言われたことだって何度もある。遠回しに注意したこともあるが、全然聞いていやしなかった。
「お前は無神経なのか」
と言ってみても、
「無神経って、どういう意味ですっけ。ごめんなさい、学が無くて。バカですみません」
と異様にへりくだった態度で謝られた。余計に嫌いになった。鈍いわ、阿呆だわ、何だこいつは。
 そう思った日から、極力月島と関わるのをやめた。関わっているとストレスが溜まりそうだと思ったからである。
 それでも同じ事務所である以上、嫌でも見かけることはあった。見かけるたびに目についた。目やにだか、時折襲う飛蚊症の黒い塵のように。避けていれば俺の嫌悪も溜まることは無かっただろう。互いに関わらなければいいだけの話だった。それなのに、それなのに月島ときたら、会ったら必ず挨拶以上のことを話してきやがった! 話すこととしては、俺のいるトリオのネタが面白いだとか、俺の書いた本を読んだその感想とか、悪口ではない。寧ろ沢山褒め言葉を貰ったまでである。それでも鬱陶しいものは鬱陶しい!
このことを同じ芸人仲間に言ったこともあったが、はっきり言わなかった俺が悪いのだと一蹴された。今思い出しても怒りが湧いてくる。道理が分かっていない。だって、表面上だけで見れば、褒めてくるだけの人間を邪険に扱っている方が異端に見られるだろう。あんなに褒めてくれてるのに、突き放すなんて酷い奴だ。そう言われて今以上によく知らない人間にすら距離を置かれる。勝手に「怖い人」の箔を貼られる。理不尽ではないか。こんなに不平等極まりないことがあるか? 何で俺が恐れられて、月島の方が慕われないといけない?
 こんなことを思っている地点で、自分が愚かなのは自明の理であった。自身が恐れられるのはもういい。慣れた。それが俺の確立した立場であるのだから。ただどうしても許せないのが、あの愚鈍と無知の塊が他の人間に慕われ、親しみを持たれていることだ。本当に、それだけが理解できなかった。その不可解な疑問は月島と会う度に不快な感情に姿を変え、己の首ばかりを絞めた。おかしいだろ。人一人を嫌うだけで自分の精神が死ぬなんて。
 心が死にそうだと気付いた次の日に俺から、
「暫く関わらないでくれないか。最近イライラしていて。人に当たってしまうのが怖いから」
 と月島に告げた。自分でも驚くほど丁重に告げたと思う。まず嫌悪の対象を前にして嫌いだとはっきり言っていないし、端的に、ごもっともらしい理由を入れて関わるなと言えたのだ。いくら馬鹿でもこれくらいは飲んでくれるだろう、と思った矢先に言われたことはまだ覚えている。本当は忘れたい。
「何か、あったんですか。いや、詮索するつもりやないんです。むしろ踏み込まれたら嫌でしょうし。……ただ、心配で。田山さん神経質やから、正直ストレスとか過剰に溜めちゃうんやろうなって……。話とか、俺聞くことしか、いや、聞くことはできるんで。何かあったら頼ってください、ね」
 それを聞いた瞬間。その時の俺は唖然として、ああ、としか返せなかった。あと去り際に、今回は大丈夫だから。と言ったっきりだ。普段ならば、これにありがとうと付け足しただろう。そんな気にもなれなかった。そも、あんな奴に感謝の言葉なんてかけたくもなかったのだから。
 お前のせいだ‼ お前のせいでこんなことになったのに、何が話聞くだ。黙れ。頼りたくもない、こんな馬鹿。ふざけるのも大概にしろよ。俺の何を知って心配してんだ、踏み込むなよ痴鈍が、この俺の、お前よりも遥かに高尚なこの思考に触れるな、関わるな、嫌いだ。
「殺してやろうか……」
 月島が完全に去って俺の視界から消えた後、ぷつん、と、塞き止めていた何かが切れた。それで突発的に先述のようなことを思い、事務所の廊下のど真ん中に立ち尽くし、震えながらそう呟いたのが、木暮が死ぬ日の、昼頃だった。
 あの時に沸いた失望と怒りと殺意は、時間を経ても消えることは無く。胸中の濁り、わだかまりとして残り続けた。
 それを重々心に携えたまま、帰路についていた夜。都会の煌びやかさから離れた裏路地を歩いていた。車一台通れる程度のそこの周りは、何が入っているのか全く分からない、嫌に慎ましい小ビルが乱立していた。そんなに遅すぎる時間でもないのにビルの明かりは消えているものが多く、頼りになるのはせいぜい街灯か不規則的に置いてある自販機くらいだ。人通りはない。俺しかいない。駅に行くために歩を進める、それだけに意識を寄せていた時だった。声が降ってきたのは。
「——め‼——————すが‼」
 怒声。憤怒を露わにした男の。やけに静かな裏路地だからこそ聞こえた、と言う感じの聞こえ方だった。これが表通りだったら、誰の耳にも届かなかっただろう。声に釣られて上を向いた。自分から向かって二メートルほど先にある斜め右の白い小ビル、その頂上。そこにぼんやり、闇の中に一等濃い人型があった。何に向かって吠えているのだろう。立ち止まったまま、耳を澄ます。
「——俺は今、月島成に殺されるんだ‼」
 その時背筋の下から上にかけて興奮が這ったのは嘘じゃない。今自分が明確な嫌悪を抱いている相手の名が、この閑静な裏路地で吐露されている異質さ、処刑の晒し上げにも近い感覚に口角を歪めそうになった瞬間、ふら、と人型が傾いた。前にだ。あ、と声が漏れる。人が、重力に従って落ちている。それをやっと認識した頃には、人は地に伏していた。
 無機質な何かが落ちた音、そして、鈍い鈍い衝撃音。視線を上から下へ移す。何か黒い塊が、目線の先にあった。飛び降り現場だ。と、咄嗟に浮かんだ言葉は何ともあっさりとしていた。そこですぐ通報でもしておけばいいものを、突然目の当たりにした非日常を体験したいからか、呪われたように、塊に歩み寄った。しゃがむ。深淵を覗き込むかのようにそろそろと、顔を、覗く。
「…………木暮」
 裏路地に、ぽつりと自分の声だけが零れた。知ってる顔だ。三年前に遊惺を辞めた男、の顔が地べたに落ちていた。あの相手に合わせた痛々しい作り笑いは、もうそこには無い。
 嘲笑が漏れた。月島成に殺される、という言葉を聞いた後にこれだ。本当に死んでしまった。飛び降りた直後だからもしかすると生きているか、すぐにでも救助活動をすれば生き延びれるかもしれないが、とてもそれをやる気分にはなれなかった。そう考えてしまった自分の冷酷さにも笑ってしまう。傍から見れば飛び降り死体を前に笑っている男だ。とんだ気違いである。屈みこんでいる様子が、腹を抱えているようにも見えて余計だろう。まだ救いがある見方をすれば、目の前で人が死ぬのを見てパニックになったというだけで済まされるのだろうが、俺はそうではなかった。別義で笑わずにはいられなかったのだ。思えば、この時から色々たかが外れてしまったのだろう。
 あの言葉が憎しみから来た空耳でなければ、本当に木暮は月島に恨みを募らせた上で死を選んだと思える。それが事実なら、月島の存在が原因で木暮が飛び降り自殺をしたということが誠だとしたら。
 それはとても、とてもとても滑稽な地獄ではないか⁉ アイツの姿勢、皆を愛しているからこそ極力気にかけることなどというふざけた態度が仇となっていることが、白日のもとに晒されるのも同然ではないか。こんなにまで追い込まれた決定的な理由は分からないが、少なくとも近しいことに変わりはないだろう。だって、木暮は殺されると言っていたんだ。最期まで、自死ということを認めてはいなかったのだから。
 卑しい笑みを浮かべながら、腕に埋めていた顔を上げる。木暮の顔は変わっていない。
 それより目についたのは、伏している木暮の右手近くにあったスマートフォンだった。画面は水面のようにひび割れている。きっと木暮ともに落下して割れたのだろう。そこで、はたとある憶測が浮かんだ。飛び降りる前、木暮は無為に叫び散らしていたのではなく、何者かと電話をしていたのではないか、と。
 普通ならば月島にかけていたのだろうが、よくよく考えてみると、文字通り死ぬほど嫌いな奴の連絡先なんて持つだろうか。有り得ないだろう。自らの命を擲つレベルの相手の連絡先なんか、持っているだけでストレスにもなりそうな勢いだ。となれば一体誰にかけていた、という話になる。
 屈んだ姿勢からやっと立ち上がり、木暮のスマートフォンを拾い上げる。ぱら、と液晶画面の細かい破片が落ちた。電源ボタンらしきところを親指の中腹辺りで押してみるが、当然画面が点くことは無い。落下の衝撃で壊れてたのだろう。割れた真っ暗の画面を見つめながら、更に思慮する。
 誰だ。木暮が電話をしていた相手。友人か? はたまた親? しかし、身内にかけたとて月島のことを話す道理が分からない。どうせ話すのならば、月島のことを知っている人間の方がまだ納得がいく。となればかつての芸人仲間が一番可能性がある。木暮と交流があった遊惺芸人。そも木暮は単独行動を好む傾向があったような気がする。飲みの席などはもっともらしい理由をつけて避けていた覚えがある。そんなやつが誰かの連絡先を持っていることなんてあるのか……
 ここまで考えを巡らすのは、新しい小説の構想を考える時以来だ。酷く頭を使う。正直考えるのは神経を使うので嫌いだが、どうしても考えずにはいられない。
 だって、今しかないんだ。今ここで木暮が死まで踏み切った要因が月島の存在であることを明らかにできれば、アイツを精神的に殺すことができる。貶めることが、できる。昼に沸き上がった殺意がまたぶり返す。いい加減、馬鹿には分からせないといけないんだ。その行動がどれだけ愚かしいかを、誰も救わない自己満足であるかを、人を死まで追い込む悪手であるかを。これは私刑だ。俺が私刑を下せれば、今後月島によって心身を殺される人間はいなくなる。木暮や俺のように。だから考えなければいけない。私刑を下すために、分からせてやるために。
 思考が詰まりかけ、代わりに恨みがのさばってきた瞬間だった。それは闇の中に差す一筋の光のように唐突に浮かんだ。
 そういえば、こいつ、よく二宮に絡んでいたような気がする。気がするのではない、確実だ。そう断定できたのは、木暮からよく二宮のことを聞かれていたからだ。同い年なんでしょう、何か同い年なりに知ってることとか、無いんすかなどと。ジェネレーションギャップを埋めたいがために聞いてきてたのだろうが、生憎俺は二宮と好き好んで絡んでいなかったので何も答えることは無かった。
 そんなどうでもいい回想を過らせながら、粗方の検討を付けた。
 木暮が死ぬ直前に通話をしていたのは二宮。他の可能性は無きにしも非ずだが、木暮は多くの人間と深く関わるようなタイプではないと自称していたので、それを信じることにする。その筋で二宮に当たれば、何を話していたかは分かるはずだ。
 上手くいけば、音声をアイツ本人に聞かせることだって。
 僅かな期待に嘲笑が漏れた。他人を憎む時が一番苦しくも楽しい。早くに捨てたはずの幼心が齢四十の今になって帰ってきた妙な感覚が全身を駆け巡る。大人げない、その時の俺に、そんな言葉は浮かばなかった。
 その夜から、復讐劇を始めた。昼の殺意と、積年の恨みを引っ提げて。
 そして今に至る。通話相手の推測は的中。録音データというその場ではじき出した憶測も的中。誰かに操られているのではないかと思うほどに、事が上手く運びすぎている気がするが、俺にとっては好都合だった。
扉を閉めて最初に思ったのは、何奴も此奴も馬鹿ばかりだな、ということだった。月島のみならず、今さっき蹴飛ばした二宮も、そしていまこうやって私刑を下そうとしている俺自身も含めて、全員大馬鹿者だ。呆れる。そう思うだけの正気はまだ残っていたことに、今になって気付く。
 二宮のいる部屋の前から少し離れた廊下の端で、赤いスマートフォンのスリープを解く。画面は指紋だらけで、持ち主の大雑把が滲み出ていた。ロックもかけていない。何処までも、不届き者。
 録音データと言っても最近使っている人はいるのだろうか。最近とは言わずとも、俺は一回も使ったことが無い。著書で一度録音データを使った描写を書いたことがあるから存在を知っているだけだ。
 ホーム画面を流し見したが、どうやら専用のアプリを使っての録音ではないらしい。流石に開き方を調べることにする。
 他人のスマホを堂々と使っているなんて、と思考の片隅で思ったが、最早そう思う方が邪道なのだ。落ちたばかりの木暮を助けなかった時から、俺は既におかしかったのだから。
『電話 録音データ』と調べて出てきた結果通りに電話アプリを操作すると、画面に大量の録音データが縦列を為して表示された。なるほど、と思わず声を漏らした。
 あっさりデータを開いてしまったが、二宮が追ってくる気配は全くとしてなかった。蹴った衝撃とガラステーブルに直撃したせいで気絶してしまったのだろう。思えば、自分の去り際に発していた声は酷く掠れていた。だからといって何をするわけでもない。仮に訴えられたとしても正当防衛で片付けられるオチだろう。
流石に録音データを廊下で聞くのは憚れると思い、一階に降りることにした。
 二宮を待っていた時と同じ場所に陣取った。エントランスの受付前。受付とは言うが、受付嬢というものはいない。用事があるときだけ出てくる係員ならいる。つまり基本がら空きというわけだ。いくら小規模でも、と愚痴りかけたが、そんなことに気を留めている場合ではない。
 何の感情も持たぬまま淡々とイヤホンを装着した。再生時間は一分十六秒。この音声を聞いた後、俺は何を思うだろうか。
 音声を再生した。
『……なんだ、誰だお前は』
『もしもし、十さん。木暮です』
『……あ? 木暮?』
『ええ、はい、元風来坊、の』
『何でだよ。もうてめえとは縁を切ったはずだ』
『何故、野暮ですね。俺、今から飛び降りるんですよ』
『馬鹿か? つくならもっとマシな嘘つけよ。そんなんで気を引こうと——』
『冗談? そんな、本当ですよ。俺は死ぬんです』
『……死ぬにしたって何でだよ』
『もう耐えかねたんですよ。芸人を辞めても、ずっと、辞めた原因のやつが付き纏うんです』
『あ? やつ? てめえ今なんて』
『君は面白いから、きっと売れる。大丈夫。俺は君を応援しているから。そういう呪いの言葉が、ずっと、ずっと離れないんです。悪夢のように』
『何で今それを話す。それ言って何になる? 俺に話して何になる? 下らねんだよ、それで飛び降りすんのもよ——』
『クソッ、イライラしてきた。同じ世界に生きていることが辛くてたまらない。ああ、十さん。俺の最期の言葉、聞いてくださいよ』
『てめえ! 俺の言葉に反応しないで人の話聞けってか、おい、てめえの話聞く前に』
『いいんですね、ありがとうございます』
『お前が聞け……チッ、本気で飛び降りんのか、だとしたら本当に下らねえぞ‼ 木暮‼ 聞けこのクソ‼ きぐ——』
『芸人殺しめ‼』
『……は、』
『全てを愛していると言っておきながら、地獄に追い込むサイコパスが‼ 今まさに俺を殺すんだ‼ これは自殺なんかじゃない、殺人なんだ、俺は今、月島成に殺されるんだ‼』
 直後、爆音にも似た風切り音が鳴る。
それと同時に、二宮の、
『あの、野郎……』
 という声も混じっている。
三秒後、くぐもった衝撃音が二度鳴った。それで再生は終了した。
 木暮隆彦という男の存在を、俺はこの時ばっかりは尊敬した。死んで初めて、尊敬した。恨んでいる者のためにその身を投げ出した行為を、称えたい。
 勝手に陰湿な奴だと思っていたが、そうではなかったらしい。やるときはやる、と言っては皮肉だが。
 それにしたって会話が成立していない。二宮の携帯にある録音機能に自らの遺言を残すことだけを考えて、二宮にかけた可能性が大きい。というか、きっとそうだろう。皆正気じゃないな、本当に。
恨みとは、肥大すると時にとんでもない行動を起こす。木暮のように自殺したり、俺のように復讐まがいのことをしたり。でもそれを止められるわけもない。どんなに馬鹿馬鹿しいと頭で理解していても、本能が、殺れ、と言って止まない。だからやるしかない。恨みが晴れるまで、徹底的に。完膚なきまでに。
 左耳のイヤホンを外したと同時に、一瞬空気が冷める。入り口のドアが開いたからだ。顔を上げるより先に声が届いた。俺に向ける声が。
「おはようございます、田山さん」
 影が被さる。眉を顰める。首をもたげる。
 映ったのは、対象。
「何聴いとるんですか?」
「……聴く?」
 歪に口角が歪んだ俺とは対照的に、月島は人懐っこい笑みを浮かべてこちらに歩み寄る。俺はさっきまではめていた左耳のイヤホンを差し出した。
 もう既に文句が二個ほど浮かんでいたが、小言を言ってやる前に月島が話し始めた。
「田山さんって、全然音楽聴いてる印象なくて、意外やなって思ったんです」
「まあ実際聴いてないよ」
 何の躊躇もなく、月島は右耳にイヤホンをはめた。左だよ馬鹿が。
「……あれ、何も聞こえん」
「ああ、さっき再生が終わったばかりなんだった。もう一回再生するよ」
 手に持っていた二宮のスマートフォンをいじる。再生ボタンを押すだけなので目の前で掲げた時間は少ない。それでも、月島は何かに気が付いたように表情を変えた。
「スマホ変えたんですか。赤色ええですね」
 目敏い。普段は鈍いくせに。
 話すつもりもないので、聞こえないふりをした。再生ボタンは既に押している。まだはめたままの右耳から、ぶつっと通話が始まった音がした。
 一分十六秒後、こいつはどんな顔をするのだろうか。
「十さん?」
 音声を聞くや否や、月島はそう言った。そして間髪入れずに、あ、木暮くん。と名を連ねた。
「これ、通話音声……?」
 聞こえないふり。無駄言ばかり。黙って地獄に行け。目を逸らしつつ自分にはめられている右耳のイヤホンに繋がる線を軽く引っ張る。
『何故、野暮ですね。俺、今から飛び降りるんですよ』
 音声内の木暮がそう告げた瞬間、「えっ」と言ったきり月島は何も話さなくなった。
 会話は進んでいく。戸惑う二宮と、段々声に殺気がこもってくる木暮。
 俺は線を引っ張り、右耳のイヤホンを外した。それを手に取り、月島の左耳にはめてやる。
 はめてやった時、月島はゆっくりと俺の方に瞳を動かした。酷く恐れたような顔をしていた。不安を露わにしている。今にも泣きだしそうな表情。今お前はどこを聴いているのだろうか。きっとどこを聴いてもお前に傷しかつけないが。
「たや、田山さ、なんです、これ」
 はめてやった方のイヤホンに手をかけ続けていたので、返答もせずに、無為に外されないように月島の左の耳元を掌で覆った。
 じっと目を合わせる。潤んでいく茶色の目、困惑に歪んだ口、その顔は今まで見た数少ない表情の中でも、最高にいい顔。
 良い。もっと歪め、堕ちろ、地獄へ。遊惺を辞めていった奴の分まで、絶望しろ。
 それで俺は初めて報われる。
「あ、」
 それは微かな叫び声だった。環境音にまみれてしまいそうなほどに小さな声。それでも俺は聞き逃さなかった。
 月島の垂れた双眸から大粒の雫がぼろぼろと零れ、紺色の床にシミを作っていった。左の耳元を覆っていた手を下ろす。その手で涙を拭ってやることなんて、決してしない。浅く途切れ途切れの、不安定な呼吸がただ聞こえた。それについて憐みや不安は感じなかった。
「お前が殺ったんだろ?」
 涙を拭おうか話を聞こうかで行き場のなくした月島の手の指が、浅く、ぐちゃぐちゃに絡まっていく。
「なのによくもそんな被害者面ができたもんだよ」
 余計に顔は歪んでいく。なあ、それが齢三十四の泣き方か? 情けない。あまりにも情けない。だから嫌い。人懐こいだけの気弱な馬鹿は。人殺しにも気付かない虚仮は。
「芸人殺し」
 そう言った瞬間、左手の階段から何かが落ちたような激しい音が聞こえた。視線をそちらに向けると、汚い声で噎せる二宮が転がっていた。気絶から立ち直ったらしいが、体力はボロカスに近いから無理しているんだろう。
「なあ」
 月島が二宮を呼ぶ前に、声をかける。
「通話の最後にあったあの野郎って、どういう意味なんだろうな」
 赤い眼が睨みつけてきた。元から赤い瞳が、今では怒りにまみれて余計に血走っている気がする。
「俺はさ、よくも殺しやがって、って意味だと思っているよ。きっと今落ちてきた二宮もお前を許していないよ。許すわけがない。芸人殺しに許される筋合いはない」
 二宮はのろのろと起き上がった。そして、こちらに向かって全速力で駆けてくる。
 左足を少し上げ、折り曲げる。
「邪魔すんな、よっ!」
 折り曲げた足を勢いよく上げ、殴りかかってきた二宮の股間にぶち当てる。殴りかかってくるだけの元気があることに正直引いた。崩れ落ちるのは一瞬で、その際見えた、苦悶と憤怒が綯い交ぜになったような表情が酷く滑稽だった。
「うあ、じゅ、十さん……! 大丈夫……」
「そういうとこだよなあ。黙って逃げるか助けを呼べばいいのにさ、そうやって渦中に飛び込んで相手の心配するのさあ、迷惑なんだよ。そういうとこで木暮はお前でストレス溜めたんじゃ、っ痛……⁉」
 文句を言っている最中だった。爪先辺りに激しい痛みが走ったのは。すぐに下を向くと、足元に小さな血溜まりが出来ている。痛みで鈍った思考は、何が起こったのか理解できていない。
「……言ったろ……」
 額から汗が滲む。これは確実に、効きすぎた暖房からくる暑さによるものではない。二宮の声は酷く掠れていて、本来なら声を出すべきではないほどに喉がイカれている。
「この場で殺してやるって……!」
嘲笑が漏れた。それと同時に、何が起こったのかをようやっと理解した。
左足の爪先に、刃渡り数十センチほどのガラス片が突き刺さっている。多分、というかほぼ確実に、あの時割ったガラステーブルの破片。それを手ごろな刃物のように扱いやがった。
白んでいく視界に映るのは、血を放つ足元と復讐に燃える深紅の眼。その目は今広がり続けている血のようで。ああ、俺も、そんな獣みたいな気色の悪い色をしてたのか?
「……いや、やめて、なんで、なんで……? 何で、蹴ったり刺したり、しとんの……」
「お前のせいだぞ! 全部お前のせいだ‼ あ゛痛っ……!」
 恨みつらみをこめて怒鳴り散らかしている間に、勢いよく爪先に刺さっていた破片が引き抜かれた。まだ刺されていない右足で二宮の顔面を蹴ってやろうと考え付いた時には、二宮は腕を振り上げていて、重力に従うかのように勢いよく下ろし、右足の爪先にガラスの破片が靴の布を破って突き立てられた。
「あ゛ぁ……っ‼」
 自分の中で、一番情けない悲鳴が出た。こんなにも早く代償が来るものなのか。月島に私刑を下そうとした罰が下るのか。人を呪わば穴二つだ。何の犠牲無しに人を堕とすことが出来ないことなんて、分かっていたつもりだった。それでも、それでもこの仕打ちは度を越していやしないか。
 何だもう、こうなったらやるだけやりきって死のうじゃないか、今気を失ったら、次生きている気がしない。
「月島あ‼ 全部お前がやったことだ、正しくはお前が遊惺芸人なんかになったから起こったことだ‼ 俺の足がこんなになったのも、二宮が俺を殺そうとしてくるのも、木暮が死んだのも‼ 全部お前が存在したせいで起こったことだ‼」
 階段から数人ほど降りてくる音が聞こえる。そいつらがいつ事務所に来たのかは分からない。
 二宮が何かを言いかけているが、喉がイカれている弊害かまともな声一つ出せていない。立ち上がろうと地に手をついているが、疲弊しきってて立ち上がるのもやっとだろう。
「芸人殺しが……‼ のうのうと芸人の世界で生きてんじゃねえよっ……」
 そう言い切った瞬間、ぴ、と赤い何かが舞う。喉に熱い感触がする。恐る恐る熱を帯びた首元に左手を当ててみる。ぬるりと気色の悪い感触がした。掌を見る。
 血だ。
 悲鳴が聞こえた。誰かが二宮を取り押さえている。腕しかよく見えない。すぐさま誰かが俺の元に駆けつけて声をかけるが、もう返答する気力が無いし、思考が働かなくて誰なのかもはっきりしない。力が抜けていく。眼前にぼんやり映る月島にも、黒い誰かが寄り添っている。あれは月島に絆されている愚か者の一人なんだろう。
 さらに視界は濁っていく。あ、これ貧血で倒れるやつか。どうなんだ? 足と首だけで倒れるものなのか? とどこかで自分を俯瞰している。そうでもしないと意識が持たないし痛みに耐えれる気がしなかった。
 でもそんなことしても無駄だった。しんどさが増すばかりだ。もういいか。文句は言うだけ言った。死んだっていい。復讐とはこういうことだ。寝よう、生きてるか死んでるかは、もう寝た後に考えよう。
 身体に任せて、気の抜けるまま倒れ込んだ。少しは楽になった気がするが、足はまだ痛む。寝たいから、瞼を下ろした。もうこれ以上何も見たくないというのもある。
「十さんやりすぎだって‼ 何あったか知らんけど首切んのはヤバいって‼」
「うるせえ……っ‼ 殺すんだよ、殺らなきゃ怒りが収まんねえんだよ……‼」
「やべ、田山さん倒れちゃった。これ応急処置どころの騒ぎじゃねえよな」
「月島さん、大丈夫ですか。落ち着いて。僕がいますから」
 様々な声が聞こえる。五月蠅いな。こんな五月蠅い地獄があっていいものか。
 寝かせてくれ。私刑で身をやつした虚仮は闇で眠るんだ。
 なあ月島。お前も深い絶望の中で眠ってくれよ。そして二度と目覚めるな。
 けれど同じ所には来ないでくれ。また顔を合わせたら、同じようにお前を殺すだけだから。
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向き
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憧月の子 1
初公開日: 2021年01月15日
最終更新日: 2021年04月26日
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0.今際の私怨 (プロローグ)
1.呪縛 (二宮視点)
2.虚仮 (田山視点)
が収録されています。