藤橋市中区の西方面。人気の薄れた商店街の片隅に、その喫茶店はひっそりと佇んでいる。
レトロな店の入り口に置かれた看板には、古い写植で「優麗」の二文字が記されていた。小さな出窓にはこれまた古いタイプの食品サンプルが二つだけ飾られている。コーヒーカップにたまごサンド、というスタンダードなそれからは、不思議と身近さが感じられた。
カラン、と落ち着いた音を立てるベルに紛れて、ひっそりと流れているのは落ち着いた曲調のピアノジャズ。席を探す客を迎え入れてくれるのは、BGMに相応しい雰囲気の壮年のマスター。
「いらっしゃいませ」
蓄えた白い鬚の下で穏やかに微笑む彼に勧められ、カウンター席に腰を下ろすも良し。連れがいるから、と窓際のテーブル席を選ぶも良し。どちらであってもマスターは快く注文を伺うことだろう。
「本日は、どういった怪異のご相談で?」
勿論、しれっと本題を聞き出すのは忘れずに。
*
初めて見る顔だな、と思いながら、高井はテーブル席をこっそりと眺めた。カウンターの一番端、バックヤードに一番近いこの席は、いつからだか知らないがすっかり高井の指定席になってしまっている。
つい先ほど入店したのは、二人連れの若い女だった。女、というより少女と言った方がいいかもしれない。恐らくこの春大学に上がったばかりの年頃だろう。
セミロングの茶髪の少女と、長い黒髪の少女。茶髪の方が今時流行りの格好をしているのに対して、黒髪の方は随分と落ち着いた服装だ。鞄や装飾品を見ても共通点は特に見当たらない。
そこまで観察してから、高井は自然に視線を手元の地方新聞へと移した。三十路も過ぎた不審な男が、いつまでも若い娘さんをじろじろと見ているのは問題しかない。
きっと、偶々見つけたレトロな喫茶店が気になって入ってみたとか、商店街で買い物をしていて歩き疲れたからとか、その程度の理由で入店したのだろう。そうに違いない、そうであれ、と願いながら少し冷めてきたブレンドコーヒーに口をつけた。
「本日は、どういった怪異のご相談で?」
が、マスターのそんな問いかけで高井はぴたりと動きを止める。注文を聞くついでに何を聞いているのか、あの人は。いや人であるかどうかは正直怪しいところなのだが、それは今大した問題ではない。
知らず知らず耳を傾けてしまっていた高井には気が付かなかったのか、
「高井くん」
ちょっと、と指先だけで呼ばれて、不意に顔をしかめてしまったのは仕方がない。嫌だ、と言いたかったのだが、困っているマスターの顔を見てしまえば溜め息をついて腰を上げるほかなかった。
この店の常連だからというだけではなく、マスターには個人的にも恩がある。断るという選択肢は、話を聞いてからでも遅くはないと思う程度には。
そうして、渋々といった具合で立ち上がった高井はテーブルに一番近いカウンター席に移動した。マスターに相談していた少女たちは、不意に現れた謎の男を怪しんでいるような目つきで高井を迎える。
そりゃ怪しいわな、と内心肩を落としながらも、高井は自分に出来る精一杯の笑顔を向ける。無論接客用、余所行き仕様のそれである。
「あー……横から急にすみません。私はこの店の常連で、高井という者です」
ポケットから取り出した名刺を差し出せば、恐る恐るといった様子で茶髪の少女が手を出した。座席から軽く腰を上げ、片手の指先でそろりと挟んだ瞬間にパッと手を引っ込める。野生動物のような警戒心である。
はらはらとその様子を見守っていた黒髪の少女に向けて、茶髪の少女が名刺を見せた。二人で覗き込んだ名刺には、端的に高井の職業が記されている。
「……探偵、兼……霊障研究家?」
「ええ。妖怪が原因の怪異ではなく、まさに幽霊が引き起こしたとしか思えないような事件の専門家です」
今回の件に適切かと、とマスターは言う。間違ったことは言っていない。言ってはいないが、盛りすぎだと思ってしまうのは高井が小心者だからだろうか。
妖怪に溢れたこの藤橋市という都市において、不可解な事件は八割方が「怪異」として片付けられがちだ。だがしかし、それだけで説明がつかない事件の中でいくつかの条件を定めたものは「霊障」とし、区別することが定められている。
怪異の専門家は数多く存在するが、霊障についてはそうではない。何せ、人間からするとよくわからない存在である妖怪たちにしても、霊障なんぞよくわからぬと抜かすのだ。妖怪ありきで今日まで至った現代日本では、到底真相解明など出来ないだろう。
誰もやらないのならば仕方ない、ということで高井は霊障研究家を名乗っている。半ばマスターに誘導された形ではあるのだが。
まあ実際のところ、普段の高井はただ探偵を名乗るだけの便利屋だ。霊障なんてそうそう行き当たるものではない。それこそ妖怪すらも避けて通るような、異界の更に崖っぷちのような危うい場所にでも訪れなければ、の話だが。
やがて、ごくりと一つ唾を飲み込んだ後、先に口を開いたのは茶髪の方の少女だった。
「……あたしはカンナ。こっちはルミ」
「ちょっと、カンナ……」
「いいでしょ。愚痴るくらい」
ルミというらしい黒髪の少女は、眉をしかめたまま横目でちらちらと高井を見ている。明らかに不審げだが、それが当然の反応だとは思うので高井も苦笑しかできなかった。
それに、と明るい色の髪を綺麗に整えた爪の先で弄りながら、カンナと名乗った少女は小さく呟く。
「誰も話、聞いてくれなかったんだし」
でも、とまだ踏ん切りがつかない様子ながらも、ルミはそれ以上何も言わずに口を噤んだ。人差し指に巻き付けていた毛先をピンと離し、メニューを眺めながらカンナはぽつりぽつりと語り始める。
「友達が、家出したの。一週間前くらいだったかな」
「」
「」
お互いの自己紹介がひと段落して、不意に沈黙が走った瞬間のこと。
「ますたー」
カラン、とベルが鳴るのと同時に、ぱたぱたと駆け込んできたのはピンクのランドセルを背負った少女だった。その勢いとは裏腹に、子供ながらの高い声はいつも通り平坦である。
おや、という顔をしたマスターは、にっこり笑って人差し指を立ててから、シィ、と小さく息を漏らす。
「おかえりなさい、凛音さん」
「ただいま。……おしごと?」
問いかけは、いつもと違う席に移動している高井に向けてのものだった。高井は適当に流しながらバックヤードを示す。早く手でも洗って裏に居ろ、と言いたいのがわかったのか、少女はぎゅっとランドセルのベルトを握り締めて顔をしかめた。
凛音(りんね)は、諸事情あって高井が面倒を見ている子供である。見ての通り基本的に表情筋が弱く、割と平坦な言動が目立つ生意気盛りの小娘だ。
今も高井の仕草に不満があったのか、んべ、と舌を出してからバックヤードに向かっていく。しっし、と甲を向けつつ手を振ってやれば、高井がいつも座る席のスツールを爪先で蹴ってからぱたぱたと裏へ引っ込んでいった。
マスターは困ったように苦笑しながらも、後ろの棚から長靴型のグラスを取り出している。大方、メロンソーダでも飲ませてやって機嫌を取る気なのだろう。流れるように高井の伝票に注文を書き足したところを見ると、サービスというわけではないようだが。
「……マスター、ケーキもつけといて」
「おや。では、試食でもお願いしましょうかね」
楽しげに皿を用意するマスターを見て、必要経費であると割り切ってから高井は今一度溜め息をついた。それからおもむろにテーブル席の二人へと向き直り、気を取り直して、とばかりに声をかける。
「失礼しました。それで、話の続きですが」
「え、あ……はい。どこまで話しましたっけ……」
黒髪の少女が、呆けたような
「……最初に」
*
「いかがでした?」
「……多分だけど、怪異じゃないだろうな」
「霊的存在ですねえ」
嬉しそうに言うマスター。まだそうと決まったわけではない、と心の中では訂正しつつも、高井はそれを口にすることはなかった。
「多分、動物系だと思う」
「それは何故?」
「人間的な……何というか、生臭い感じがしないんだ。もっと野生的で、シンプルで、圧倒的に強い印象だった」
「刑事の勘ですか」
「元、なんだけどな」
*
善は急げ、ならぬ、嫌なことは先に片付けるタイプである高井は、コーヒーを飲み終えるとバックヤードへと向かった。
「凛音」
帽子をかぶりリュックサックを背負った凛音がそこにいた。
「遊びに行くんじゃないんだぞ」
「わかってる。おしごと」
「みえないしきこえないし、わかんないのに」
「やっぱり霊障か、今回の」
「だから。だからいくの。わたしもいく」
「……水筒に麦茶詰めて来い。すぐ出るからな」
「うん!」
*
藤橋駅から西方に伸びるここ、七藤商店街には、やたらと妙な物を置く店が多い。
八百屋に霊玉があったり、花屋に聖水があったり、金物屋に独鈷杵と錫杖があったりする。勿論、それらは全て商品だ。誰が買うのかはわからないが。
「るつぼ」
古本屋のワゴンに置かれた三十センチメートルほどの如来像を見上げながら、ぽそりと低く呟いたのは凛音である。声だけではなく、顔と態度でも全力で呆れを示す少女に苦笑して、高井はこくりと頷いた。
小さな頭をぽんぽんと撫でる。む、とへの字に噤まれた口は不満げだが、本当に嫌がっているのなら頭を振って逃げ出すくらいいはするだろう。つまり満更でもないということだ。
「しかしお前、よく知ってたな」
坩堝(るつぼ)なんて、到底この年頃の子供が知っているとは思えない上、大人でも日常会話で使う言葉ではない。回りくどいがやんわりと褒めれば、凛音はふふんと鼻で笑いながら「じょーしき」と得意げに答えた。
平静を装いながらも機嫌が良くなったのは隠し切れないのか、ワゴンから離れた凛音は軽い足取りで高井の斜め前を歩いていく。るんるんとスキップでもしだしそうな歩調を眺めつつ、高井はこっそりと苦笑を漏らした。
生意気なガキであることは出会った頃から変わらないが、それなりに扱い方も慣れてきた。そういえば、凛音と暮らし始めてからそろそろ一年近く経つのか、と高井はしみじみ実感する。
あの頃に比べると、凛音は実に表情豊かになった。ついでに言うと口も悪くなってしまった。高井の影響が大きいのは否定できないが、一概に高井の所為だけとは言えないだろう。元から素質があったのだ、多分きっと。
そんなことを考えていれば、てこてこと前を歩いていた凛音がぴたりと立ち止まって振り返る。その視線は今の今まで上機嫌だったのを忘れるほどに不安げで、思わず何事かと一歩近寄った。
「高井」
年齢にしても舌足らずな彼女が、唯一明瞭に発音できるのが高井の名だった。か細い声が震えている。カチリ、と聞こえたのは歯の根が鳴る音だろうか。
「いる……」
たった二文字だけで十分なほどに伝わった。小さな爪が指す方向こそが、今日の目的地だとは後から気付いたことだ。
上着を脱いで、震えだした凛音を覆う。あたかも店から流れてくる冷房で気分が悪くなった娘を守るかのように。
「何が見えた」
「みえ、ない。きこえた」
「何が」
周囲に気取られぬよう端に移動して、屈み込みつつ凛音の言葉を拾い上げる。つい先ほどまでとは打って変わって真っ青になった顔を、周囲から隠すようにしてフードを被せてやった。
「ないてる、だれか。よんでる」
泣いている? しかも誰かを呼んでいる、となると、高井の勘は外れたか。動物霊だと思っていたのだが。
何はともあれこんな状態の凛音を連れて現場まで行くのは不可能だ。一度店に戻って預かってもらうのも手だが、今一人にするのは酷だろう。
そもそも正式な依頼でもないし、期限も定まっていないからそう急ぐ必要もない。
・一時撤退
*
翌日。