僕は君に教わるまで、通勤ルートに和菓子屋があるということも知らなかった。
存在自体を知らなかったくらいだから、その和菓子屋が近所では評判の隠れた名店で、甘さ控えめの上品な餡子が絶品だということも、まったくもって知らなかった。当然、君がその店の熱心なファンだということも。
知らなかったし、興味もなかった。道明寺粉について楽しそうに蘊蓄を語る君の話を、僕はろくに聞きもしないで右から左へと受け流し、まともに味わいもせずに食べた桜餅を、一息に飲み干した茶でただ胃袋に流し込んでいた。
甘味というものに対して、あの頃の僕は糖分補給以外の価値を見出していなかった。
「ただいま」
一人で使うには広すぎるテーブルの上に、薄いビニール袋を置く。おかえりを返してくれるのは、このプラスチックが擦れる音だけ。
あの店は閉まるのが早い。そろそろ引退を考えているらしい老夫婦は、日が暮れると早々に店じまいの準備にかかる。残業になればどうやっても間に合わないところだが、今日は運がよかった。いよいよ年度末が近付いてくるのだ。今日を逃せば、きっと向こう一か月は敷居を跨ぐことはできなかっただろう。
まったく情けないことに、店に入ってからはじめて、やっと今日が桃の節句だということに気付いた。少しくすんだ蛍光灯の明かりに照らされたショーケースの中に、一つだけ桜餅が残っていた。君が好きだった道明寺だった。
「本当に運が良かったよ。僕が店を出たら、すぐにシャッターが下りてしまった」
近頃、独り言が増えていた。自分でもわかる。返事が返ってこないことがわかっていても、どうしてもやめることができなかった。
「さて、と……」
シンクで手を洗ってから、食器棚の前にしゃがみ込む。ずらりと並んだ小さな茶筒の前で、君の言葉を思い出していた。
「道明寺には、何が合うんだったか」
あれから物が減るばかりだった我が家に、最近ずっと増え続けているものがある。味なんてろくにわからないくせに、何種類もの茶葉を買っていた。いつだったか、君が手にとっていたものだと気付くと、衝動的に買い求めてしまうようになっていた。
和菓子と一緒に、お茶の蘊蓄を口にするのも君は好きだった。内容にはさっぱり興味はなかったが、僕は君の声を聞いているだけで幸せだった。
一口に緑茶と言っても、たくさんの種類があって――そこから続く話の内容を、いまさらになって少しずつ追いかけている。
茶筒の表面に張られたシールの文字を指先でなぞりながら、今日は茎に、玉露の茎茶にしようと決めた。鮮やかな黄緑色が、桜色に映えるような気がしたから。君が道明寺に何を合わせていたのかは、思い出せそうになかった。
「もしかしたら、怒られるのかもしれないな」
呟きながら、手に取った茶筒の蓋を取った。緑茶の香がふわりと広がる。自分でも気づかぬうちに、目を閉じていた。
茶のにおいを嗅ぐと、つい瞼が下りてしまう。清廉な香りの向こう側に、君の気配を感じる気がして。
「……女々しいな」
茶の良し悪しなど、いまだにさっぱりわかりそうにない。それでも茶が好きになっていた。きっと、君が好きだったから。
急須と茶筒と湯冷ましと、小さな湯呑をふたつ。テーブルに並べて、電気ケトルのスイッチを押す。それから、仏壇を振り返った。
「なあ、玉露はぬるく、茎茶はあつく、だったろ? ……玉露の茎茶の時は、どっちが良いんだろうなぁ」
静かに微笑んでいる君は、何も答えてはくれない。
それでも君が好きだった茶を探し続けてしまうのは、きっと僕の未練なのだろう。
(了)
いろいろと迷子だ。睡眠が足りてねぇ。脳が動いてないぞ。