起 
場面1 
 眼球に鮮やかな夏の緑がうつる。この眼球が再び夏の空の突き抜ける青、活力にあふれた緑をうつせるとは思ってもみなかった。 東湊はファインダーごしに、晩夏の空を見上げた。東はかつて、視力を失った。混濁した眼球は、写真家であった東にとってあってはならないものだった。幸運にもアイバンクに献眼された眼球から角膜移植をすることができた。現在東の目の前の、美しく、鮮やかな風景は、誰かの角膜のおかげなのだ。
 毎日、この角膜をくれた誰かに感謝をしながらファインダーを覗き、シャッターを切る。
 その瞬間、鮮やかな視界に一瞬影がよぎった。
「……またか」
 眼球が正しく機能するようになったことは喜ばしかった。しかし、東の眼球は手術を受けてから一つ、問題を抱えていた。
場面2
 
 東が最初にそれを見た時思ったのは、手術の後遺症が出たのではということだった。 
 最初にそれが見えたは、手術を受け、普段の生活に戻ってすぐだった。
(なんだ?)
 ぼんやりと立つそれは、黒い棒のように見えた。それが人影だと判断できたのは、まるでこちらを振り向くように動いたからだ。その不気味な影は、ひとつ瞬きをすると消えてしまった。それから、その影は東にまとわりついた。見える時間はまちまちで、一日中ずっと見える時もあれば、一瞬でかき消えてしまう時もある。共通点はそれがゆっくりとこちらを振り向いてくること。そして、その影が段々としっかりとした形をとってくることだった。
 後遺症を疑い、かかりつけ医に相談してみるも、紹介されたのはメンタルクリニックだった。ストレスを抱えていたのかもしれないと、素直に紹介された医院に通い、薬も飲んだが、影は変わらずまとわりつくのだった。
 東が手術を受け、晩夏を過ごし、初秋を迎えるころには、その影の性別まで分かるようになってしまった。
 その影の顔は、ずいぶんと美しい男の顔をしていた。
承 
場面3 
 男は美しい顔をしていた。同性の東の目からみても、それは彫像じみた美を持っていた。それでも、まだ男は影のままだった。陽炎のように茫洋として、しっかりとした形を持たないもの。だから東もこの奇妙な現象に慣れつつあった。
 冬が近づき、指先のかじかむ日だった。手袋ごしに自販機のボタンをクリックした時、もう見慣れつつある男が立っているのに気がついた。自販機の真横にふっと現れたそれは、しかしもう影ではないかった。男はしっとりと笑っていた。おもわず怖じ気づき後ずさるが、男はにこやかに近づいてくる。そうして、男はチャンネルが切り替わるような唐突さで表情を変える。氷の無表情。その冷たさをはらむ表情のまま、男の手が伸ばされ、東の腕に触れようとした。男の指先には、ひっかいたようなあざがあった。
 東の視界は、そこでようやく元通りになった。男はかき消え、どこにも見当たらない。
 首筋の冷えで、東は自分がずいぶんと汗をかいていたことに気がついた。 
 見慣れた、美しいと思った男の顔が、薄気味が悪いものに見えた。
 
場面4
「それって、キオクテンイじゃないのか」
 知人に視界によぎる男の話をしたところ、聞き慣れない単語が飛び出した。何を言われたのか分からず、東は聞き返す。
「記憶転移っていって、臓器移植を受けた人とかが提供者の記憶を受け継いでしまうことだよ。俺もやけどの手術の時に皮膚の移植とかしたから調べたんだ」
 彼はそう言うと、ネットの記事を見せてくれた。つるりとした画面には、臓器移植を受けた後、思考や趣味が変わってしまった事例がまとめられている。
「でも俺はなにも今までと変わってないぞ」
「角膜移植で見えるものが変わったじゃないか。それにその男に見覚えはないんだろ?」
 「案外、『角膜の記憶』みたいなものかもしれないぞ」という友人の言葉がいやに記憶に残った。
転 
場面4 
 角膜の記憶、という単語は、冬の盛りになっても脳にへばりついたままだった。その間にも、視界の男の行動はどんどん変化していった。まず笑い、それから冬を思わせる無表情になり、やがて東の腕をつかもうとする。それに何時も失敗し、その後男はこちらをつかず離れずの速度で追いかけてくるのだ。東が止まれば、男も止まる。東が走れば、男も走る。消えるまでの時間も、いつの間にかずいぶんと長くなっていった。三日間男につきまとわれたある日、東は決心した。この角膜の持ち主について調べようと。
 決心した翌日、東は図書館のぽってりとした暖房の中に身を浸していた。どこか眠気を誘う暖房を振り切り、検索システムで新聞記事を探す。とはいっても、アイバンクから角膜提供者についての情報は何一つ与えられていない。東は、この角膜の持ち主が影の男を知っているかもしれないという、それだけの情報で新聞記事を探さなくてはいけなかった。
 ストーカー、男、つきまとい事件、アイバンク。
 様々な検索ワードで調べるが、一向にそれらしき記事を見つけることはできない。よくよく考えて見れば、手がかりは男の顔だけなのだ。土台、角膜提供者について調べるなど無理な話だったかもしれないと、諦めかけた。
 『25歳にストーカー容疑の40歳男が逮捕』という見出しが目に飛び込んでくる。それはこの近くで起きた事件のようだった。これで諦めようという気持ちで記事を閲覧すると、見覚えのある男の顔が視界にうつった。
「文峰翔太……」
 それはあの影の男、文峰翔太が25歳の受付女性をストーカーしていたという記事だった。かなり悪質なつきまといで、GPSなども利用していたことなどから、けっこうな紙幅を割かれている。文峰翔太という名前で調べると、彼が被害女性の死後も彼女の墓を漁るなどして捕まったという記事が出てくる。
 東の背筋に悪寒が走った。
 あの影の男が陽炎ではなく、現実に存在するということが、無性に気味が悪かった。
結 
場面5 
「じゃあ、本当に角膜の記憶は存在したのか」
 のんきに驚く知人に、東はなんだか気が抜けてしまい、影の男の恐ろしさを忘れた。
「まあでも、視界にうつるだけで実際に男が居るわけではないんだろ?」
「そうだけど、GPSまで使うようなストーカーだぞ? 追いかけられるだけで恐怖だよ」
 なにせ視界に男はちらほら現れるのだ。角膜の記憶だとしても、まるで自分が追いかけられているような気分になる。
「案外近くに居たりしてな」
 彼のたちの悪い冗談に苦笑を返す。
「まあ、とりあえず今のところは気にしないことにするよ」
 彼の「お疲れ」と乾杯する指に、ひっかいたようなあざがあるのが見えた。東は、それを最近どこかで見たような気がした。奇妙な既視感が胸に残る。
「そういえば手術してたんだな。初耳だったよ」
 そう言う東に、彼はあざのある指で頬をなぞった。
「ああ。ちょっと、顔をな」
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