納得できません、とその隊員は言った。
「女王の心臓」本部の廊下。第一会議室でのミーティングが終了した直後、参加した隊員たちがまだ半分ほど会議室に残っていたときのことだ。僕は部屋から廊下に出たばかりで、前を行く参加者たちが廊下に留まっているのに苛立ち、注意しようと口を開いたところだった。
廊下の雰囲気は張り詰めていた。よりによって、その隊員が視線を向けているのがローズハート局長だったからだ。
リドル・ローズハート。異例の若さで「女王の心臓」の局長の座に上り詰めた、僕たちを束ねる「女王」だ。外見は細身で小柄な青年でしかないが、その実高位の天使を従える強力な悪魔召喚師である。並の輩では近付くことすらできず、その身を焼かれて終わるのだとか。秩序と規律を誰よりも重んじ、破る者には一切の容赦をしないという。そのローズハート局長に、いち隊員が抗弁するというのは異例の事態だった。
傍らのクローバー総隊長が口を開こうとするのを、ローズハート局長が手を上げて留める。資料を手に歩きかけていたローズハート局長は、隊員に向き直ってその顔をひたと見詰めた。
「……キミが納得できないというのは、先日の辞令の件だね?」
「はい。産休の後、関連部署に異動、現隊への復帰は認められないとは、どういうことですか。はっきり理由を説明して頂かなければ納得できません」
隊員は女性だった。別の隊の所属なので人となりは知らないが、よい動きをする隊員だったと記憶している。産休ということは妊娠しているのか。ローズハート局長に向かってぴしりと姿勢を正し、敬礼する姿からは、とてもその体に命がもう一つ宿っているとは思えなかった。が、実際にローズハート局長が休暇を認めているのだから事実なのだろう。女の人とは不思議な生き物だ。
「自分は最前線で戦うことを、『女王の心臓』に所属した際に希望しました。自分のような子供を二度と出さないと決めたからです。その決意は今も変わりません。今自分が命を宿しているからこそ、この子に悪魔の脅威など毛ほども感じさせまいと強く思います。どうか局長には、辞令の再考をお願いしたく存じます」
声音は硬く、決意に満ちて、敬礼する腕も背筋も張り詰めて揺らがなかった。僕からは隊員の表情は窺えなかったが、きっと爛々と輝く瞳をしているのだろうと思った。
ローズハート局長は、しばらくの間、その瞳をじっと見詰めていた。睨めっこが続く中、周囲の隊員たちは固唾を呑んで見守り、未だ会議室から出られずにいる隊員が困り果てていた。
ふ、と息を吐いたローズハート局長は、静かな声で言った。
「ボクはDケースの遺児だ。知っているね」
隊員ははい、と首肯した。ローズハート局長が、Dケース――悪魔による災害の被害者であるということは、わりとよく知られた事実だった。その内容が「肉親を悪魔に殺された」というものであることも。だからこそローズハート局長はこれほど早く「女王の心臓」のトップになれたのだと、平隊員たちの間ではもっぱらの噂だった。悪魔への復讐心が、かの人の原動力なのだと。
頷いた隊員を見て、ローズハート局長は「では」と続けた。
「それが、実の母親を目の前で悪魔に殺されたからだ、ということは?」
ざわ、と周囲が息を呑むのがわかった。僕も同じ反応をしたからだ。さざめきは止むことなく、思わず敬礼を崩した隊員と、それをひたりと見据えたままのローズハート局長を包んでいた。
「……っ、いえ、存じ上げませんでした……」
「では今知るといい。ボクは悪魔を憎む。ボクは悪魔によって、親を殺された子が、子を殺された親が、大切な誰かを殺された誰かが存在する事実を憎む。そしてその事実を、この手で消去したいと望んでいる。だからボクは悪魔召喚師となったし、対悪魔戦闘組織として『女王の心臓』を統制・発展させてきた」
ローズハート局長は、誇り高く、胸を張って宣言した。戦闘職である「女王の心臓」において、ローズハート局長の体は頼りないほど小さかったが、補って余りあるほどの迫力と力強さを感じる姿だった。
傲然と顎を上げていたローズハート局長だったが、しかしふっと目を伏せると、驚くほど柔らかい微笑みを浮かべた。蔦と棘に守られた小さな薔薇が、ふっとその蕾を解くような、ささやかで嫋やかな笑みだった。
「――そしてわかってほしい。その対象は決して、キミを例外とはしないことを。ボクはキミを悪魔への矛として迎え入れた。その選択を間違っていたとは思わない。キミはこれまでにたくさんの悪魔を倒し、それらが将来手にかけたであろう数多の命を救ってきた。しかしその戦績と、キミが今や母親であるという事実は、決して帳消しになどできない重要なことだ」
ローズハート局長は踏み出して、隊員の手を下ろさせた。今やすっかり敬礼の型をとれなくなった中途半端な手が、ローズハート局長の手で、そっと握られる。
「ボクは親が子を、子が親を、置いて行かざるを得ない悲劇を憎む。それを回避するために全力を注ぐ。たとえキミがこの先どれほどの悪魔を狩ったとしても、たった一度の過ちで、キミの子は唯一無二の母親を亡くすことになる。ボクはその喪失を、この魂にかけて、決して認められない」
隊員の手は支給のグローブで覆われていた。ローズハート局長はグローブを外し、直接手と手を触れあわせた。隊員の手は日焼けと傷でまだらになり、ローズハート局長の白く滑らかな手と比べるとその差が際立ったが、小柄なローズハート局長と比べても尚その手は小さかった。
「キミは母親になる。キミが守るべきは、将来犠牲になるかもしれない見知らぬ誰かではなく、その手に抱える大切な命だ。その命を守ること、己の手で守り続けることに、全力を注ぐといい」
キミの復帰は認められない。おわかりだね。
それこそ親が子に言い聞かせるように、優しく柔らかい声だった。しかしその声に通る鋼の意志に、隊員は頷くより他になかった。
ぴしりと伸びていたはずの背は俯いて曲がっていた。周囲のざわめきの中、ローズハート局長は、慈母のごとく嫋やかな笑顔で隊員を見詰めていた。
「やっぱりローズハート局長はすごい人だな!」
周りと時間をずらした休憩室で、僕は先程の一幕をエースに語って聞かせていた。エースはソファに寝転びながら「ふーん」と言うだけだったが、相槌のタイミングは的確なので聞いてはいるらしい。僕の方もエースが「そうだなすごい人だな!」なんて言うやつではないことを知っているので、好き勝手喋っているだけだ。
「本当に、優しくて、的確で、優秀で……すごい人だ。あの人が局長をやってるときにここに入れて運が良かった。きっと間違いないって信じられる。……そんな人が上司にいるところに入れて、本当によかった」
両の拳をぎゅっと握る。自分のためにばかり握ってきた手だった。他人を殴りつけ、圧倒し、興奮に酔いしれるためにばかり鍛えてきた手だった。違うものになろうとして、捨てきれないことに絶望して、それでもなんとかただの暴力装置に成り下がるまいと歯を食いしばってきて、辿り着いたのがここだった。
『ボクは悪魔を憎む』
『大切な誰かを殺された誰かが存在する事実を憎む』
『それを回避するために全力を注ぐ』
きっぱりと、確信を持って、己の進むべき道を定めた人の声だった。その強さにびりびりと背筋が痺れたし、この人のために奮える力なら悪くないと思えそうだった。僕はこの手を、この力を、確かに正しい方へ向かわせることができると、信じられる声だった。
エースは相変わらず気のないそぶりでソファの縫い目をかりかり引っ掻いていたが、僕がローズハート局長のセリフを反芻してじーんとしているのを見て起き上がった。話は終わりと判断したらしい。僕ももうこれ以上は言葉にならないので、正しいといえば正しい。
「で、その優秀な上司サマと一緒に初任務なんだっけ? やる気空回ってドジ踏むなよーデュースくん」
顔をしかめたのは、上から目線の釘刺しが不快だっただけではない。次の任務の内容を思い出したからだ。
研究所の摘発。今回の目標は「完全消去」だ。施設があったこと、研究内容のすべて、およそあらゆる物事を「なかったこと」になるまで殲滅する。関わった人間は「処理」が命じられていた。その徹底のために、ローズハート局長とクローバー総隊長までが直接指揮を採ることになっている。
「よかったじゃん。何にも考えずに突っ込んでけるんだから、デュースには有り難い任務でしょ?」
「……そうでもない」
右の拳をぎゅっと掴む。できればもっと、気分のいい任務で、ローズハート局長のお役に立ちたかった。こんなのはただの我が儘なのだろうけど。
そもそも、ある一人の男が己の両足を取り戻したいと願ったことからこの話は始まる。
男は生まれつき両膝から下がなかった。母親の腹の中にいた時点で、両足の細胞がうまく分裂しなかったのだ。
その状態で難関大学を首席合格するまでに至ったのだから、男の才覚と努力が推し量れようものだ。移動という日常動作に多大なハンディキャップを抱えながら、男は飽くことなく勉学に励んだ。
合格したのは医学部。メインの研究テーマは再生医療。男の目標は、母親の体に置いてきてしまった自分の足を取り戻すことだった。
そうは言っても、生まれたときからなかった器官を獲得しようと言うのだから、研究は困難を極めた。再生医療は昨今注目されるテーマだったが、それはあくまでも病気や怪我で失った体を取り戻すことを目的としていて、先天性の欠落までをカバーしようという者はほとんどいなかった。賛同者は少なく、しかし諦めなかった男は、細々と研究をし続けていた。
貪るように知識を求めた男は、どういう道筋を辿ったのか、この世に悪魔が実在することを知った。悪魔の中には、盲いた目を開かせた話や足を無くした者を歩かせた逸話を持つものがいる。参考にするつもりだったのか、男は熱意をもって悪魔について調べ始めた。
悪魔は人間界に存在するためにマグネタイトを使う。人間はマグネタイトを生成できる。つまり、このマグネタイトを利用して体を作れれば、今はない器官を補うことができるのでは?
男の研究は悪魔に傾いた。表の学会から追放されても男は研究をやめなかった。きっと真っ当に成功すれば、様々な分野でその技術は活用されたことだろう。
しかし長く続く研究の日々は、男の箍を外してしまっていた。
無闇な悪魔の召喚、契約、悪魔と人間の掛け合わせ、マグネタイト生成量の増減のための人体実験、胎児の頃から始まる薬物投与、それから、それから――
研究所は魔界よりも濃い闇の坩堝となった。
僕たちの今回の任務は、この研究所を、存在しなかったことにすることである。
任務は粛々と実行された。
研究所は、緩やかな山の斜面に並ぶ住宅街の傍、少し奥へ分け入ったところに建てられていた。何かの工場の跡地を買い取って利用しているらしい。かつては大型車両が並んでいたはずのスペースは、手入れもされず下草や低木が伸び放題で、住宅街の側からは容易に建物が窺えないようになっていた。
手筈通り、研究所のセキュリティを切って、相手の体制が整う前に制圧する。「女王の心臓」構成員以外の動くものは皆敵だった。全員が遠慮なく進み、壊し、殺した。
廊下を歩いていた研究員。
食堂に勤めていたと思しき中年男性。
警備員代わりの悪魔。
培養槽の中で液に漬けられていた、既に人ではなくなったモノ。
コンクリートの壁で区切られただけの部屋の隅で固まっていた小さなモノたち。
記憶媒体と思われるものは、解析班がコピーをとった上で消去し、水をかけて雷を打ってから焼いた。部品の一つすら無事に残すまいとする徹底ぶりだった。このコピーは、将来似た研究が発見された場合、実験体の対処法模索のためなどに使われるものだ。「女王の心臓」奥深く、電波の届かない部屋のパソコンに、ひっそりと保管される。研究の活用や発展は認められていない。
僕は解析班が滞りなく仕事を進められるよう、離れた部屋まで悪魔を誘き出して殺した。左の瞼が腫れ上がり、右の眼球が大小合わせて十を下らない、いびつな顔かたちの実験体だった。両肩と腰の再生器官を潰さなければいくらでも手足が生えてくるやつだった。手足が潰れ、古いものを押しやって再生する度に、背筋をかきむしるような不快な叫び声を上げていた。
たぶんそれは悲鳴だったから、攻撃方法の問題で一撃で楽にさせるのが難しい僕は、とどめをエースに譲った。
「はい、おしまい。デュース怪我は?」
「問題ない」
「はい嘘。さっき左肩殴られてたじゃん」
「痛くないんだ、本当に」
視野がぎゅうっと狭くなり、聴覚が様々な音を拾って、肌の感覚は鋭いのに手足を動かす速度が鈍い。僕の顔を覗き込んできたエースがチッと舌打ちして、僕の腕を引いて無理矢理廊下に出た。
「アドレナリンで痛覚鈍ってるだけっしょ、馬鹿じゃん。ちょっと医療班まで下がろ」
「いや、これくらいで、負傷扱いには」
「うまく動けてねーのバレバレ。女王サマからのお達しは『終了時刻を超過しても徹底的に』でしょ? ちょっと休んだくらいじゃ大して変わんねーって」
まだまだ先は長いんだから。おそらくわざと温度を抜かれた声で言われて、僕は力を抜いた。
怒号と銃声と破壊音は未だ続いている。任務の終了は、おそらくまだ遠い。
作戦終了はまだ日が高い時刻だった。建物の外に出て、目を焼く光に顔を背ける。あまりに正しく平等な太陽の光は、今の僕には少し眩しすぎた。
外には重機がいくつも並んでいた。これから建物そのものを解体し、悪魔がいた痕跡を丁寧に消していく。「研究所などなかった」「最初から空き地だった」という事実を上書きするのだ。あってはならない研究所は、「はじめからなかった」ことにされる。そこまでしてようやく、本当に任務が終了することになる。
ただの戦闘班である僕の仕事はここまでだ。僕はエースを一旦COMPに戻し、帰還するため機動車両に乗ろうとした。
「――そこで何をしている!」
鋭い声が響いたのはその時だった。戦闘終了が言い渡され、気が緩んでいた隊員たちがざわつく。僕はタラップを蹴って踵を返し、声のする方に走った。あり得ないことではあるが、研究員の一人が脱出したのかと思ったのだ。
しかし僕が駆けつけたとき、そこに並んでいたのは隊員たちの困惑した顔だった。
「……こ、ども?」
小銃を向けられて震えているのは、どう見ても八歳前後の少女二人だった。体のあちこちに草や枯れ葉がついていて、どこかの藪でも通り抜けてきたかのようだ。寄り添い合って震える少女たちの腕の中に、白い毛皮のウサギが収まっている。
(違う、あれは、悪魔か……!)
イナバシロウサギ。神話の時代、サメを騙した仕返しに生皮を剥がれ、痛みに呻いていたところを通りすがりの若者に助けられた、という逸話のあるウサギ型の悪魔だ。よく見ればその毛皮は均一ではなく、つぎはぎに色の異なる皮が宛てられていることがわかる。おそらくあの少女たちは、白くてふわふわした生き物を触りたくて追いかけているうちに、いつの間にか敷地に入りこんでしまったのだろう。
震える少女たちを前に、隊員たちは困り果てて顔を見合わせた。敷地内の人間はすべて「処理」するよう命令が下っている。しかしこの、明らかに迷い込んでしまっただけの子供たちに、その命令は適用されるのか?
自問した僕の答えは「されてたまるか」だったから、迷いつつ小銃を構えたままの隊員を押しのけて少女たちに近付いた。急に近付いてくる、黒ずくめで長身の男に怯えて、二人は一歩後退る。無理もないことだった。僕だって、こんなに小さな女の子を相手にどうするのが正解かなんてわからない。エースをCOMPに戻したことを後悔したが、今呼び出してしまえば「何もないところから謎の男が出てきた」ことになってしまい、ますます怯えられてしまうだろう。僕が自力でなんとかするしかなかった。どんな強力な悪魔を前にしても、この問題より困難であることはないだろう。
膝をついて、二人の方に手を差し伸べる。少女の肩がびくんと震えた。
「えっと……その、すまない。怖がらせた。大丈夫だから」
何が大丈夫なのかさっぱりわからない。浮かべた笑顔は自分でも下手くそだとわかる仕上がりで、寄り添って震える二人は僕に怯えた目を向けるばかりだった。何を言えばいいのかわからず、うっかり舌打ちをしそうになって危うく堪えた僕の背に、凜とした声が投げつけられる。
「――そこで何をしておいでだい?」
ザッ、と周囲の隊員たちが敬礼した。僕は目の前の子供たちを放置していいものか迷って出遅れた。立ち上がるかどうか迷っているうちに、僕の背後で踵の音が静止する。
「この二人は?」
「はっ……先程急に現れた民間人です。悪魔に誘われて迷い込んだものと思われます」
先程小銃を構えていた隊員が代表して発言する。そうか、とローズハート局長が返答し、一拍沈黙があった。
「何をしている」
「は……」
「速やかに処理しろ。既に作戦は次の段階に移行している。前行程が終了していないのは望ましくない」
もう一拍沈黙があった。誰もその指示を理解できなかったからだ。沈黙に首を傾げているのはローズハート局長だけで、黙り込む僕たちにもう一度「速やかに処理を」と命じた。誰も答えない。誰も動けなかった。二度繰り返されても、とても受け入れられる内容ではなかったからだ。
今、この人は、何を言ったのか。地面に膝をついたまま、中途半端に振り返った形で、僕もまた理解できず固まったままだ。
「……どいつもこいつもカカシのように突っ立ったままか。仕方ない、ボクが処理する。キミたちの命令違反については、帰還後に追及するのでそのつもりで」
ゆるく首を振ったローズハート局長は、そのまま真っ直ぐ子供たちの方へ歩き出した。僕は咄嗟に立ち上がってその進路を塞ぐ。僕より目線が低いローズハート局長が、苛立った表情で僕を見上げてくるのを見て、僕は信じられない事実をなんとか呑み込もうと努力した。
信じられない。
信じられないけど、この人は、「ただそこにいた」だけの子供を殺そうとしている。
「……何のつもりだい?」
「命令を、撤回してください」
声が震えた。まだ体も心も現実に対応できていないのだ。それでもここを動くわけにはいかなかったし、何も言わずにいることはできなかった。
「彼らは民間人です。今日まで何も関係のなかった、ただの近隣住民だ。我々の処理する範囲から外れているはずです」
「今日、今、ここにいる時点で、無関係ではなくなった。作戦概要をきちんと読んでいないのか? ボクが命じたのは、『敷地内に存在するすべての処理』だ。ここには何もなかったことになる。その二人を含めてだ」
「ッ相手はただの子供です!」
淡々と述べるローズハート局長に必死で噛みつく。大理石の彫像のような、のっぺりとした平静さに呑まれてしまいそうだった。
違う、違うだろう、やめてくれ。ローズハート局長に反駁する口の反対側で、僕のどこかが悲鳴を上げていた。
やめてくれ。正しくあってくれ。ここはそういう場所であったはずだ。正義を為すための組織のはずだ。僕はこの場所の正しさを信じて歩いてきたのに、ここで何の関係もない子供を殺すことが、正しいなんて言わないでくれ。
「こんなところにこんなものがあるとすら知らなかった子供を、『処理』するのが正しいんですか!? 屋内の『処理』は完了しています、その後に迷い込んだ子供にまで適用する必要はない! Dケースの通常の手順通り、記憶処理だけで十分です!」
殺す、と言わずにいるだけで一苦労だった。怯えきってこちらを見ている子供たちに、僕たちが何をしているのか教えるわけにはいかなかった。作戦の内容を知られてしまえば、僕が何を言おうと二人の「処理」は確定してしまう。縺れる舌で、必死に言い募る僕は、いつしか俯いたローズハート局長がどんな表情をしているのか、窺うことができなかった。
「……子供、子供、子供と」
しばらく僕の言葉を黙って聞いているだけだったローズハート局長が、ぼそりと呟いて顔を上げた。
周りの誰かが、ひ、と声を引きつらせた。ローズハート局長が、文字通りの般若のごとき形相をしていたからだ。僕が息を呑む隙に、ローズハート局長が一歩、距離を詰めてくる。
「子供だから、子供には判断能力がないから、常識や良識を学んでいる最中だから、考慮して甘く対応してやれと、キミはそう言うんだね?」
馬鹿をお言いでないよ。言い捨てる声は氷のように冷たかった。
「子供であろうと、ものを知らなかろうと、罪は罪だ。そもそもここは私有地であり、彼らは不法侵入者だ。罪人は罰を以て罪を償わなければならない。そのことに大人も子供も関係ない!」
ダン! とローズハート局長は足を踏み鳴らした。周囲は怯えて後退り、僕もびくん! と肩が震えるのに留めるだけで精一杯だった。僕より小柄なはずのローズハート局長が、みるみる膨れ上がって僕を見下ろしているかのような、馬鹿げた錯覚に陥りそうになる。
怒り。
怒りだ。
空気を震わせるほどの怒りが、ローズハート局長を何倍も大きく見せている。
「今日ボクたちは、この場の全てを消去しなければならない。全てだ。ここに何があったのかすら知らせず、ここは忘れ去られなければならない。知る者は全て消す。全てだ。そこの愚かな不法侵入者も例外じゃない! 考えなしに法を犯した愚か者! 入ってはならない場所に入り、いてはならない場所にいる! 処刑台に上がるのにこれ以上の理由は必要ない!」
ローズハート局長に指さされた先で、子供たちはとうとう泣き出した。恐怖のあまり呼吸もままならないらしく、呻くような泣き声しか出てこないが、既に頬はびっしょりと濡れている。しがみつき合う二人の間でイナバシロウサギが脱出しようと藻掻いていた。二人の体と腕に挟まれて、逃走は成功しそうにない。
「ただの迷子にっ、やりすぎです! 彼らはまだ何も見ていない! たかが子供二人、いくらでもやりようはあるでしょう!」
膝が震えそうになるのを必死で堪えながら、僕はなんとか食らいついた。この怯える命を損なわせるわけにはいかなかった。そんなものは、僕が憧れた正しさじゃない。
「いいや駄目だ。他のやり方なんてない。罪を雪ぐには、これしかない」
しかしローズハート局長は、傲然とそこに立って、きっぱりと言い切った。
「そうやって甘やかして、見逃して、つけ上がらせた先で、こいつらはきっと取り返しのつかないことをする。一度許せば二度、二度許せば三度、三度許した先で一体何をしでかすか……罪人を許せば罪を犯す。必ずだ。こいつらはいつか人を殺す! その前にボクが、こいつらの首をはねなければならない!」
ローズハート局長のCOMPが起動した。ビープ音と若干のノイズの後、その場に現れたのは、天使だった。
ゆったりとしたローブ。背には大きな翼。天秤を持った美しいヒトの姿を持つ天使がそこにいた。ドミニオンは、柔和なその顔に何の感情も浮かべることなく、すっと天秤を掲げた。
「駄目だ!」
その天秤を叩き落とす。咄嗟に手が出たのも、天秤を払い落とすことに成功したのも奇跡のようなものだった。必死に踏みとどまっていた気力をその攻撃で使い果たし、僕は天使と、ローズハート局長の視線に耐えかねてとうとう膝をつく。それまで動向を見守る他なかった隊員たちが、明確に局長に逆らった僕を押さえ込んだ。そのままずるずると、引きずって運ばれそうになる。
「駄目だ、やめてください……こんなの無茶苦茶だ! アンタの言ってることはまるで筋が通ってない! ローズハート局長!」
せめても叫ぶが、ローズハート局長は僕をちらりと見るなり、興味を無くしたように子供たちに向き直った。二人は既にその場にへたり込んでおり、地面からローズハート局長を見上げていた。
小柄なその姿が、二人にはどれほど大きく見えているだろう。美しいはずの天使は、きっと死神に見えているに違いない。局長、と呼んでも、もう僕は一瞥もしてもらえなかった。
一歩踏み出そうとしたその肩に、ぽん、と乗る手がある。
「まぁ待てリドル」
「……作戦行動中だよ、クローバー総隊長」
「申し訳ありません、ローズハート局長」
いつの間に近寄ってきたのか、ローズハート局長の隣にはクローバー総隊長がいた。二人は幼馴染みだと聞くが、今の状態のローズハート局長を肩を引いて引き留めるなんて、尋常の胆力ではない。こんな組織の総隊長を務めているのだから当たり前だが、クローバー総隊長は只者ではないようだった。
その顔に、いつもと同じく宥めるような笑顔が乗っていたから、僕は一瞬安心した。クローバー総隊長の言葉ならローズハート局長だってきっと聞き入れる。きっと少女たちを見逃すよう口添えしてくれると思った。
けれども、クローバー総隊長は、ローズハート局長に最も近く忠実な部下だということを、僕は失念していた。
「局長の手を煩わせるまでもない。『処理』は自分が請け負います」
言った笑顔に少しの歪みもなくて、僕は自分の喉がヒュッと鳴った音を聞いた。
「そうはいかない。ボクがこの手で、あの罪人たちを裁かなければ」
「予定外の侵入者の処理なんて些事を、局長にさせるわけにはいきません。実働や雑務は部下の仕事です。上官が小事に煩わされる様子は部下の意識にも影響する。……それとも、自分では局長の代行は務まりませんか?」
クローバー総隊長は、うっすら笑みを浮かべたまま言った。とても少女二人の命について話しているとは思えない様子だった。ローズハート局長は、肩越しにその笑顔を見上げていたが、やがてふっと息を吐いた。
「……いいだろう。ボクはボクが任せた仕事をキミが完遂するのを見届ける。それでいいね?」
「了解。それではここでお待ちください。……それから、そろそろ天使は帰還させていいんじゃないか? 今マグネタイトを消費しても無意味だろう」
ローズハート局長は素直に頷いて、ドミニオンをCOMPに帰還させた。そしてその場でじっと、クローバー総隊長の動向を見守っている。
「クローバー総隊長! 本気ですか!」
引きずられるのに抵抗しながら叫ぶ。僕の腕には、とうとう拘束用の手錠が嵌められた。続けざまに誰かの悪魔から麻痺を食らい、いよいよ僕は動けなくなる。
「本気も何も、局長の命令だからな。部下としては、従う他ないさ」
買い物に行くような気軽さで、クローバー総隊長はそう返した。その両手は既に、彼の愛用品を握っている。
大ハンマーというものがある。ゲームやファンタジー作品に登場するような人の頭より大きいハンマーではなく、単に柄が両手で構えられるほど長いハンマーのことだ。主に工事現場などで、杭を打つなどの作業に使われている。両手の力と遠心力が加われば、打撃力は相当のものだろう。
それをクローバー総隊長が握っている。これからキャンプ用のテントの杭を打ちに行くような気軽さで。彼の腕力で扱えば、凶器以外の何物でもない工具を持って。
いやだ、やめてくれ。回らない舌で叫ぼうとしてもろくな声も上げられなかった。麻痺した体では息すら苦しい。いつの間にか子供たちはその場に倒れ伏していた。イナバシロウサギはどうしたのか、ここからでは見えない。
地面に寝そべる少女たちの傍に、とうとうクローバー総隊長が立った。何を見極めているのか左右を数歩ずつうろついて、よし、と頷いたクローバー総隊長は、軽やかに大ハンマーを振り上げた。
(やめろ!)
叫んだと思った声は、喉から情けなく息が抜けただけだった。
ボゴッ、という、鈍い音がした。重たくて硬いものがぶつかって、割れる音だった。クローバー総隊長は、ふっと息を吐いて、流れるような動作でもう一度大ハンマーを振り上げた。僕は瞬きもできずにただそれを見ていた。地面を耕しているようだ、と、受け入れがたい現実から逃避する思考がそんなことを連想した。
もう一度、ボゴッ、という音がした。クローバー総隊長はしばらくじっと足元を観察していたが、やがて大ハンマーをぶら下げてローズハート局長の元まで戻っていった。
「終わりました、局長」
「死体を確認する。ボクが確実に死んでいることを確かめるべきだろう」
「おいおい、俺の仕事を疑うのか? だいたいそういう雑事は局長の仕事じゃないって言ってるだろう。適当な隊員にやらせて報告書も書くから、お前はあっちの指揮をとってくれ。建物と地下施設、跡形もなく片付けないといけないんだろう? たった二人のイレギュラーよりそっちの方がずっと大仕事だし重要だ。リドルにはそっちに回ってほしい」
「……そうだね、トレイがそう言うなら」
素直に頷いたローズハート局長は、そのまま踵を返して重機の並ぶ研究所前に戻っていった。隊員たちのほとんどもそれに従って、残ったのは僕と、僕を抑え込んでいる隊員数名、クローバー総隊長、それから少女二人の遺体だけだった。
麻痺が抜けたらしく息苦しさはなくなった。それでも僕は大きく胸を喘がせた。自分の不甲斐なさに喉が塞がれて、まともに喋ることすら困難だった。
死なせてしまった。ただ迷い込んだだけの少女二人を、これほどあっけなく。いつもいつも何もできない。しかも今回は、どうしようもなく、取り返しがつかない。二人のご家族に一体、何と言って詫びればいいのか。いや、今回の任務は「何もなかったことにする」ことが目的なのだから、二人はただ行方不明として扱われることになるのだろう。突然前触れもなく消えてしまった子供のことを、ご家族はどれほど心配するだろうか。頭を下げることも顛末を知らせることも許されない僕は、ただ俯いて、その場にへたり込んでいることしかできなかった。
(エース)
エースを呼んだままにしておけばよかった。いつだって僕は力が足りない。それを補うための仲魔のはずだった。なのに僕はいつも、油断してエースと離れて、そして自分の無力さを突きつけられる。
エースに会いたいと思った。エースに会って、「ほんとお前そういうとこ!」なんて言って雑に肩でも叩かれれば、たぶんまた立ち上がることができるのに。僕は一人で、一人のまま自分の至らなさを噛みしめることしかできないから、まだしばらくは立ち上がれそうになかった。
クローバー総隊長は、僕を抑え込むのをやめて運搬を手伝いに来た隊員を「ちょっと待っててくれ」と押し留めている。少女たちの遺体の傍にしゃがみ込み、「大丈夫か?」などと言い出した。
……大丈夫か? 死体に向かって?
「大丈夫なわけねーホ……」
「ひでー目に遭ったホ……」
子供のような、少し耳に引っかかる、悪魔の声がした。
「悪い悪い。でも死ななかっただろ? 臨時契約の野良悪魔に『ドルミナー』と『食いしばり』のスキルカードなんて破格の条件だ。その分きっちり働いてもらわなくちゃな」
「死ななくっても死ぬほど痛かったホ……」
「オマエとはもう絶対契約しないホ……成功報酬のマグネタイトとっとと寄越すホ……」
「寂しいこと言うなよ。ま、とりあえず報酬だ」
クローバー総隊長が膝をついて話しているのは、二体のジャックランタンだった。どちらも地面すれすれを浮遊しており、目と口がくり抜かれたカボチャ頭には、大きなひび割れができている。クローバー総隊長がCOMPを操作すると、「とっととくたばれホー」「おとといきやがれホー」などと言いながらふよふよ飛んでいった。
「……さて、あとはこの二人か。お前達、この子らを他の隊員に見つからないよう、解析班の車両まで運んでくれ。主任のダイヤモンドに任せればなんとかしてくれるはずだ。ああ、この子らが抱えてた悪魔はどうした?」
「はっ、逃げ出そうとしたのを別の隊員の悪魔が仕留めました」
「じゃあ心配いらないか。残りの者は帰還しろ。この場のことは俺が報告書を書くので、お前たちは決して口外しないこと。スペードは俺が連れて行くよ」
「了解!」
隊員たちが駆けていくのを、僕は未だ座り込んで呆然と見送った。隊員に抱えられた少女二人には、どこにも赤い血がついていなかった。
「く……クローバー総隊長、いったい……」
何がどうなっているのか。へたり込んだまま動けない僕の前にしゃがみ込んで、クローバー総隊長は苦笑した。
「悪いなスペード。リドルの見てるところで事情を説明するってわけにもいかなかったから。でも正直、お前がそうやって派手に反抗してくれたおかげで、俺は仕込みがやりやすくて助かったよ」
「仕込みって……クローバー総隊長、一体これは、今何が起こったんですか……?」
「大丈夫だ、ちゃんと説明するよ。正直リドルがああやって、任務中にちょっと行き過ぎるのはよくあることなんだ」
ローズハート局長は規律正しく過ごすことを好み、公私ともに自らを律する生活を続けている。しかしローズハート局長は他者にもそれを求めがちで、時に厳格さを強要しすぎてトラブルに発展することが少なくないそうだ。
たとえば、少し気を緩ませて規則違反をした隊員。
たとえば、マナーの悪い他省庁の職員。
たとえば、任務中に迷い込んできた一般人。
相手の事情も顧みず、ただ「その場のルールを犯した」という事実だけを見て怒り狂い、相手を処断しようと刃を振り上げる。命を奪うことも厭わない。そういう苛烈な面が、ローズハート局長にはあるのだという。
「でも、誰も彼もがリドルのような厳格さで生きていけるわけじゃない。それでなくても敵意には敵意をもって返されることがよくある。だからこうやって、リドルを宥めて、相手を逃してやる必要があるんだ」
クローバー総隊長は、合体やスキル用にストックしていたジャックランタンを使って一計を案じた。ローズハート局長が僕に気を取られている間に別方向からジャックランタンを放ち、少女二人を眠らせる。騒がれない状態にした二人の傍にジャックランタンを配置し、少女たちではなく悪魔の頭を大ハンマーで砕く。派手な音とパフォーマンスでローズハート局長を納得させた後、こっそりと少女二人を保護し、記憶処理などを施して親元に戻す。解析班のケイト・ダイヤモンド主任はこういったクローバー総隊長の誤魔化しによく協力してくれる共犯者なのだそうだ。
「天使が残ってると、俺のしてることがばれそうだったからな。素直に帰還させてくれてよかったよ」
やれやれと肩を竦めるクローバー総隊長は、何てことのないことのように言うが、これはとんでもないことだった。怒り狂ったローズハート局長を相手に、相反する目的の作戦を素早く立て、実行し、ローズハート局長には一切気取らせないその手並みと胆力。しかもそれを誇る様子もない。この人にとっては、この程度のことができるのは「当たり前」で「普通のこと」なのだ。とんでもない人だった。
「……でも、よくジャックランタンが都合よく手持ちにいましたね。クローバー総隊長の実力を考えると、少し心許ない気がするんですが」
以前戦闘訓練と称してボコボコに叩きのめされたことを思い出す。恐らくクローバー総隊長は本気ではなかったはずだが、その時連れていた仲魔はあのジャックランタンより強力だったはずだ。訊ねると、「正直あれはちょうどよくてな」とクローバー総隊長は朗らかに笑った。
「カボチャをハンマーで割ると、いい音が出るからな。頭をかち割られて生きていられる人間なんて滅多にいないから、リドルを誤魔化しやすくて助かってるんだ。いつも何体かストックしてる。一回やると、『もう二度とごめんだ』って言われて契約解消されるんだが」
「そりゃそうですよ……」
内容はまったく朗らかじゃなかった。体格もよく上背があるクローバー総隊長が自分に向かって大ハンマーを振り下ろすところを想像すると、僕でも肝が冷える。それを「避けてはいけない」と言われたら尚更だ。たとえスキルの恩恵があったとしても、今まで大人しく殴られてくれたジャックランタンたちは天晴だと言う他にない。
「……あの、でも、人間の頭をかち割る音って、カボチャを割る音とはだいぶ違いますよね……?」
ジャックランタンは「カボチャをかぶった幽鬼」の悪魔なので、あのカボチャ頭の中は空洞だ。人間の頭蓋には中身が詰まっているし、そもそもいくら硬いとはいえ、植物と骨では耐久度が違う。人間に近い姿の悪魔と接近して戦う僕にはその違いがよくわかった。先程は、「少女に向かってハンマーを振り下ろすクローバー総隊長」という光景が強すぎて、その音の違いに気が付かなかったが。
「スペードが体験した通りだよ。視覚情報に引っ張られて聴覚が誤魔化される。だいたい人間の頭蓋が砕かれる音なんて、覚え込めるほど近くで聞いた経験があるのは、いくらうちが対悪魔戦闘部隊だからって滅多にいないぞ? 俺は得物が得物だから聞き慣れてるが、リドルは絶対に知らない。あいつは魔法スキルがメインだし、基本焼き払って倒してるからな」
リドルが気づく日は、絶対に来ないよ。そう言って片頬を歪めるクローバー総隊長は、まるで悪魔のようだった。人間の目から真実を覆い隠し、その盲目さを嗤う、悪魔のような。
クローバー総隊長に呼び出されたのは翌週のことだった。既に任務の報告書は提出し、僕は局長に反抗した門で始末書も書いている。罰は雑務の追加や減俸など。正直月単位の謹慎を食らってもおかしくない様相だったはずだが、解析班のダイヤモンド主任によると、クローバー総隊長がかなり擁護してくれたのだそうだ。「そのうち厄介な任務押し付けられるかもだから、覚悟しといた方がいいよ☆」とウインクされたが、ここまでしてもらって恩を返さないというのは男が廃る。声をかけられたときは是非引き受けさせてもらおう。
そう思っていたから、呼び出し先がごく普通のカフェだったことには内心首を傾げていた。ローズハート局長の右腕であるクローバー総隊長が、まさか「女王の心臓」の外で任務に関する話をするはずもない。しかしそれ以外で、僕とクローバー総隊長の間に共通の話題などあるはずもなかった。当然連れ立ってお茶をする仲でもない。ダイヤモンド主任に引っ張り込まれて休憩室でお菓子パーティなどしたことはあるが、個人的に連絡を取り合ったことは一度もなかった。
一体何の話だろう。僕は盛んに首を捻りつつ、私服に着替えてカフェに向かった。
クローバー総隊長は先に席を取っていて、僕に向かって軽く手を振った。「何か食うか?」と訊かれたが、味わえる気がしなかったのでコーヒーを注文するだけに留める。クローバー総隊長はシンプルなショートケーキを半分食べ終わっていて、一口食べる度に何かを確認するように頷いていた。
「意外そうな顔だな。俺みたいなでかい男がケーキ食ってるのは珍しいか?」
「あ、いえっ、その……そういえばダイヤモンド主任に、チョコレートとか詰め込まれてもちゃんと食ってたな、と思ってました」
「はは、あいつ自分で食わないくせに買いたがるからな。俺は実家がケーキ屋なんだよ。店は弟が継いだ」
「ケーキ屋? そうだったんですか」
「おかげでケーキに関してはちょっとうるさくてな。この店も、ケーキがうまいから選んだんだ。今日じゃなくても、いつか来て食ってみるといい。特にここはクリームがうまいから、ショートケーキはおすすめだ」
僕のコーヒーが来るまではそんな雑談で場をつなぎ、ケーキの皿が空いて、クローバー総隊長がコーヒーをおかわりしたところで空気が改まった。あからさまにしゃちほこばる僕にクローバー総隊長は苦笑して、僕の肩を軽く叩く。
「そう固くなるなよ。俺がいじめてるみたいだ。返って目立つからやめてくれ」
「す、すみません、総隊長……」
「おいおい役職はよしてくれ、先輩とかでいいよ」
「はい、ええと、クローバー先輩」
「よし。今日呼び出したのは、たぶんお前が知りたがってるだろうことを教えてやろうと思ったからだ」
「僕が……知りたがってる?」
「たとえば、リドルがどうしてあんなに二人を排除したがってたのか、とか」
周りの音が一気に遠ざかった。僕がクローバー総隊長に集中したのを察して、眼鏡の奥の瞳が、にぃっとつり上がった。
「知りたいだろう?」
「……正直」
僕はためらいながらも頷いた。
僕の知っているローズハート局長は、厳格で、公正で、勤勉で、自ら正しくあろうと律することを厭わない人だ。確かに他人に厳しいこともあるが、それは「正しいことは人のためになる」と信じているからで、後ろ暗いところなど少しもなく、真っ直ぐに前を向いている人だと思っていた。
しかしあの日、激昂したローズハート局長にあったのは、憎悪すら滲む果てのない「怒り」だけだった。そしてその怒りを、他者に向けることに一切のためらいを持たないようだった。
あれは一体何だったんだろう、と、僕は繰り返し思い返した。帰還後のローズハート局長は特に変わった様子もなく、通常通りの業務をこなしているという。まるであの日のことは、僕が見た悪い夢のようだった。
「リドルは悪魔が嫌いで、ルール違反が嫌いだ。けど一番嫌いなのはどっちでもなくて、『ルール違反をする子供』なんだよ」
「ルール違反をする……子供、ですか?」
一体どこから来たのかわからない単語に首を傾げると、クローバー総隊長はこう言って、長い話を始めた。
「そう。……何せリドルは、昔『ルール違反をした子供』の自分が、母親を殺したと思ってるからな」
――リドルの母親は厳格な人だった。
近所でも評判のいい医者で、大きなお屋敷に住んでた。俺は近所に住んでたから、毎日そのお屋敷を見上げては、中はどうなってるんだろうって想像を膨らませるのが日課みたいになってた。そのお屋敷に毎日帰ってく赤毛の子を見て、なんとか仲良くなって入れてもらえないかな、とも思ってたな。
でも仲良くなるのは難しかった。当時のリドルは、完璧主義な母親の方針で、分単位のスケジュールで勉強させられてたからな。学校が終わったら脇目も振らずにうちに帰って、学校の授業の復習と、もっとずっと先の予習をしてたらしい。義務教育どころか、大学で習うような内容もやってたそうだ。
俺はそのうち、お屋敷にこもったまま外に出てこない子供の方に興味が湧いて、もう一人の幼馴染みと一緒にその子に会いに行ったんだ。一緒に外で遊ぼうってな。
――そんなことしなきゃよかったのかもしれないって、時々思うよ。じゃあどうすればよかったのかなんてわからないけどな。
リドルは最初つれなかった。まだ勉強が終わってないとか、お母様に叱られるとか、キミたちも勉強したらどうだいとか。でもやっぱり、勉強以外のことに興味はあったんだろう。そのうちちょっとずつ話をしてくれるようになった。俺たちはその頃にはもう意地になってて、絶対にリドルを外に連れていく! って、リドルの部屋から屋敷の外まで、母親に見つからないように移動するルートを話し合ったりしてた。
初めてリドルが屋敷を抜け出した日のことをよく覚えてる。きれいな服で、ぴかぴかの靴を履いてて、一歩踏み出すのも怖がるんだ。俺と幼馴染みが手を引いてやって、ようやく歩き出せたとき、すごく嬉しそうに笑って……達成感でその日は眠れなかった。
母親の目を盗んで、俺たちは毎日ちょっとだけ一緒に遊んだ。リドルの母親は、自分もめちゃくちゃ忙しいのに、リドルのこともめちゃくちゃ忙しくさせてたんだ。母親がいなくて、リドルが怪しまれないくらい勉強を終わらせてからじゃないと遊べないから、俺も幼馴染みもリドルの母親が嫌いだった。いなくなっちゃえば、リドルとずっと遊べるのにって……子供って残酷だよな。
そうだ。リドルの母親は死んだ。リドルの目の前で。――俺たちの目の前で。
その日はいつもより長く遊べる予定だった。リドルの母親は病院の仕事で遅くなる予定だったから。その分リドルの勉強は増やされてたけど、リドルが頑張って終わらせてくれたから、俺たちは目一杯遊ぶことにしてた。秘密基地に招待する予定だったんだ。
子供の頃にはよくやるだろう? 秘密基地。俺たちのは放置されてた空き家の庭にある小屋で、隣の木にいい感じで凭れて崩れてなかったから、子ども用の小さいテントを中に持ち込んでたんだ。ビニールシートと、平べったくなった古いクッションを敷いて、壊れかけのラックに雑誌を入れたりして。正直狭苦しかったけど、「俺たちの他に誰も知らない」っていう感覚が自尊心とかをくすぐったから、毎日のように入り浸ってた。それでその秘密を、俺たちはリドルに教えたかったんだ。お前も仲間だって言いたかったし、秘密基地を見たリドルの顔も見てみたかった。
でも、よりによってその日、空き家に悪魔が入り込んでた。
知らない怪物に遭って、俺たちは怯えたし、逃げた。散々叫んだはずなのに誰も来なかったのは、結界か何かに入ってたんだろうな。とにかく俺たちは必死に逃げようとしたけど、問題はリドルだった。リドルは学校以外の時間、ずっと母親と勉強漬けで、ろくに外を走ったこともなかったんだ。今でもあいつは運動が苦手だよ。それでもあの時よりはマシだけどな。
リドルはちゃんと走れなくて、足をもつれさせて転んだ。すぐ立てないリドルを狙って悪魔が口を開けるのが見えた。俺は振り返ったけど、動けなかったよ。怪物が怖くて、友達を助けたいのに、足が進んでくれないんだ。まともに動くのは口くらいで、意味もなくリドル、リドルって叫んでた。それでどうなるわけでもないのにな。
リドルを助けたのは母親だった。病院の仕事が、偉い人の都合か何かで中止になって、遅くなるどころかいつもよりずっと早く帰ってきたらしい。それで息子がいないことを知って、あちこち探し回ってたんだと。誰もいなかったはずの結界の中に入れたのは、たぶん、血を分けた息子がいたせいだろう。
そしてリドルの母親は、リドルを庇って殺された。一番足の早かった幼馴染みに案内されて、当時の「女王の心臓」の部隊が救助に来たときには、もう虫の息だった。
お母様死なないで、って縋るリドルに、母親はこう言った。
いけない子ね、リドル。
せめて最期の時に「愛してる」くらい言ってやらないのか、って、恨んだときもあったな。あの時何もできなかった俺に、何かを言う資格はないんだけどな。
リドルはその後、親戚か何かに引き取られて引っ越していった。俺は助けてくれた「女王の心臓」の隊員に頼み込んで、記憶処理を受けず、どうやったら「女王の心臓」に入れるのか教えてもらった。「女王の心臓」に入ってたくさん悪魔を殺せば、何かの償いになるんじゃないかと思ったんだ。
そうやって勉強して、警察に入って、……飛び級で合格したリドルが、俺より早く「女王の心臓」に入ってたのを知ったときは驚いたよ。それで入局式のときに、「ボクが局長になったときにはキミに右腕になってもらうから、協力してくれ」ときた。断る理由はなかったよ。俺が「女王の心臓」に入ったのは償いのためで、リドル本人を相手にそれができるなら、願ったり叶ったりだからな。
「――リドルは悪魔を憎む。母親を直接手にかけたのは悪魔だからだ。だけどリドルが本当に憎んでるのは、あの日『母親の言いつけを破って外に出た子供の自分』なんだ」
僕は動けないまま、クローバー総隊長の話を聞いていた。喉がからからに乾いていたが、コーヒーはとうに空になっていたし、店員におかわりを頼むこともできなかった。
「あの日大人しく屋敷で勉強をしていたら、早く帰ってきた母親に勉強を見てもらって、それで平和に一日が終わっただろう。一時の楽しみのためにルールを破ったから母親は死んだ。リドルの中には、『ルールを破れば人が死ぬ』って法則が染み付いてる。……あのときの子供は、リドルの目には、小さい頃の自分に見えてたんだろうな。遊びに夢中になってルールを破って、それが原因で母親が『また』死んでしまう……リドルはそれを繰り返したくなくて、あんなに『処理』を強行しようとした」
クローバー総隊長が自分のコーヒーを飲もうとして、そちらも空になっていることに苦笑する。二人分のおかわりが届くまで、席には沈黙が下りていた。
「……そんなの」
結局コーヒーには手をつけられないまま、乾いた喉をどうにか震わせて、僕は弱々しく反駁した。
「そんなの、ローズハート局長のせいじゃ……完全に単なる不運じゃないですか……」
「そうだな。最終的には、『運が悪かった』でまとまっちまう話だ。でもそれで、あのリドルが納得すると思うか?」
僕はゆっくり首を横に振った。高潔で清廉で、自分の両足で立つことを良しとするローズハート局長が、事件を「幸運」なんて不確かなもののせいにするはずがなかった。
「そしてリドルは、この事件を『自分のせい』にすることにした。それが一番楽だったからだ。リドルにとっては、自分の行いは自分で責任を取るのが、当たり前で一番楽だったんだろう。だから今でも、自分に罰がもたらされることを、心のどこかで待ってるんだ」
「罰って……母親が殺されたんだから、それで十分じゃないですか」
「違うな。リドルの中では『ルール違反をした』から、結果『母親が殺された』んじゃない。『ルール違反をして母親が殺された』から、殺人の罰を受けるべきだと考えてる」
「そんなっ、そんなの……おかしい、ローズハート局長が罰を受けるようなことじゃ……!」
「そう思うだろ? だから誰もリドルを罰さない」
だからリドルは自分を許せない。
コーヒーを飲むクローバー総隊長を前に、僕は呆然とした。
近頃は繰り返し、自分の無力さを突きつけられる経験をしてきたが、これはとびきりだった。何をしていいのかわからない。何ができるのか、わからない。絶対にこのままではいけないのに、ローズハート局長には確かに助けが必要なのに、僕がその助けになれるかどうかすらわからなかった。
クローバー総隊長がふたたびコーヒーを空にするまで、僕は椅子に体重を預けていることしかできなかった。他の客の注文を取る店員が何度も横を通って、僕はようやく、ぼそりと口を開くことができた。
「……どうして、僕に、こんな話を……」
ローズハート局長とも、クローバー総隊長とも、僕は縁が薄い。僕は、トラブルが多いことは認めるが、ただの一般隊員でしかないのだ。個人的な親交はないに等しく、こんなに踏み込んだ打ち明け話をされる心当たりもない。しかも本来、ローズハート局長本人から聞くべき内容まで、どうしてクローバー総隊長が僕に話して聞かせたのか。
まだうまく表情も動かせない僕を、クローバー総隊長はじっと見た。そして、にぃっと唇をつり上げた。
悪魔のような笑みだった。
「――この話を聞けば、お前はリドルを見捨てられないだろう?」
息を飲んだ。突然ぶつけられた悪意に似た何かに、まだ感情の処理がうまくいっていない僕は対応できず、黙ってクローバー総隊長の言葉を聞いていることしかできなかった。
「スペードはいい奴だからな。あれだけ部隊で浮いてるのに真っ当で真っ直ぐだ。任務の遂行をためらわないし、同じだけ他人を助けることに躊躇がない。貴重な人材だよ、お前は。そんな人材を手放すわけにはいかないだろう?」
クローバー総隊長が笑顔を作り直す。にこやかなそれは、たぶん他の時に見れば、人好きのする朗らかな笑顔だっただろう。隣の通路を「お席までご案内しまーす」と店員が通っていった。
「スペード。俺たちにはな、信頼できる部下が必要だ。絶対にリドルを見捨てず、忠実に働く部下が。お前が隊を離れ、ましてどこか他のところに付くなんてことになったら、うちは大損なんだよ」
だからちょっと離れられなくしておきたかったんだ、悪いな。
クローバー総隊長は伝票を取ると、「今日はおごるよ。時間を取らせて悪かったな」と言って席を立った。
僕は何も考えられず、店員が催促に来るまで、座ったまま動けなかった。