「虹が出ているわね」
半分。いや、換気のために僅かにあけられた窓に背を持たれさせて、果林はスマートフォンの操作に勤しんでいた。
十中八九、SNSの定期更新。果林が練習や授業の合間、マメにファンに情報発信を行っていることは同好会、いや、果林のファンを含めて多くの人間が知っているという事実。彼女なりに悩んだ末に投稿していることが多いらしい。部室でたった一人真剣に液晶に手を滑らせる彼女を見て、せつ菜は挨拶も小声にそっとしておくことにしていた。
だというのに、向こうから。
虹。窓の向こうはまだ小雨が降っている。これだけの曇天の中、虹どころか雲の切れ間としての青さえ見つけることは困難だ。
「……出ていませんが」
「そう。虹だ虹だって騒ぐ声が聞こえたから、そうなのだと思ったけど」
「見れば分かりますよ。首ぐらい動かしたらどうですか」
それとも、回らない状況ですか。なんて言えるほど無神経ではない、机の上にカバンを置いて、せつ菜は一先ずのびをした。
朝香果林。彼女に特別気に入られているという自覚はある。その彼女が今、自分をほぼほぼ意識もしていない。この状況は存外に珍しいから、じっくりと果林の顔を覗いてやる。「……無駄に整ってますね」、「有用よ。この体であなたの顔だったらアンバランスすぎるもの」。前言撤回。意識はされている。
「……虹が出たなら、果林さんこそ喜んで写真でも取りそうなものですけどね」。映えますから、とは続けなくても伝わるだろう。「虹は、あまり好きじゃあないのよ」。実はね、果林がスマートフォンを胸ポケットに潜らせて腕を組む。「意外って顔しないのね」。
「別に……果林さんですし」
余計な修飾語をつけたらセクハラとしてのスキンシップが飛んでくることは間違いない。「そういうもの」も嫌いではないが、今はその気分ではない。余計に果林を煽る事は避けて、せつ菜は果林の隣で窓を開け放つ。低気圧がもたらす強風に、解いた髪の毛が散々波打った。
「ひねくれてるんだろうな、とは思いますよ」。ついでに、気も変わった。果林に火をつけたら、早速太腿に人差し指をつうっと這われた。「……反応薄いわね、つまんない」。「慣れっ……たんですよ、こっちだって」。「喋ればまだまだウブね」。何か不満でもあるのだろうか。スマートフォン弄りが終わってもなお、窓から背を向けたままだ。
つまんないのは、こっちもですよ。窓から外の世界を見落とせば、今日一日降り続いた雨の処理に運動部が追われていた。校庭ではスポンジとバケツが大活躍。部室棟まわりでも、練習場所を追われた生徒達がすし詰めになってアップを行っていた。その中にはかすみの姿も見えた。人波の中で溺れてしまい、うざったるそうにヘアピンを気にしている。
微笑ましくなるのと同時に、燃えた。
私達も練習に行きましょうか。かすみに触発され、せつ菜の手を握ろうとする。
握れなかったのは、果林の手がそこになかったから。
口を開けなかったのは、果林の顔が自分にさえも向けられていなかったから。
何かありましたか。単刀直入に聞けないのは、多少なりとも彼女をライバルとして認知しているからだろうか。それとも慢性的かつ恒常的な自身の欠陥だろうか。言葉と態度で人を傷つけた過去は存外にせつ菜の行動を今でも縛り付けている。
それでも。
「何か、ありましたか」
「ねえ、せつ菜」
せつ菜が勇気を握りしめたのと、果林が零したのはほぼ同時だった。ほうっと息を吐き出して、果林は右手を部室の照明にかざす。せつ菜。今日初めて、名前を呼ばれた気がする。
「私たちは、虹ヶ咲学園のスクールアイドル同好会よね」
「……それは、そうですけど」
「ちょっとね。思い出したのよ」
果林が一瞥したのは部員のロッカー。釣られて見てみれば、歩夢のロッカーから何かはみ出している。紫色のひょろひょろとしたそれには見覚えがあった。
「虹は縁起が悪いわ」
「……何を突然。そんなことを気にするとでも」
「雨のせいよ。それ以上でも、それ以下でもない」
歩夢のロッカーから蛇のぬいぐるみをとりだす。率先して可愛らしいと言いたいデザインではないが、可愛いといえば可愛いかもしれない。「サスケは可愛いねえ」。それこそ部室にもってくるぐらいまで愛でている歩夢は少しズレている気がするけど。
「虹は蛇の象徴。知ってる?」
「まあ。確か、蛇が空を貫いて虹ができると中国では言われていたとかで。蛇自体も不吉の象徴ですし……」
「そんな詳しいところまでは知らないけど。虹は不吉って私の田舎では言ってたのよね」
子供はそんなこと、信じちゃいなかったけど。果林がグッと伸びをして、せつ菜と目を合わせる。
その瞳の色に名前をつけられるほど、せつ菜は器用な性格をしていない。
「……さっきね。悪夢を見たの」
「悪夢?」
「まあ、六限の睡眠学習中にね。せつ菜が蛇に飲まれる夢」
「ハッ……私は死んでも死にませんけどね」
「たまにはセンチになるわ。それぐらいの理由でもね。ああ、恨めしいわ、この気圧が」
果林が足を組み替える。そういう日、なのだろう。果林は随分と重いようだと聞いたから、相当気が滅入ってしまっているのかもしれない。
本当であれば生活規則を正した方が生理痛には効くとでも言った方がいいのだろうけど。
せつ菜はゆっくりと目を閉じて、サスケを抱えたまま果林の目の前に立つ。見上げる彼女、この十三センチ差がせつ菜は好きだった。「私は、虹が好きです」。「でしょうね」。呆れたように果林がせつ菜の頭を撫でた。
「だって、虹は吉兆の前触れです」
「せつ菜はそっち派よね」
「ええ。綺麗ですし、私達の学校の名前ですし。それに、雨があがるんですよ」
手を握る。相変わらず体温が低い。筋肉はある癖に基礎代謝が低いのだろうな。まだ参ったように眉間に皺を寄せている一個年上の好敵手に、せつ菜は数センチだけ背伸びをして。
「雨上がりに、虹が出る。虹は、良いことそのものですよ」
「せつ菜、明けない夜はないとか越せない冬はないとか、そういう言葉好きでしょ」
「バレましたか。果林さんはそんなに好きじゃあなさそうですけど」
「ええ。今すぐこの世から生理がなくなってくれるんなら信じてあげてもいいけどね」
心配していることがバレてしまっている。かなわないな、せつ菜はべろを出して、背伸びをやめた。
やはり、この角度が落ち着く。飛び込んでしまえばすっぽりと収まってしまいそうな、いつもの視線が。
「……虹が出てますね」
「出てないでしょ。窓開けきったらよく聞こえるもの。雨音、まだ続いてるわ」
「いいえ、出てますよ。綺麗な虹です」
ほら。せつ菜が指させば、果林はようやく窓の外の世界を眺める。チリトリに集める前の埃を水に溶かしたかのような空に、果林は思わず吹き出した。「酷い虹ね」。「いいや。素晴らしく綺麗な虹です。ほら、あそこに。私の目には確かに見えていますよ」。ぐいと果林の手を引っ張って、果林の胸に手を当てる。突然のスキンシップに心底驚いたらしく、果林はビクリと跳ねて。それがあまりに朝香果林らしくなくて、朝香果林そのもので。せつ菜はしたり顔で果林の脈拍を感じた。
「……私の見えているものをあなたに伝えることはできませんから。でも、問題です。どうしたら私の虹はあなたに信じてもらえるでしょうか」
ちなみに、答えは二つです。ニッと歯を見せたら、果林は頭をかいて蛇のぬいぐるみを受け取った。「信じるしかないでしょ、私が、あなたを。信じるわ、信じるわよ、せつ菜」。「その通りです」。サスケが机の上に置かれ、果林が窓から身を乗り出す。小雨はまだ止む気配がない。それどころか、より強まっている。「……ちなみに、もう一つは」、「信じさせる他ない、でしょ。大丈夫、残念ながらさっき信じたじゃない。悔しいけどね」。果林の眼光が、鋭い。「分かってるじゃないですか」。
「けど、私にはいやらしい虹にしか見えないわね。この世のゴミを纏めた現代アートが見えるわ」
「それは受け取り手の解釈です」
「……待たせたわね。せつ菜、さっき飲み込んだ言葉、吐き出していいわよ」
二度目は、口に出すのをやめる。
この数ヶ月、この感覚が堪らないほどに好きだ。自分が常に喉元を狙われている、ひりつくほどの空気感が好きで好きで仕方ない。
気を抜く暇もない。そんな地獄に背中を押したのは紛れもなく彼女だ。
朝香果林が、優木せつ菜を追い立てている。
「……練習行きますよ」
「了解。雨は上がってるんだものね、それに」
そこでようやく。果林は今日一番わかりやすい感情をせつ菜に晒した。
「……私の虹は、あなたに信じられてないようだから。せつ菜」
優木せつ菜が、追われている。
「虹が出てたわ。あなたがここに来た頃、嫌になるぐらい大きな虹が」
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VSぱせり先生 お題「虹」
初公開日: 2021年01月16日
最終更新日: 2021年01月16日
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