※注意
・魔法があるタイプのパロディ
・百年以上前にエースのご先祖←監♂、デュース→監♀だった表現があります
・どっちも未成立
・モブがいっぱいコレクション
・まあメリバ
(???)
音が聞こえる。
かん、かん、かん、きん――硬いものと硬いものを打ち合わせる音だ。とても硬くて、重くて、中身の詰まった――金属が叩かれる音だ。
かん、きん、かん、かん。音は不規則で、しばらく止んでいるかと思えば細かく繰り返し叩かれることもあった。こんこんこん、きん、かん、かん、かん――繋がっては途切れる音は澄んでいて、心地よくて、僕はその音色の中で微睡んでいる。
「――何の音?」
金属音の他に聞こえるものがあって、微睡んでいた意識がふっと浮上した。何の音? 何の音だろう、これは。
これは――
かじばのおとだ。
目を開いた。そこは鍛冶場だった。
粗末なつくりの家だった。石壁は荒く、土間に立つ幾本もの柱も傷だらけで、煤が張り付いて真っ黒に汚れていた。明かりは入り口から入る日の光と、奥にある炉のものだけ。真っ赤に燃える炉からはぱちぱちと音がしていたが、照明としては乏しく、光の届かない天井は煤を塗ったように黒々としていた。
「うわ、真っ黒……通気性悪そー……」
辟易する、と言いたげな声がした。太い柱の陰に誰かがいる。そちらを見ようとして、僕はその途中にもっと気に掛かるものを見つけた。
炉の傍の作業台。誰かがいる。台に覆い被さるように手元を見ていて、どうやら金属音はそこからするようだった。炉の傍にいるはずなのに、その姿は暗く陰ってよく見えない。
僕は惹かれるようにそこへ近付いた。明かりの傍に向かっているのだからよく見えるようになるはずなのに、人影はずっと黒い影のまま、手元の様子だけがだんだんと明らかになる。炎の赤に照らされて、橙に光る、小さな何か。
すぺーどだ。
「……スペード?」
ふたつのすぺーど。なまえのあかし。あれはぼくだ。
僕はぐるりと辺りを見回した。粗末なつくりの工房。十分な資金がないせいで、手入れが行き届かず、環境がよくない中、それでも作品を作り続けている。
知らなかった。知っていることすら知らなかったから、今まで思い出すことすらなかった。
ここはぼくがうまれたばしょだ。
デュース・スペードと呼ぶことにしましょう。
女の声がする。柔らかい声だ。高い天井にふんわりと響いて、余韻を残して消える。
衣装部屋のようだった。たっぷりした布地の女物の服がずらりと吊られている。細工の見事なチェストがいくつもあり、開けられた引き出しには、貴金属のきらめきがずらり並んでいた。
このスペードはきっと、あなたを作った職人が残したサインだから。子が親の名を受け継ぐように、あなたも作り手の名を頂くといいわ。スペードの2。デュース・スペード。あなたがわたしに名前をくれたのだから、わたしもあなたに名前を贈らなければね。
柔らかく微笑む女の顔が見えるようだったが、衣装部屋には誰もいなかった。壁にかけられた水銀の鏡に、ちらり白いヴェールが見えたような、それだけ。鏡の傍にあるチェストに、真円と三日月を頂く「僕」が置かれていた。
こんれいのひだ。
「へえ。めでたいね。花嫁さんのアクセサリーだったんだ」
独り言には応えがあった。振り返ると、衣装部屋の扉が少し開いている。声の主は廊下にいるらしい。
いや。しょゆうしゃは、ぼくをみにつけていかなかった。
「そうなの? もったいない。見栄えいいじゃん、でかい金色のペンダントなんてさ」
おっとのじっかからのおくりものが、ひすいのねっくれすだったんだ。あちらのかほうで、はなよめにおくるものだといわれたから、ぼくよりそっちがふさわしいってことになった。
「旦那の実家かー。確かにちょっと勝つのは厳しいな。でも残念! ぜってーお前つけてった方が美人に見えたのに」
声が誰もいない衣装部屋に軽やかに踊った。若い男の声だった。何でもない風を装って、僕を慰める声だった。
いいんだ。どっちにしろ、ぼくはいきたくなかった。
「何で?」
いちばんにすきだとおもって、なまえをささげたのに、しょゆうしゃはぼくをえらんではくれなかったから。すきなひとがだれかにいちばんをささげるところを、みたくなかったから。
所有者は人間であり、僕は「器物の妖精」である。埋めがたい種族差は、僕と所有者の間に常に横たわっていた。
にんげんは、にんげんとむすばれる。そうしないとつづいていけないから。つづいていかないと、にんげんはほろんでしまうから。そしてぼくらは、にんげんがいないときえてしまうから、どんなにいやでもみおくらないといけない。
「……奪ってやろうとか、思わないの?」
声の主も、たぶん駄目だろうな、と思っているのがわかる声だった。そしてその通りに僕は否定した。
ぼくらは、にんげんのいちばんを、うばえるようにはできてない。それにしょゆうしゃは、なんじゅうねんかしかいっしょにいられない。だったらしょゆうしゃのかぞくが、ちすじをつないでいくところを、みているほうがいい。
「しんどいな」
しかたない。すきになってしまったから。
廊下の先、壁の向こうから、祝いの歌が聞こえる。
愛しい所有者が誰かの妻になった祝いだった。
グリーンの壁紙が埃で煤けている。据えられた燭台の細工は見事だが、装飾の隙間や天井の隅には蜘蛛が巣をかけて、その糸は埃でうっすら浮いていた。汚れが拭われない絨毯には皺が寄っていて、どこからか入りこんだ枯れ草が絡みついている。
「なんかボロくない? 造りはよさそうなのにさ」
廊下の曲がり角の向こうで誰かが言った。少し距離があるのに声ははっきりと届いた。
たぶん、さいていげんのていれしかしてないんだ。ひろいやしきを、じゅうぶんそうじするだけのにんずうが、もういないから。
「とっとと家売っ払っちまえばいーじゃん」
そういうわけにもいかないんだろう。あたえられたりょうちにせんぞがたてた、たいせつなやしきだ。
「その屋敷を維持する力がねーのに、権利だけ大事に抱えててもね」
姿も見えないのに、声の主がやれやれと肩を竦めるのが目に見えるようだった。
僕はその声とは逆の角を曲がった。覚えのある廊下だった。覚えがなくても、反響して届く啜り泣きの声に従えば、きっと迷うことなく辿り着けた。
両開きの扉。飾り彫りの意匠は巣立ちをする鳥。子供部屋を示すものだ。扉は細く開いていて、中の物音が廊下に漏れている。女の声だ。二人分の泣き声。
「入らねーの?」
角の向こうから声がした。僕が扉の前で立ち尽くしているせいだ。
ひつようがない。
「慰めてやれよ」
しかくがない。ぼくのせいだ。
二人は別に、人目を憚って声を抑えているわけではなかった。もうこの屋敷に人はほとんどいない。ただ単に、大声で泣くほどの気力が、二人にもう残っていないだけだった。
ごめんなさい、ごめんなさい、母様を許して、できの悪い娘でごめんなさい、何もできなくてごめんなさい、ああ、ああ、なんてこと、どうしてこんなことに――
二人悲しみに沈んで、縋り付き合って泣く母と子の声を、僕はただ立ち尽くして聞いていた。
僕が何もしなければ起こらなかったことだ。
僕がよけいなことをしたせいで起こったことだ。
そもそもこの屋敷の人間は僕を知覚していない。
二人に会うとか、まして慰めるとか、そんなことをできる立場ではなかった。
「本気で好きな人は追いかけらんねぇのに、そんなでもないやつを追っかけてポカするとか、お前ほんと生きるのヘッタクソだよね」
角の向こうからの声に肩を落とす。所有者を、その家族を、慕っているのは本当なのに、いつだってうまくやることはできなかった。誓って害意など持ち合わせていないのに、どうしてか毎回裏目に出る。
「まぁ、でも」
廊下の角の向こうから、するりと軽やかな声が滑り込んだ。
「お前のその真っ直ぐさは、諸刃だけど、美点だよ。かっこいいと思う」
声はそのまま僕の深くに滑り込んで、俯いていた顔を上げさせた。振り返ると、角から手だけが覗いていて、ひらりと振られてすぐに引っ込んだ。
ぱちぱちぱち。薪が爆ぜる音。大きな暖炉がある家だった。掃除の手は行き届いているが、蒐集癖のある家人のせいでどこか雑多な雰囲気があった。
そのうちの一室で子供が勉強をしていた。大きな机に本やノートを広げている。背丈が足りなくて、椅子に腰掛けると足が浮いていた。一番手前に広げているのは教科書らしく、いちいち文章を読み上げるから、何を勉強しているのかわかりやすい。
……この年熱砂の国の天文台で、ナブラ・ハーキムがワジワラ太陽系の第三惑星に同様の衛星があることを発見しました。これらの発見が、現在広く使われている「リブラム天星図」作成の基礎を築いたと言われています。……
「この頃の子供ってそう習ってたんだ」
戸口の向こうで若い男の声がした。声は問題なく聞こえるが、姿はすっかり隠れていて、服の裾すら覗かない。遠目で見た白い手と、声だけが僕の知る男の姿だった。
「もうリブラムって使われてねぇんだけどね」
そうなのか?
「うん。望遠鏡の精度上がってっからね。衛星軌道が楕円のとことか、長く星系内に居座ってたせいで衛星扱いされてたけど実は彗星だったやつとかが修正されてる」
すいせいがえいせいにみえるなんて、ありうるのか?
「実際あったからリブラム廃棄されてんだろ。おかげで占星術界隈は大変だったってよ。オレはあんまり興味ないけど」
どうでもよさそうに語る男の声を他所に、子供の声は延々と続いていた。
……彼は山脈を越え、立ち寄った村々で食事と宿を乞い、十二日で前線基地に到着しました。書簡は司令官に渡され、開戦まであと三日と迫ったところで中止の報が兵士達に届けられました。この歴史的偉業を称え、現在に至るまで多くの戯曲や歌唱曲、小説などが作られています。……
「これも今じゃでっち上げってことになってんなー」
うそなのか?
「嘘っつーか、まぁ停戦の書簡が届けられたのは事実だろうけど、その前に何らかのやりとりがあっただろうってのが今の通説。いくら重要書類だからって、一兵卒が届けたもんをその日のうちに司令官に届けて、幹部連中の会議もなしに停戦即決とか現実的じゃねーよなって話」
よくわからないな。
「何を事実とするかなんて、時代によって違うってことでしょ」
子供の読み上げを聞きながら、男の声がそれにいちいち注釈をつけた。これは捏造、これは誤解、これは今では別の人がやったことになってる、ここはオレも同じこと習ったな、……
延々教科書と向き合って勉強する子供も、それが自分の知識とどう違うのかきちんと把握している男の声も、どちらも僕にとっては遠くて眩しかった。ぐんぐん知識を吸収して、それを自分の血肉に変えていく作業。
そういうふうに生きてみたかった。
そういうものになりたかった。
そうできるならきっと、間違えて誰かを傷つけるなんてしないだろうから。
暖炉のある部屋で子供が頭を撫でられている。こちらに背を向けている大きな背中は父親だろう。重たい壮年の男の声が、子供の頭のてっぺんから降り注いだ。
よくやった。この調子で、これからも励みなさい。
興奮して高い声で「はい」と叫ぶ子供は、頬を真っ赤にしてふくふくと笑っていた。
雑多になるのは仕方ない。この家は物が多いのだ。
宝石商を営んでいた所有者の父親は、対価を金銭ではなく物品で受け取ることも多く、店舗部分から溢れた品々が家屋には所狭しと並んでいた。だから所有者の部屋にも、銀色に光る剣やら、趣味の悪すぎる髑髏型の青いランプやら、あまりにも立派すぎて壁にかけられている絨毯やらが押し込められていた。
そうやって僕らは所有者の元に集った。いつも誰かしらが所有者の傍にいて、彼女を見守っていた。ずっと。ずっと。
たとえば彼女がどこかに嫁入りしたとしても、ずっと見守っていくつもりだったのだ。
「独り占めしようとか思わなかったの?」
薄く開いたドアの向こうで、ちりんちりんと音がする。廊下には楽器類が並べられていたはずだ。鉄琴かハンドベルでも鳴らしているのかもしれない。
しょゆうしゃは、びょうどうだった。ぜんいんのことがすきで、とくべつなだれかはいなかった。
「それでもさ。選ばれたいって思うのは自然なことじゃないの」
しょゆうしゃがようせいをえらばないのは、いつものことだから。みんなしょゆうしゃがすきで、みんなあきらめてた。かのじょはぼくたちを、ゆうじんとしかみてくれない。
彼女が誰か特別な一人を作らないのは、「器物の妖精」に限ったことではなかった。彼女は面倒や厄介事に進んで首を突っ込んでいく方で、過程で様々な人と知り合ったが、その中には彼女を特別に扱う人間もいた。けれども彼女は、その尽くに「友人」としての関係のみを要求し、他の関係を求めることはなかった。
かのじょがそうのぞむなら、ぼくはかのじょのゆうじんだ。ゆうとうせいは、だれかにめいわくなんてかけないんだから。
「ほんとにそう思う?」
ドアの向こうから鋭い声が斬り込んできた。僕は咄嗟にドアの方を見たが、声の主の姿は見えない。
「目標のために努力して、努力し続けられて、目標を達成し続けて……だっけ。優等生の定義付けはまぁいいとして。なぁ、お前、それだけの生き物になるつもり?」
僕は思わず後退った。閉じきらないドアが大きさを増して、僕にのし掛かってくるような錯覚を覚える。ドアの向こうの男の声は、それだけの「圧」を感じさせた。
しかしほどなく、「圧」は幻のように消え去った。僕が安堵と困惑を持て余す間に、いつもの軽やかな男の声が、ドアの向こうから流し込まれた。
「目標決めて努力して、走って走って走って、さぁ。……そんなんいつまでも続くわけないじゃん。肉体の疲労とは無縁の『器物の妖精』だって、ココロが疲れちゃうことくらいあるでしょ」
あんまり頑張らなくていいよ、と声は言った。ろくでもない悪魔の囁きでしかないのに、だからこそその声は柔らかくて優しかった。
「いろんなやつを参考にしたっつってたじゃん。そいつらはさ、ほんとに四六時中優等生だったの? サボったり、失敗したり、叱られたりしてたんじゃねーの。たまにはさ」
声に導かれるように思い出したのは、一人の子供のこと。僕が最初に見た「優等生」。
優秀だったけれど、同時に腕白な子供でもあった。父親の蒐集物を並べ替えて遊んだり、おやつをつまみ食いしたり、チェストやクローゼットを伝って天井まで登ろうとしたりして、叱られたり鞭で叩かれたり廊下に立たされたりしていた。学業を褒められるのと同じくらい、何かをしでかして叱られていた。
笑って、落ち込んで、拗ねて、真剣な顔をして。くるくるとよく表情の変わる、子供らしい子供だった。両親と使用人と、たぶん教師や友人にも、愛されている子供だった。
でも、ぼくは、ゆうとうせいにならないといけないから。ほかのようせいは、ぼくよりうまれがおそいようせいでも、ぼくよりずっとよくできるから。もっとがんばらなくちゃ、そうでなきゃ。
「また失敗して誰かを傷つけるから?」
舌が空回って声が出なかった。その通りだった。その通りだったけど、他人に指摘されるのは思ったよりも堪えた。黙ってしまう僕に、声は呆れを隠しもしない調子で言った。
「ほんとバカだよねえお前」
うるさい……わかってる。
「そーゆーとこがバカ。そうじゃねぇよ。努力の方向性を間違えるなっつってんの」
どりょくの……ほうこうせい。
声は呆れていたが、責めることも嗤うこともなく、滔々と語り始めた。僕のがむしゃらな歩調を弛めさせ、道を歩きやすくして、行く先を指し示す声だった。
「お前はさ、自分ではこれでいいって思ってるかもしれないけど、だいたいすげー効率悪い方法取ってんだよ。それでも突き進んでって最終的に達成するのはすげーと思うし、その頑固なとこはある程度美点なんだろうけど。でもお前、前しか見てなさすぎて、途中でブレーキかけるってことができねぇじゃん」
その通りだった。到達点に向けて、自分では最短だと思える手段を採っているのに、大抵それはひどく遠回りで困難な道だった。それでも自分で決めた道だとひた走っても、走りきるまで、僕はそれが正しいか間違っているかの判断がつけられない。気付くのは取り返しのつかないところまで突き進んでしまった後だった。
「もうね、お前が自力で修正かけるってことはできないって思う。お前の才能は真っ直ぐ進んでくことで、立ち止まって考えるって方向にはもってけねぇだろうし。じゃあどうするかっつったら、外付けでブレーキつけるしかねぇじゃん?」
周りを頼れと声は言う。急ぎすぎているときは肩を引き、進む方向が間違っていれば修正し、目が曇っていればそれを吹き飛ばしてもらえるよう、自分以外の誰かを利用しろと。
「なんか始める前に相談する。走り始める前に出発点とか方向性とか指摘してもらって、途中で経過報告もね。アドバイスはちゃんと聞くこと。少なくとも、取り返しつかなくなるところまで突っ走っちゃう回数は減るでしょ」
本当にそうできるなら、確かに僕の間違いは減るだろう。けれども僕は、自身の融通のきかなさを知っているから、声を素直に聞き入れることはできなかった。だってそれは、きっととても面倒くさいことだ。
そんなてまのかかること、してくれるやつはいないだろう。ぼくはこうときめたらかんたんにはゆずらない。よかれとおもっていってくれても、きっとわずらわしくてききいれないだろう。
「頑固さに自覚があって何より。だから方向性の話なんだって。お前がまず、突っ走る前にやるべきことは、そういう物好きを一人でも確保しておくことなの」
「器物の妖精」の世界は狭い。基本的に所有者の住まいから外には出ないからだ。口をきく相手だって所有者だけの場合が多いし、よくて他の妖精が一人いるかどうかくらい。この家は異常だった。二桁に上る妖精が住む家など、他に聞いたこともない。
そんなにかんたんにみつかるものだろうか。
「さーね。でもま、世の中広いし、一人くらいそういう物好きがいたりするんじゃない? 案外近くで見つかったりするかもよ」
僕の疑問に軽い調子で返して、ドアの向こうの声がくすくすと笑った。
「大丈夫、お前頑張ってるもん。直接目標に辿り着けなくっても、お前のそういうとこ、いいなって思うやつはいるはずだからさ」
窓が広くとられた、オフィスビルの一室。壁にホワイトボード、中央に島を作った机、部屋の隅に余った椅子が積まれている。たくさんある小会議室の一つだった。
「え、ここ? すっ飛ばしすぎじゃない?」
半開きのドアの向こうから戸惑う男の声が聞こえる。僕はそれに構わず机の一つの前に立った。
たとえ名札や印をつけずとも、繰り返し同じ行動を取っていれば、自然と定位置のようなものができてくる。彼女の定位置はここだった。ドアを正面から捉えられる位置。微かに香水の香りがするような気さえした。
ふんわりと、柔らかい線を描く輪郭。声は甘く、足取りは軽く、そして誰かの隣に立てるだけの能力も持っている。申し分のない女性だった。僕がそう思うのだから、周りの誰もがそう思うだろう。
かのじょはきっとえらばれる。
「そうとも限んないじゃん」
ほんにんにえらばれなくても、きっといえにえらばれる。よめにむかえるのに、もうしぶんのないおんなのこだ。おっととなるひとに、いえにえらばれるまえにであえて、こいができたのだから、かのじょはきっとこうふくだ。
本人の都合に関わりなく、ものの売り買いのように嫁がされることも珍しくない世界だ。当代は随分風通しがよくなっているようだが、それでも変わらないものはあるだろう。現在と将来の家のために、ふさわしい男と女を娶せること。所有者はそれに逆らえない。そんな勝手は許されない。
でもやっぱり、どうしても、みたくないとはおもうから。だからにげだしたんだ。かのじょはずっと、にげずにそこにいたのに。
ドアの正面。入ってきた誰かの顔が、すぐ目に入る位置。ここに来る度、彼女はきっと、期待と失望に胸の内を荒らしていただろう。
今日こそは。かわいいって褒めてくれるかもしれない。すごいって言ってくれるかもしれない。好きになってくれるかもしれない。
期待に膨らんだ胸は、毎回仕事の話しかしない所有者によって的確に萎まされていた。それでも彼女は、毎回この会議室に来て、輝く瞳でドアを見つめていた。
あなたが好きですと、その輝きが言っていた。
すごいことだとおもう。どんなになびかなくても、かのじょのこいはしななかった。きっといつまでもすきでいるだろうし、おっととしあわせになるためにぜんりょくであたるだろう。いいよめになる。しんせきえんじゃもあんしんだ。ぼくだって、あんしんだ。
僕はもう所有者を守れない。その義務を、契約を放棄した。元々大した仕事はしていなかったから、所有者の生活は変わらないだろう。
変えるのは彼女だ。二人で生きていくことになるのだから、お互いの価値観や習慣をぶつけ合って、新しい生活を作り上げていくに違いない。それはきっと幸福を積み上げる作業で、想像するだけで辛いから、僕はそれを見守るのではなく逃げ出すことを選んだ。
結果もう二度と所有者に会えないとしても、それがずたずたになりそうなほど辛くても、幸福な二人を見続けているよるはマシだと思った。