賢者は今日も忙しい。
賢者の書を腕に抱え、魔法舎中を、あっちへこっちへ。
ひと息つくと、喉の乾きを覚えた。つめたい水が飲みたくなった。キッチンへ向かう途中の食堂で、
「あ。おはようございます、ファウスト」
「……おはよう」
朝と呼ぶにはちょっと遅く、昼と言うには早すぎる。自称引きこもりの魔法使いファウストは、ひとの多い時間帯を避けて、食事をとることが多い。
よく自室で食べていると聞く。朝も昼も食べた様子がないと、ヒースやシノがよく心配していたりする。
だから良かった。賢者はほっとした。ひとの気配のない静かな食堂で、ファウストはガレットを食べていた。その姿が見れて、本当によかったと。
「ファウスト、ひと口ください」
「……はぁ」
テーブルについているファウストの向かい側に、真っ赤に燃えるような髪色を見た。「ミスラ」と賢者が呼ぶと、彼はゆっくり振り返る。
「どうも、賢者様」
気だるげで、眠たそうな様子。その手には、ひと切れのガレット。挨拶もそこそこに、もぐりと食べる。
ナイフとフォークを使って、ガレットをちいさく切り取り、とっても綺麗な仕草で食事をする。そんなファウストと、豪快なミスラは、なんだか対照的で面白い。
そんなふうに思う賢者であった。
きんっと冷えた水を飲み干し、またも魔法舎中を行っては戻って。すれ違う魔法使いとお話をしたり、勉強の途中を見せてもらったり、ちょっと危険な感じで絡まれたり――。
あっという間にお昼になった。賢者のお腹はぺこぺこだ。今日のお昼ご飯はなんだろう。わくわくしながら食堂へと向かう途中で。
「あ、こんにちは、ミスラ」
「どうも……こんにちは、賢者様」
静かな談話室。窓から穏やかな日差しが入り込んでいる。あたたかい室内を、ふんわりとした紅茶の香りが包み込む。
そこのソファに、ミスラが腰かけていた。声をかけると、ぼんやりとした返事がされる。
ミスラはティーカップを持っていた。相変わらずの眠たげな常磐色が、音もなく細められる一瞬。彼はカップのふちに口をあてて、それをそっと傾ける。
「素敵な香りですね。なんのお茶ですか?」
「さあ? あっちに聞いてくださいよ」
あっち、と投げられる目線。向かいのソファに、黒い帽子が見える。ファウストは賢者を振り返って、簡潔に紅茶の名称を答えた。異世界から来た賢者には、馴染みのない名前の響きだった。
「無くなりました。おかわりをください」
「……もう何杯目になるんだ。それで昼食が入らなくなったらどうす……」
ファウストはそこで言葉を区切り、いや、とちいさく首を振った。彼はミスラの方に向き直ったから、賢者の方から表情を窺うことはできない。
「きみのお腹が紅茶くらいでふくれるわけがないか」
「ふん、当然でしょう。あなたとは違いますからね」
「そこまで誇らしげな意味がわからない」
のんびりと会話が交わされる。
ファウストの操る魔法が、可愛らしいティーポットをふわりと浮かせて、ミスラのカップにおかわりの紅茶を注ぎ込む。
満足げに足を組み直すミスラと、ひとつため息をつきつつポットを戻すファウストと。沈黙が木洩れ日のようにゆらゆらとする、穏やかな談話室――。
そういえば、このふたりが一緒にいるところを、今朝の食堂でも見た。あのあと、お昼になるまで、ふたりはここでお茶会をしていたのだろうか。
(仲、いいのかな)
ちょっと意外な組み合わせ。けれど、それは素敵なことだと、賢者は思う。
眠れなくて苛ついていることの多いミスラが、今この空間で、あんなにものんびりしているし。授業や訓練や依頼がない日、自分の部屋でひとりでいたがるファウストが、こうしてミスラとゆったり過ごしているわけだし。
ふたりは会話をしないけれど、それをお互い気にしているようでもなかった。むしろ、心地良さそうに揺蕩う雰囲気だと、賢者はこっそり微笑むのだった。
了 ☕️