できました終わります
俺のどこがいいの。
そんな言い方で、東に、俺の好きなところを言えよ、と強請っている。甘えを、この歳になって、やめられずにいて、それだから余計に「こんな男のどこがいいの」となるのだが、いい大人がぐずぐずと年下に泣き付いて、ずるいよなあと思う。
でも東は、「ずるいところ、ぐずぐずしてるところ、かっこいいところ」などと言ってくる。
こういうときに、お前のこと好きでごめんって思う。あーあ。
恋人ということになった。
が、職場の中でもいつも通り、職場の外でもいつも通り、何ら変わらなかった。お互い、自宅を殆ど寝るためだけの部屋扱いしていると分かっていて尚、何の行動も起こさなかった。具体的に言えば「もういっそ同棲とかするか」なんてことは、俺も東も言わなかった。
お互いに知っているからだ。荷物が意外に多い。キャンプ用具も、ゲームハードもレゴブロックもそう。小さく片付けることが困難な趣味。二部屋に満載されたものは一部屋には収まらない。手離すと買い戻すのが面倒で、溜め込む。二人ともそんなところは似ている。「仕事じゃないんだから、後から困るくらいなら現状維持でいい」。そう思ってしまうところが。
恋人になってから初めての、恋人の誕生日だった。
こういうときはきちんとするべきなのだろう、と思う。思うと、それはひどく億劫で、億劫がる自分が嫌になる。けれど、ここに来て東は、きょとんとした顔で「じゃあ、何か、誕生日……っぽいこと? とか、します?」と言ってのけた。思わず俺が『お前、あの東春秋だろ? いいのかそれで?』と問い詰めたくなるような台詞を抜かしていたのだった。意外に、記念日に疎いんだなあ、と驚く。
それでも今日の仕事終わりには、いつものように二人で飲みにいく足を少しばかり、きちんとした料理屋に向ける。最近は年始休みを一月二日までにする、あるいは、元旦のみにしてしまう店が増えた。おかげさまで、誕生日を祝い合う恋人同士に相応しいグレードの食事ができている。途端に、記念日を意識してしまい、ばつが悪い。東の方は、きっと努めて、普段通りの振る舞いをするようにしているだろうから。
東から向けられる視線の角度に、言葉の温度に、やわらかいものを感じている。だから、好かれていることを疑っているわけじゃない。疑いようがないから、それに応えてやれないことに引け目を感じている。
好きだけで好きに応えられるシステムなら、よかった。けれど、世の中はそういう風にできていないと俺は思っている。実際、東も東の体も、そうだった。俺の前に不特定多数との経験があり、“そういう”気分のときには俺を、俺の声や視線や吐息、はたまた皮膚や爪の感触、或いはそれの温度それによる愛撫嵌入摩擦、つまり性交を求めた。でも俺の体はそれに応えられない、俺の意思に反して。
そんなことを考えていても結局、いつも通りに一番楽しい話ばかりをしていて飲み過ぎた。仕事の、特にお互いの得意分野の話。実践、検討、反省、日進月歩の成長を止めない東はかっこいいと、そういうところも好きだと、ふっと頭に思い浮かぶ。だが、それが思い浮かぶと連鎖的に「こんな俺が、東を好いているなんて」まで引っ張り出されそうになった。だから、酒を飲んで押し戻している。結果、飲みすぎる。
お開きになってみれば、今夜は東も強かに酔っていた。
何気なく、肩を貸してくれる。その何気なさが、うれしい。急に関係を変えない今を、現状維持の今を良しとしてくれる東、そんな東との関係を変えられてよかったと、安心できる。勝手に安心している。ごめん。また謝っている。頭の中だけで。
「もう重いんで、タクシー……」
続く言葉は、のります、なのか、よびます、なのか分からなかった。
東、いかないで。
唇だけが動き、でも声にはならなかった。嘘みたいだった。わるいゆめ。
「ここに居てください」
同じ高さにある口から、無情な台詞がやわらかい口調で寄越され、俺はコンビニの前に置いていかれた。
まだ眠らない街、俺ばかりが、足をふらふらさせて、街はまだあかるい。アスファルトの上には誰かが捨てていった吸い殻が消えずに燃えていて、吸いたくなる。現金な体だなと我ながら叱咤したくなる。この煙草がどこかに引火でもしたら、普段の仕事も無に帰すが。火種を踏み消した。そういえば食後の一服をつけていない。酔った体に夜風が気持ち良くて忘れていたのだけれど、一旦気づいてしまえば吸いたくなる。
「どうぞ」
思ったより早く戻ってきた声がして、顔の横に何かが差し出されている。振り返り受け取ってみれば、差し出されたのはドリンク剤だった。ちょっとだけ以心伝心を期待したが、煙草じゃなかった。ラベルには肝臓のマークがでかでかと入っている。
東、これ、いまから飲んでも効くの?
「なんて言いました?」
呂律が回っていなかった。自分の発した声をきく聴覚すらも頼りなく、自信がない。東の問いかけが笑声まじりであることだけは分かった。
体の表面が熱い。腹の底にだけ、悪寒みたいに堅い低温が、塊になって燻っている。
東は、酔っぱらいが何を宣おうがさして気にした風でもなく、俺が握ったままのドリンク剤をそっと取り上げた。その、今から俺を救ってくれるんだかそれとももう見放しているんだか分かりゃしない肝臓マークの、瓶の蓋を、開くまで捻った。そして手渡してくれる。ごくごく飲みほしてから、東を見た。レジ袋なしにどうやってか、軟水のペットボトルを二本持っていた。準備が良い。やさしい。
もし三十分前の俺が迷った最後の一杯をやっぱりやめておいたなら、舌が上手く回る程度の酔いに抑えられていたのなら。
そうしたら俺は「東ってほんと俺のこと好きだよな」とか言って、その献身を可愛がっていたと思う。そういう薄甘いやりとりがいかに東をよろこばせるか、よろこばせながら苦しめるか、俺はよく知っていて、それでもそうしたと思う。だって、素直に口にしたらそうなるのに、体が応えられないだけでちゃんと好きなのに、他にどうしたらいいんだ。わからないから今日は普段より多く飲んだ。俺が、今この瞬間この世で一番だめな大人だった。
だめな大人は、大好きな俺から目を離して道路を見ている恋人を呼ぶ。
「東、手え貸して」
左手。催促すれば、こっちを一瞥して素直に手を出す。視線は、すぐにするりと向きを変え、がらんとした道路にタクシーが見えるのを待っていた。東の手を守っている、すらっとしたシルエットの手袋を脱がせる。
「寒いんですか? つかっていいですよ」
苦笑する東の薬指に、ぶかぶかの輪をはめた。ドリンク剤の、蓋からちぎれた輪を。
「結婚しよ、東。今だけでいい」
してくれ、とは言わなかった。俺だけが東に頼むんじゃない、東の方も「できるもんならしてやるのに」くらいに思っていることは知っている。社会の顔色を窺うことに疲れている俺たちは、実のところ、所謂“普通”なるものへの憧れがないわけじゃなかった。
東、俺の東。なさけない男のわがままをいつでも許してくれるお前でいてほしい。今だけ、と言いつつ。その契約が約束とどう違うのかも判然としていない駄目な大人だが、でも俺も東も、そういう契約が大手を振って闊歩しているこの世に、夜に朝に昼に、うんざりしながら血反吐を飲みこみ自分の血で喉を焼きながら、どうしようもなくその“普通”なるものが綺麗なものに――自分なんかには手の届かないものだということは、すなわちそれが綺麗なものだからだと――思えてしまう、そういう風にこの歳まで育ってきてしまっていて。
今だけと言いつつ、ほんとうは、ずっとどうにかなってほしかった。どうにかなるもんなら、なりたかった。
「いいですよ。スピード離婚ですね」
冗談に冗談を返すような何気なさで、東は答えた。そのくせ、タクシーに乗るときも、降りた後も、東はそのリングを外さなかった。切り口の鋭い金属片をまとわりつかせた、何にも守られていない指を握りこんで、落とさないように、なくさないように、健気に左手を冷やしていた。
そういう健気な東のことが好きで、与えられる好意に胡坐をかくべきでないと分かっていたけれど、東の本当にほしがるものはあげられないとも分かっていて、この不能の体の芯は今夜も冷えている。
俺が東の冷え切った手を握ってやれたのは、東の部屋に入ってドアを閉め、二人きりになってからようやくだった。誰の視線も、何の灯りも届かない場所でないと、そうすることはできなかった。
(了)