藤橋駅の南側。飲み屋街の小路に入って二つ目の角を右に曲がれば、赤提灯に赤い暖簾が垂れ下がる。
明るい店内からは朗らかな談笑が聞こえ、スンと息を吸い込めば優しい出汁の香りを感じることだろう。
ついつい惹かれて暖簾を潜りがらりと音を立てて引き戸を開ければ、左手に五人掛けのカウンター、右手に四人掛けのテーブルが一つの小ぢんまりとした店内が見て取れる。右手奥にある小さなテレビには、スポーツ中継が映し出されているようだ。
「あら。いらっしゃいませ」
お好きな席にどうぞ、と和やかな笑みで席を勧めるのは、店の主人である一人の女性。決して派手ではないが安心感を抱かせる優しげな風貌にも惹かれたためか、カウンターの一席に腰を下ろして一息ついて。
それからふと、店内を見渡して気付くのだ。カウンターの一番奥の席に、仏頂面で大柄な男が肘を突き、黙々と何かを食べていることに。
怖いもの見たさでじっと見つめていれば、男が食べているのはカウンターの上の大皿料理の一つらしい。顔を上げればおしぼりを差し出そうとしていた店長と目が合って、あらあらと言いたげに微笑まれてしまう。
「今日のおすすめはこちらです」
そうやってとても楽しげに言いつつ壁の黒板を示すものだから、それを頼まないわけにはいかないわけで。
結局瓶ビールとおすすめを数品頼んで腹もくち、酒も入って上機嫌になった頃には気付かないだろう。
「……この妖怪たらしが」
「あなたに言われたくないわね」
大男と店長が、こっそりと交わしていたそんな会話には。
*
「一誠」
「……おう」
最低限必要なものすら省いてしまった短すぎる会話に、和泉は思わずぷふっと噴き出した。
右隣りとカウンター内から同時にじとりとした横目で見られてしまったのには、迷わず箸を置き両手を挙げて降参のポーズを取るしかない。雨龍はともかく、琴子を怒らせてはいけないのがこの店の不文律だ。
「いやぁ、笑うだろ。おれは悪くないだろ」
あんな、思いっきり熟年夫婦みたいなやり取り見せられてしまっては。
そう主張すれば流石に反論できなかったのか、二人して黙り込んでしまう。その間にも無言で先ほどの短縮言語の結果である、醤油の受け渡しを済ませているのだから笑い話でしかない。
徳利を傾けて手酌しながら、和泉はケラケラと笑い声を立てる。幸い、今日は雨だからか二人の他に客はいない。軒先を打つ雨音が激しくなったのを聞く限りでは、おおよそ閑古鳥といったところか。
だから遠慮なしにカウンターを広く使って肘まで突いて、横柄ついでに手を伸ばして雨龍の漬け物を一つ掻っ攫った。ひょいと口に放り込み、顎に感じる酸味と発酵感を楽しみながら、北の清酒をもう一口。
「っかぁ~、堪んないねぇ……! あだっ!」
「勝手に食うな」
しっかり嚥下したタイミングで、ゴン、と脳天に降り下ろされたのは大きな拳だ。己の馬鹿力を自覚してほしい、と思いつつ和泉は頭頂部を労わるように擦る。実際手加減はしてくれているのだろう、雨龍に本気で殴られて生きている自信は和泉にはない。
・テレビ見てたら妖怪関係のニュース
・濡れ鼠の油小路が駆け込んでくる
「あら。また怪異事件ねえ」
店の隅に備え付けの古いテレビを見上げながら、琴子がぽつりとそう呟く。店内には常連客、というかむしろここに住んでいると言って過言ではない雨龍と、週二で顔を見せる和泉しかいないのだから、彼女の雑談も増えるというものだ。
琴子の言葉に和泉も顔を上げ、斜め後ろにあるテレビを見る。雨音と同じくらいの音量の
夏の始めの急な雨。
「うわぁ。濡れ鼠っすねぇヨリさん」
「水も滴るなんとやら……ってね?」
「そこまで言ってねえっす」
「はいはい、濡れ狐さんはこちら」
「傘は?」
「バイトの子に貸しちゃってね」
新月の琴子は機嫌が悪い。そうなったのはいつからだったか。雨龍の記憶が正しければ、二十年以上前のことだったような気がする。それこそ今の詩子の年頃だっただろうか。
それがいつも新月のことだと当てたのは、雨龍ではなく和泉だった。長年傍に居るからこそ、体感で大体この時期だろうという予測はついていたのだが、明確に新月の日がそうだと言ったのは和泉である。
それからだろうか。琴子が月に一度の臨時休業を取るようになったのは。
考え事をしながらコンビニで会計を済ませた雨龍は、一瞬ちらりと手元のレジ袋を見て眉をしかめた。またエコバック云々と小言を言われるだろうか。否、今日はそんな無駄口を叩くような元気もないだろう。
そう考えつつ、真っ直ぐに三友へ向かう。平日の午後二時ともなれば暑いばかりで人通りは少なく、ただただ蝉の声だけが喧しい。きっと彼女も普段の三割増し険しい顔で、この世の全ての蝉を焼き払いかねないような呪詛を吐いているのだ。
そう考えると行きたくないような気もするが、それでもいつもの澄ました顔が盛大に歪められている様を思い出すと行かないわけにもいかないわけであって、結局雨龍はいつも通りに琴子の元へと足を運ぶのだ。
居酒屋三友の二階には五畳半ほどの和室がある。アパートに帰るのが面倒になった雨龍の仮眠室として使っているような場所だが、新月の日だけは琴子が一日中寝込むための隠れ家と化すのが基本だ。詩子もあの年齢で姉の不調を察しているのか、この日ばかりは学校帰りに店に寄ろうなどとは思わないらしい。
コンビニから徒歩五分、すぐに辿り着いた店の前で一度立ち止まる。月一とは言え、暖簾と提灯が提げられていない引き戸を見るのは新鮮だ。そのまま呼吸を止め瞬きすらも我慢していれば、一瞬だけ戸がゆらりと揺らめいた。
これは妖術の一種で、雨龍個人の生体エネルギー的なものを感知し信号を送るシステムだそうだ。あまりにも雨龍がこの店に居座るものだから、同じく常連客である妖怪に頼んで設置してもらったのだとか何だとか言っていた。
だったら合鍵を渡せばいいものを、とは思う。実際に言ってみたことはあるのだが、琴子はいつもの何とも言えない微笑で「勝手に入られると困るので」と言ってのけた。月一で入れない方が困っているし、勝手に施錠も出来ないことの方が困っているのだが。
ずぞぞ、と音を立ててカップラーメンを啜る。少し悩んでビッグサイズにしたが、現場仕事の多い雨龍からすれば小腹を満たす程度のものだ。瞬く間に胃袋の中へと消えていく。
無心で麺を啜っていれば、死体のように寝ていた琴子が更に眉をしかめた。う、とかいう軽い呻き声が聞こえて、それからようやく瞼を刺す照明の明るさに気付いたようにして睫毛が震える。
「……い、っせい……?」
寝起きでしゃがれた声で、琴子が言った。おう、と応えてやりつつスープを啜る。汗を掻いた体に沁み込むような塩分で舌が痺れそうだ。
「食うか」
そう聞いて、ローテーブルに食べかけのラーメンを置く。胡坐の横に置いていたレジ袋から取り出したのは、同じ会社から発売されている普通のサイズの即席麺だ。三種の味を用意してきたのは、どうせ二階に置いておけば雨龍の夜食になるからである。
どんどんどん、と枕元に積み上げた即席麺。寝返りを打った琴子が開眼一番それを見て、それからぽかりと口を開く。丸くなった目と口に、少しだけ溜飲が下がるような思いになったのは口にすべきことではない。
「ふ。……食べる、わ」
どれがいい、と聞けば、しばらく悩んでから「ふつうの」とたどたどしい口調で言う。その姿を一体何人に見せるのだろう。どうか自分だけであればいいとは、雨龍は決して思わない。
琴子とは長い付き合いになるが、それでも雨龍が知っていることなどごく僅かだ。割と面倒臭がりなこと、薄ら笑いが基本の表情になっていること、身内以外をどうとも思っていないこと。
他者のためなら料理はするが、自分の食事には無頓着なこと。根っからの左利きで、甘い物はいつもの洋菓子屋のものしか食べないこと。
・若いツバメ
「最近、彼とはどうなの?」
淡々としたトーンで問いかけてくる琴子を二度見して、ついでにもう一回だけ見直して、油小路はあんぐりと口を開けた。その様子を見るでもなく食器を洗いつつ、琴子は再度同じトーンで聞いてくる。
「彼よ、彼。一誠の職場のアルバイトだった」
「そこじゃないんだけどねえ?」
僕が二度見した理由は、と補足すれば、ようやくこちらに視線を向けた彼女は不思議そうに小首を傾げた。首を傾げたいのはこちらである、とは油小路には言えないことである。
「続いているんでしょう」
「……まあ、一応は」
渋々頷けば、琴子は「ほら、やっぱり」と言いたげに軽く手を打った。
・何も心配いらないから眠っていて
雨龍が風邪を引いたと聞いて、店に駆けつけてきたのは油小路と和泉だった。
茶色い頭の二人組を半開きにした引き戸から見て、雨龍が寝込んでいる二階への階段をちらりと見上げて、それからようやく琴子は微かに口角を上げつつ二人を迎え入れた。
悪いこと考えてるなあ、と思いながらも油小路は何も言わない。和泉は気が付かなかったようで、持っていたレジ袋を持ち上げて「色々持ってきたよ」とへらへら笑っている。
「珍しいねえ、一誠が風邪なんて。変な物でも食べさせたの?」
「失礼な。どうせ盛るならちゃんとした毒でも仕入れるわよ」
違いない、と苦笑する油小路は、和泉と違って手ぶらである。琴子が体調を崩したときと同様に、店の食材で卵粥でも作る気なのだろう。それか珍しく弱っている雨龍をからかいに来たか。
そうこう考えている内に、和泉はカウンターの上に買い込んできたのであろう商品を並べ始めた。粉のスポーツドリンクに冷えピタ、氷まくらにマスク。それから市販の風邪薬が数種類。
「本当に色々買ってきたのね」
「半分くらいばあちゃんたちが持たせてくれたんだけどね」
ガサゴソと袋を探っていた和泉が、得意げかつ大袈裟に何かを取り出す。どん、と最後にお披露目されたのは、黒地に赤いラベルの四合瓶だった。
「マリアばあちゃん特製、魔女の秘薬!」
「却下」
「即答!?」
とん、とん、とん、と微かに聞こえた足音で目が覚めた。碌に回らない脳味噌で、今何時だ、と雨龍は考える。
横を向いて壁掛け時計を確認しようとして、額に乗っていたタオルがずり落ちた。生温くはなっているがまだしっかりと湿っている。こいつで顔を拭いてしまっていいだろうか、と少し考えたあたりで、足音の主がやってきた。
「起きた?」
「……ねてる」
「嘘おっしゃい」
いつものように淡々と告げる琴子が、雨龍の目元を隠していた濡れタオルを拾い上げた。見上げる琴子はいつも通り、のっぺらぼうの方が表情がありそうな淡白面である。珍しくも風邪を引いてしまった雨龍を心配する素振りは欠片もない。
じゃぷ、とタオルを水につける音がする。濡れタオルとは別のものだろう。しっかり絞ったそれを手渡されるが、寝起きで頭が回らないということにして無視をした。
はあ、と面倒臭そうに溜め息をついた琴子だが、それでも雨龍の言いたいことは通じたらしい。渋々といった手つきで顔が拭われる。ほぼ丸一日寝るだけだったので、顔を拭うだけで心地良かった。
「食欲は?」
そう聞かれて返答を考えている間に、ぐる、と腹の虫が鳴いた。一瞬手が止まる琴子だが、すぐに軽く笑って「お腹の方が素直ね」とからかってくる。反論しようにも喉が渇いていたので、雨龍はいつも通り言葉を飲み込んだ。
現在時刻を聞こうと思ったのだが、カーテンの隙間から除く日差しは真昼のそれだ。いつになくよく寝たものだと我ながら感心しながら目を閉じる。どうせ二度寝しても琴子が起こしにくるだろう。
「ヨリさーん、そんな酒入れていいんすか?」
「一誠向けの特別レシピだからねえ。良い子は真似しちゃ駄目だぞー」
「どうせなら卵も追加しません?」
「お、いいねえ。やっちゃおう」
そう目論んでいたのに、階下から聞こえてきたのは大きな話し声と笑い声。思わず目を開け琴子を見るが、全く動じている様子はない。
「……琴子……」
「ええ。大丈夫、縒くんと和泉くんが卵粥作ってくれてるの」
にっこり、と琴子が微笑む。珍しいほどの接客スマイルだ。ぞくりと風邪の所為ではない寒気が雨龍の背筋を伝ったのと、琴子がそっと死の宣告を囁いたのは、ほぼほぼ同時であった。
「何も心配いらないから眠っていて」
むしろ心配でしかないのだが。そうは言いたかったが、本当に珍しいことに琴子が雨龍を心配していたのだということが婉曲に伝わってきて、結局雨龍はいつものように口をつぐむことしかできなかったのである。
「愛してるゲーム、してみない?」
人差し指を立てて満面の笑みで言う縒を見て、雨龍と琴子は「は?」と珍しく口を揃えた。
「あれ、知らない? 愛してるって言い合って、照れた方が負けってゲームだよ」
「じゃあ俺からね。愛してるよ」
「……愛してる」
「愛してるわ」
「ぶっ」
「こ、琴子さん……そんな顔と声で言われても」
「駄目? じゃあ……」
「愛してるわ」
「一誠、照れたでしょう」
「照れてねえ」
「うそ。ねえ縒くん、見たわよね」
「うーん……俺からはノーコメントで」
「コスプレみたいねえ」
藤橋高校の入学式、慣れぬネクタイを少し緩めながら眉をしかめた一誠を見て、琴子はしみじみとそう呟いた。その隣では笑いを堪えようともしない縒が、腹を抱えて悶えている。
とりあえず縒の頭に拳を落としてから、一誠は不機嫌さを前面に出した顔で琴子を見る。口元に手を当てころころと笑う琴子は、一誠と同じく少し大きめの制服を身に纏っているくせに落ち着いたものだ。
確かに、つい先月まで学ランの中学生だったのだから似合わないのは当然だ。だが言うに事を欠いてコスプレとはどういうことか。同じ条件の自分も縒も棚上げして、一誠だけそう指摘されるのは気に食わない。
そう思いつつ、一誠はじとりと琴子を睨む。未だ笑みを崩さないままに、琴子はツィ、と一誠の背後にある姿見を指した。
「鏡、見てみなさいな」
「ああ?」
「社会人の成り損ないみたいに見えるんだよねえ、いっちゃんは」
「ネクタイ効果かしら」
「あとは髪もかなあ。社会人っていうか、ヤクザっていうか……」
「老け顔の所為よね」
「素直だなあ」