『人体土壌』
場面1
 『日々の泡』という小説がある。肺に睡蓮の蕾ができてしまう奇病にかかった女性と、そのパートナーの男性の恋愛小説だ。
 それが小説の中だけでなくなってしまったのは、他の惑星との交流が始まってからだった。未知のものの輸入に、富をもつものがむしゃぶりつく中、それはひっそりと地球に忍び込んできた。
 最初は、誰も何が起きたか分からなかった。わかったのは、生きた人間に根を張り、薔薇が美しくその人間の右目に咲き誇っていることだった。
 研究が進み、惑星間の輸入の過程で人体を土壌とする植物が外来種として入り込んでいたと分かるころには、人体を土壌にされた人間はスペイン風邪の死者数に並んでいた。
 幸運だったのは、その植物が美しく咲き誇るだけで、ほとんど人間を殺さなかったことだ。皮膚の上で蕾をつけ、花弁を広げ、やがてしおれゆく。ただそれだけの奇病だった。人がそれに罹患するのは、誤って人体花のかけらを飲み込んでしまった時だけ。放っておけば、自然完治する病気だ。例外は、肺に寄生した時のみ。その時だけ、美しい花々は呼吸を阻害し、人を死に至らしめた。
 それゆえ、橘吾郎は恋人の駄々に困っていた。
「お願いよ。私の心臓に咲く薔薇を、うんと美しい時にとって欲しいの」
「あのね、僕は医者だから言うけど、人体花の萎れる前の摘出は体に影響が出るんだ。萎れたらすぐとっぱらえるんだから大人しくしてなさい」
 可愛い恋人が嫌々と首を振る。橘はほとほと困ってしまった。彼女の婚約者としての自分は、彼女の可愛いわがままを聞いてあげたいが、一方医者としての橘はそんな体に無理のあるオペはできないと考えている。
「そもそもどうして人体花なんて欲しいんだい」
「……私、お金ないでしょ。支援してくれる身内もいないでしょ。盛りの人体花は高く売れるわ。……結婚式の資金にしたいの」
 そう言う彼女を、橘はどうしてもつっぱねられなかった。身寄りのない彼女なりの、せめてもの誇りを大事にしてやりたいという考えが頭をかすめた。
 婚約者のうるんだ瞳をみるうちに、彼女の提案を跳ねのける気持ちが萎えていく。
「……わかった。でも、オペは僕がやるよ」
 気づけば、橘はそう答えていた。
場面2
 博物館のつるりとした床を歩く。かけたてなのだろう。わずかにワックスの香りが沈殿していた。
 橘は人体花のオペの経験はあるものの、相手が婚約者の体なのはもちろん初めてのことだった。絶対に失敗したくないという気持ちが、橘を博物館へと向かわせた。
 人体花の「咲いた」状態での摘出例は、全て人体花博物館に寄贈されている。そこに、婚約者と同じ心臓に咲いた薔薇があると聞いたのだ。
 人体花は咲く花の種類や土壌にした部位によって、根の張りかたが異なる。心臓に咲く薔薇がどのように根を張るのか、橘は知っておく必要があった。
 博物館の照明を跳ね返すケースの中で、薔薇はくすんだ茶色の花弁をさらしていた。心臓を模した模型に、その根が深く絡みついている。
(これを、僕は摘出しなければならないのか)
 その事実は、橘の腹のあたりを重たくした。できない。とっさにそう思った思考をかき消して、博物館の扉を開き、外に出る。
 頬を嬲る風は、橘の絶望的な思いまでもは吹き飛ばしてくれなかった。
場面3
 しんとした病室の中、橘は恋人のまろい頬を眺めた。指先で触れれば、そこにはたしかな温かみがある。この白い皮膚の下には間違いなく血が流れている。橘は成功した。心臓の薔薇を、盛りのまま摘出することができた。人体を土壌にして育った薔薇は、恋人の体液に濡れて不気味なほど美しかった。
 これでなんの心配もなく、彼女と結婚式を挙げられる。
「そういえば、薔薇はどこに保管している?」
 彼女の病室を出て、傍を歩く看護師に問いかける。看護師は、奇妙なものを見るようにこちらを眺めた。
「……橘先生のお休みの時に、受け取りに来た方にお渡ししましたが」
 その返しに、一瞬頭が真っ白になる。橘は誰にもそんなことを依頼してはいなかった。
「薔薇はどこにある……?」
 橘は問いかけた。看護師に、出入りの業者に、馴染みの患者に。誰一人、薔薇の行方を知れなかった。美しい人体花は、鮮やかな香りだけ残してどこかへ消えてしまった。
場面4
「私の薔薇はどこ!?」
 その瞼を開け、現実を知った恋人は悲壮な声でそう叫んだ。誰もその問いには答えることができなかった。憶測だけでならなんとでも言えた。もう闇市で売られているに違いない。盗人が手に入れて鑑賞しているに違いない。しかし彼女が求めているのは、「あなたの薔薇はここにありますよ」という言葉だけで、それは誰も持ち合わせていなかった。
「薔薇なんてなくても結婚はできるじゃないか」
「貴方には分からない……。こんな立場の私が、貴方と結婚するのに、どれだけ……どれだけ……」
 その言葉の続きは、言わずとも分かってしまった。恋人はずっと橘の背後にある医者一族に気後れしていた。心臓に咲いた人体花は、身寄りのない彼女が唯一自分のものとして確かに持っているものだったのだろう。それが理解できてしまったから、橘は彼女に何も言うことができなかった。
「薔薇を、探そう」
 橘の口から、気づけばそう言葉が飛び出していた。
 恋人の顔が、ゆるりとほどける。
 橘にはただの恋人を蝕む病でも、それが彼女のかけがえのないものなら、そうするのが正しいと、そう思えた。
場面5
 薔薇の行方はようとして知れなかった。恋人は植物がそうであるように、日々元気をなくし、萎れていった。
「薔薇は、見つかりましたか」
 問いかけた看護師の言葉に、否と返す。彼女は同情するような、哀れむようなあいまいな表情で微笑んだ。
「闇市に流れ込んだのかもしれない。興信所に頼んだが薔薇の行方はわからない。病院にあるんじゃないのかと言うんだ」
 橘は頭を抱えて、机をただ見つめた。恋人の希望を砕きたくない気持ちと、もう全て諦めてしまいたい気持ちとが、橘の中で混じり合っていた。
 その時、ふと鼻孔に流れ込んだ薔薇の香りに、びくりと震えた。視線を上げれば、看護師がアロマディフューザーをもって笑っている。
「ああ……気を遣わせたね。すまない」
「いいんですよ。必要なことですから」
 薔薇をたらふく含んだ空気を、肺の奥まで吸い込む。それだけでささくれだった気持ちがすこしほぐれる気がした。
「橘先生は、人体花にお詳しいんですか?」
「いや。正直オペに必要なこと以外はあまり……。まだまだ未知の部分も多い病だからね」
 看護師は、ふくふくと笑った。可愛らしいその笑顔が、なぜか歪んで見えた。
「じゃあこれは知っていますか? 人体花は、それを取り込んでしまった体の器官に根付くんです。目なら眼底に根を張り、心臓なら血管に根を張る。じゃあ、肺なら? ……根が呼吸をできなくさせる」
 その一言に、肺に深く吸い込んだ薔薇の空気が、突然なにか気味の悪いものに思えた。
 そういえば、薔薇の行方について「受け取りに来た方がいる」と言ったのは、この看護師だけではなかっただろうか。他の人間は、その行方を全く知らなかった。それは、薔薇をこの女が持っているということに、なりはしないだろうか。
 頭を駆け巡る恐ろしい想像は、女の言葉で終止符が打たれた。
「先生が悪いんですよ。私先生のこと好きなのに結婚なんてしようとするから」
 「一緒に死んでしまいましょうね」という声が、頭をぐるぐると回る。
 仰ぎ見た女の顔は、薔薇のように赤らんでいた。
 
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ななし@3174a9
へえこんなふうに書いてるんだ
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ななし@8a254c
初見です
22:03
ななし@6574ea
そんな大切な薔薇なのになくなっちゃったの…可哀想…
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向き
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