『野尻湖』
 チームリーダーのだぶついた二重顎を眺めながら、私は「野尻湖に行きたい」とそう思った。最期に訪れるのは野尻湖にしようと。その時の私の判断が正常だったかどうかは確かでない。なぜなら私はその時毎日ストロングゼロを煽り、タクシーで家に帰宅し、電車で会社に行き、脂ぎった上司に叱責される生活を送っていたからだ。なにか超自然的なものに人生を終わらせて欲しい。突然病んだ女が刺してきたとかでもいい。そんなことばかり考えていた。「野尻湖に行く」という思いはその老いた日々に潤いを与えてくれた。
 しかし社畜として生活していると、旅行に行くほどの休みなどとれなかった。私は野尻湖に行けないまま、冷蔵庫を新調し、馬鹿でかいスーツケースを買い、上司への怒りで血迷って縄と肉切り包丁を買い、はたまた眠れなくなって睡眠薬を買ったりした。ただ生活に金だけが費やされていった。
 結局私が野尻湖に行ったのは、仕事をすっぱり辞めたその日のことだった。仕事場はトラブルでてんやわんやで私の退職どころではなく、私はただ皆の机に菓子だけを置いて職場を去った。
「くそが! 辞めてやったぞ! くそが!」
 そう叫ぶ私を、レンタカー屋の男がぎょっとした顔で見つめる。そんな視線など全く気にならなかった。レンタカーを借りたら財布の残金が1000円になったが、それも全く気にならなかった。退職して人生の超えてはいけない一線を越えてしまった私は、なによりも自由だった。誰かの視線も気にならないし、金なんて野尻湖を見ながら飲む酒代だけあれば十分だった。
 そのままレンタカーに乗り込む。小柄な私を心配したのか、レンタカー屋の男がスーツケースを入れるのを手伝ってくれようとしたが断った。レンタカーは全然趣味じゃないファンシーな色のラパンで、職場だけじゃなくレンタカー屋にまでこのなりで舐められるのかとむかついて蹴った。レンタカーは返すつもりがなかったので、蹴って扉がへこんだが気にならなかった。私がこの世で一番嫌いな、私の見かけに似合う車をよこすのが悪いのだ。そのまま趣味の悪いラパンで、野尻湖に向かった。
 私はただ、野尻湖に行きたかった。そこには幼い頃両親が連れていってくれたプリンスホテルがあるはずで、そこに行けば全ての鬱屈を忘れられると信じていた。細い参道を走る。両端には背の高い木々が直立して並んでいた。
「どう! 私素は陰気じゃあないんだよ!」
 テンションが上がってスーツケースに話しかける。気分がよかった。千円で買えるだけの酒を買って飲んでいたせいかもしれない。酒を飲んで乗る車はマリオカートみたいで妙に楽しかった。お気に入りのストロングゼロだけは野尻湖を肴に飲もうと残して、私は道路をひた走った。
 果たして、野尻湖は記憶どおり、静謐な空気を沈殿させてそこにあった。
 私が小さいころ色鉛筆で画用紙に描いたのと、同じ光景がそこに広がっていた。
 呼吸をすれば、水気を含んだ空気が肺を満たす。
「……最高」
 私はストロングゼロのプルタブを開け、ついでにスーツケースも開けた。
 ビニール袋に入れた、半解凍の上司の体がスーツケースからまろびでる。
 上司は肉も背丈もたいそうあったものだから、でかい冷蔵庫でも凍らすのにずいぶんかかってしまった。自分で自分の無計画さを呪った。思えば上司の酒に睡眠薬を盛った時から考えが甘かったのかもしれない。でもまあ、ストロングゼロが美味しいし、野尻湖は綺麗だし、いいか。
 私はそう思って、上司の死体を野尻湖にぼちゃぼちゃと流し込んだ。
「やべ死体って浮くんだ」
 ぷかぷかと浮く上司を見ながら、酒に侵された頭でまあいいかと思った。
 人生最後の景色として、真っ赤な野尻湖はなかなかおつだった。
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