喫茶店爆処
仕事の合間の昼休憩。パスタだのオムライスだのちょっと値の張る昼食、いや、ランチを食べに行こうと誘う同僚にやんわりと断りの言葉を返して会社を出た。
毎日毎日おしゃれなカフェに行って、量の少ない彩りや見た目を重視した食事を取れるほどお金に余裕はないのだ。それに食事中も上司や取引先の愚痴ばかりでせっかくの料理も美味しくないし。そう考えながら高い建物が建ち並ぶコンクリートの森をたらたらと歩く。昼休憩は一時間。早く昼食を終わらせて会社に戻らなくては。しかしまぁ、それにしても……
「寒いなぁ……」
暦の上では春だというのに薄手のトレンチコート一枚では肌をさす冷たい風を凌ぐことができない。まだまだコートもマフラーもポケットカイロも手放せない日が続いていた。
どこでもいいから店に入ってしまおうと考えて地面を見つめていた視線を上げる。
どこを見たって高いビルしか目に入らなくて、一人で入るには気が引けてしまう。こんなことなら愚痴ばかりで美味しくないように感じてしまう食事でもいいから一緒に行けばよかった。
少しだけ後悔しながらもほんの少し高いヒールでコンクリートを鳴らしながら歩き続けると、コンクリートが生い茂る都会では珍しい木造りの建物が目に入った。
二階建てのこじんまりとした建物だ。重たそうなガラスのはまった扉のノブには営業中の看板が下げられている。どうやら喫茶店のようだが、扉の足元にはこの店の名前だろうか。
“I HIVERイヴェール]”
そう書かれた看板の文字を小さく復唱する。聞き慣れない単語だ。意味はあるのか、それとも造語なのか。そんなことを考えているうちに、私の足は喫茶店に向かって歩みを進めていた。
少し重たい扉を引くと湯呑みをひっくり返したような鉄のドアベルがカランと音を鳴らした。想像していたよりも高くて控えめな音だった。
香ばしいコーヒーの香りと優しい木の香り。普段会社で缶コーヒーはよく飲むが、そんな単純な香りではなくもっと深い、落ち着いて安らぐような優しい香りである。どこか安心するその匂いにつられて、つい鼻を鳴らした、その瞬間。
「お、いらっしゃいませ!」
少し低い男性の声が私の耳に届いた。店に入ってすぐに匂いを嗅ぐなんて恥ずかしいことをしている自覚はあったので、居た堪れない思いを感じながら、そろり、と声のする方を見やる。カウンター席の近くで立っていたのは、そう簡単にはお目にかかれないであろうイケメンで、咄嗟に「ひぇ……」と小さく悲鳴を漏らして一歩後ずさった。
優しげに垂れた瞳とつり上がった眉。スッと鼻筋が通っていて、老若男女、誰彼構わず惚れさせてしまうような人懐こい笑顔。少し長めの真っ直ぐな髪を首元でひとつに結えていて、男性にしては長い髪も不潔に見えない。すらりとしていて身長が高い、いや足が長いというべきか、とにかくスタイルが良いのでシンプルな黒いカッターシャツとクリームをたくさん混ぜたモカみたいな薄い茶色のエプロンがよく似合っていた。
ここはホストだったのか?と止まった思考で考えて店内を見渡すがどこからどう見ても喫茶店だ。しかも古き良き、趣きのあるレトロな喫茶店。
「どうぞ、お好きな席に」
そう促されてゆっくりと足を進める。こんなイケメンのいる喫茶店で心を落ち着かせて食事なんてできるだろうか。いや、無理だ、と心の中で頭を抱えて数秒前の自分を恨む。
気を張りながら食事をするのが嫌で同僚の食事を断ったのに、と頭を抱えるが時すでに遅し。こんなイケメンに誘導されて逃れる術はないのだから。
値段が高かったらどうしよう。
腰を下ろしたテーブル席にはおすすめ商品のポップどころかメニュー表すら置いていない。最近は一概に喫茶店といっても全く手頃ではなかったり、コーヒーだけしか置いて無かったりするところもあるのだ。昼食にありつけなければ午後からが大変だ、と考えながら小さな腕時計に目を向けた。時刻は十二時四十分。残りの休憩時間はあと五十分だった。
カウンターでお冷とおしぼりを用意する店員さんを見つめる。私の接客をしてくれた店員さんの他にもう一人店員さんがいたようで、カウンター越しにお冷とおしぼりを手渡していた。ふわふわとした髪は天パなのかセットなのか、どちらにせよ少しあそびを入れて綺麗にまとめられており、まるくて猫みたいな瞳をじとりと細めて話をしている。この店員さんも、接客してくれた店員さんに負けず劣らずかっこいい。整った顔をついまじまじと見ていると、メニュー表らしきものを手渡した後目があった。
パチリ。
意図せずぶつかってしまった瞳に驚いて慌てて逸らそうとしたが、その整った顔に見惚れてしまって視線を逸らせなくなってしまった。まるでメデューサと目があってしまったかのように、魅了されて、指先すら動かせない。
そんな私の心情を知ってか知らずか、カウンター内の店員さんが、ふっ、と口元を綻ばせて笑みを浮かべるものだからたまったもんじゃない。
甲高い叫び声が飛び出しそうになるのをすんでのところで抑えて、唾液と一緒に胃のなかへと流し込む。他のお客さんがいないとは言え、迷惑になってしまうところだった。自分のものとは思えないくらい素早く打ち続ける心臓を宥めながら、どうにか会釈して前を向く。無理だ、こんなところでゆっくり食事なんてできない。宥められない心音に苛まれながら、まるで大人しく座っていられない子どものように忙しなく身体が動いた。
「遅くなりました」
ことり、と目の前にお冷とおしぼりが置かれ、少し離れてメニュー表が置かれる。料理の写真もない文字だけのメニュー表。分かりにくいように思えるが、実際はそうでもない。文字だけでも分かりやすい聞き慣れたメニューがほとんどであり、なによりこのレトロな喫茶手の雰囲気に合っていてとても良い。
「ありがとうございます」
メニュー表を見ながらおしぼりを手に取ると、じんわりとした暖かさに包まれた。冷えた指先に熱が移る心地良さを感じて、無意識に身体に入っていた力が抜ける。力が抜けて、緊張も緩んだようで、つい私のくちから言葉が漏れた。
「あったかい……」
指先が暖まっただけなのに、心まで温まったような気がするのは、この喫茶店の優しい雰囲気のせいなのだろうか。自分の頬が緩むのを感じて、意識的に気を引き締める。イケメン店員さんにこんな腑抜けた顔を見せるわけにはいかない、と思って口を結んだが、どうやら遅かったようだ。クスクスと気の抜けたような笑い声をこぼして私を見ている、髪を結んだ店員さん。
「あ、つい……あの、外、寒かったんでっ……!」
店員さんの馬鹿にするでもない、ただ人好きのする含み笑いを聞いて、恥ずかしくなって事実を述べるが、焦ってしまうせいで逆に嘘くさい。徐々に顔が赤くなるのを感じながら店員さんを咎めるように不満の視線を送ると、私の視線に気づいたのか、わざとらしく咳払いをした。
「もう春と言えど外はまだ寒いですよねぇ。俺も外に出る時はカイロも連れて行きますよ」
まるでペットかなにかのようにカイロのことを表現する店員さんがかわいくて、クスリ、と笑みをこぼす。私の嘘くさい言葉に気の利いた言葉を返してくれて、なおかつお茶目な様子を見せる店員さんに好感度が一気に上昇した。「そうなんですね」と声が震えずに言えたかどうか定かではない。
イケメンでかわいいという絶滅危惧種のような店員さんの素晴らしさに正気を失いそうになる。しかし、そんなわけにはいかない、と思い切り机に頭を打ち付けようとする心中の自分を悟られないようにと、メニュー表を手に取って一通り眺めた。
「えっと、ナポリタンと……オリジナルコーヒーをホットで」
「コーヒーはお食事とご一緒でよろしいですか?」
「は、はい!」
「かしこまりました! 少々お待ちくださいね」
丁寧な対応にますます好感が持てる。店員さんの後ろ姿をぼんやりと眺めていると、ふわりとコーヒーの香りが強くなった。カウンターの店員さんが紙袋から取り出したのは、コーヒー豆。
「松田ァ、オリジナルひとつな!」
先ほどとは打って変わって、砕けた口調。カウンター内のふわふわな髪をした店員さんは松田さんと言うらしい。
「おー。萩、鉄板その下の棚ン中だ」
「あいよー」
髪を結えている店員さんは萩さんと言うらしい。
松田さんと萩さん。二人の名前を心に中で復唱し、覚える。こんな素敵な喫茶店なのだ、また来たい、と思う。もうすでに入った直後の緊張が無くなって、居心地の悪さも感じていなかった。
どうやらキッチンは裏にあるらしい。小さな鉄板を手に持った萩さんが“STAFFONLY”の扉の向こうへと姿を消した。
コーヒー豆を挽く音が聞こえる。豆を挽く動作も、ペーパーフィルターを折る動作も、全ての動作が丁寧で手慣れていて、そしてとても似合っている。
くるり、と銀色のポットから緩やかな一筋のお湯が流れて、芳ばしいコーヒーの香りをより強くした。
嗅ぎ慣れた缶コーヒーとは全く違う、心が安らぐ優しい香りを肺いっぱいに吸い込みながら頼んだ料理が届くのを待つ。休憩時間は残り四十五分。料理が届いてゆっくり食べても充分間に合うだろう。
そんな事を考えながらコーヒーを淹れる松田さんの姿から視線をずらし、自分の携帯を見つめる。丁度同僚がランチを食べ始めたらしい。大きな白い皿に少しだけ盛られたオシャレな一品を見て眉を寄せる。嫌いではないのだがやはり好きではない。お高い料理も、少ない料理も、駄弁ってばかりで食べる頃には冷えている料理も、心が温まらないのだ。ぼんやりと携帯越しに料理を見つめていると、ガチャリ、と扉が開いて鉄板用の木台の上に熱々の鉄板と赤いナポリタンが乗ったものを持ちながら戻ってきた。
トマトケチャップの焼ける匂いが店内に広がる。コーヒーとナポリタン。喫茶店らしい料理と美味しそうな香りに小さくお腹が鳴った。
生理的な現象だが、恥ずかしいことに変わりはなく、ナポリタンを運んできた萩さんに聞こえてないか、とおそるおそる顔色を窺う。
「お腹すきましたよね。待たせちゃってすいません」
ふわり、と笑顔を浮かべてそう言うものだから、恥ずかしさと見目の良い萩さんのかっこよさでぶわりと体温が上がった。「イヤ、ダイジョウブデス」なんて片言で答えるのが精一杯である。
「はい、鉄板ナポリタン! 熱いから気をつけて」
目の前に置かれて、熱い蒸気と一緒に香りが届く。熱くて、あったかくて、美味しそうだ。
「いただきます」
「どーぞ、おあがりください」
楽しそうに笑って言われる言葉が、一人暮らしをし始めてから久しく聞かなくなった言葉で、じんわりと心が温かくなる。ナポリタンと一緒に運ばれてきたフォークで一口巻き取り、口に入れるとケチャップの美味しい酸味が口いっぱいに広がった。
「っ、あふい、んっ
おいひい!」
「そう? よかったー!」
火傷しそうに熱い口腔内を冷やすためにお冷に手を伸ばしたところでコーヒーが運ばれてくる。
「ブレンドコーヒー、待たせちまって悪りぃな」
ぶっきらぼうな言い方を萩さんは咎めるが、松田さんは適当に流す。その様子がコントみたいで、二人の仲の良さがありありと分かって自然と笑みが溢れた。
一口、コーヒーを飲むと、苦味と酸味のバランスがとれたコーヒーと独特の芳しい香りが口腔内いっぱいに広がる。雑味のないまろやかなコーヒーの味は自分が飲んだことのあるコーヒーと全く違って、パチリ、と思わず目を瞬かせた。
「このコーヒーとっても美味しいです!」
コーヒーと松田さんを交互に見て言葉が零れる。そうだろう、と自慢げに頬を緩める松田さんを見て萩さんも目を細めた。微笑ましく見守るような視線になんとなく他意を感じて、気づかないふりをするためにもう一口コーヒーを飲んでナポリタンを食べ進める。
「松田のコーヒーは世界一だからな」
「世界一は言い過ぎだろ。美味いのは否定しねぇけど」
自慢げな表情をしながら言うものだからつい笑ってしまう。こんなに心地よく美味しい昼食が食べられたのはいつぶりだろうか。自分では気づいてなかったが相当疲れが溜まっていたようで、二人の創り出す心地の良い雰囲気にあてられたのか、心の翳りがポトリと落ちた。
「あら……泣くほど美味しかった、かな?」
「んなわけねぇだろ」
萩さんの頭を叩く松田さんと痛がる萩さんの掛け合いを見て思わず吹き出す。あぁ、なんて居心地の良い喫茶店なんだろうか。なんでも言ってしまいそうだ。他人の愚痴なんて聞きたくないだろうに、面倒くさいだろうに、開いてしまった口から出てくる言葉を止めることはできなかった。
同僚とのランチにお金がかかって仕方ないこと。量の少ない見た目を重視したおしゃれな料理も、冷め切った料理も私の好みじゃない。それでも周りの目が気になって断れず、波風立てぬように悪口を肯定する自分も嫌いなのだ、と文句ばかりが口をついて出る。
これじゃあ私も同じだ。愚痴ばかり言う同僚と同じだ。
「すみません……こんなこと、言うつもりじゃ……」
謝ってから再びフォークを持つが、美味しいはずのナポリタンがしょっぱく感じる。せっかく心地の良い空気だったのに、壊したのは私だ。申し訳なくて居心地が悪くなる。二人の顔が見られなくて、俯いたまま食べ進める。この無言の時間も居心地が悪いが、二人が次に発する言葉も聞きたくはなかった。面倒くさい女だとは思われたくなかったのだ。
静かな店内で聞こえてきたのは萩さんの声だった。
「えらいね。場の空気を壊さないようにしたんでしょ」
想像とは違う、砂糖を五個も六個も入れたような甘い声で優しい言葉を投げかけてくれる。つい甘えてしまいそうな声に、抑えていた涙が決壊して零れ落ちた。
「たまには断ったっていい。いつも頑張ってんだろ? 休憩くらい気を抜いたってバチは当たんねぇよ」
「そうそう、休憩は労働者の正当な権利なんだから!」
陽だまりのような温かい言葉がじんわりと胸に染みていく。
「あ、りがとう、ございます……!」
服の袖で涙を拭うと「だめだよ!」と萩さんに止められる。涙で濡れた、きっと化粧も落ちたであろう顔で見上げても、萩さんは優しく笑うだけだった。
「目が腫れちゃうからね。あったかいおしぼり持ってきてあげるから待ってて」
「いいよ、俺が持ってくっから」
「ん、さんきゅ!」
カウンターに戻った松田さんが暖かいおしぼりを持って来てくれたので、ありがたくいただいて目にあてる。
「食べるのは落ち着いてからでいいよ」
「冷めちまったら淹れ直してやるよ」
それは申し訳なさすぎる、と思い落ち着いたところで途中だった料理に再び手をつけた。鉄板のおかげかまだ熱を持ったナポリタンと少し冷めたコーヒー。鉄板に盛られたナポリタンは美味しくてすぐになくなった。半分ほど残っていたコーヒーを飲みながら、ほっと一息つく。
チラリ、と時計を見ると時刻は十三時十五分。
「そろそろ戻らないと……!」
最後の一口を飲み終えて席を立つ。カウンターにいる二人はすぐに気がついてくれて、すんなりと会計の準備をしてくれた。ブレンドコーヒーとナポリタン合わせて八百五十円。あの美味しいコーヒーと鉄板皿いっぱいのナポリタンでこの値段はとても安い。良心的すぎるお値段だ。
「そんじゃあ、まぁ、午後からも頑張ってな!」
「また来いよ。頑張ってるアンタにはサービスしてやるから」
ヒラリ、と手を振ってくれる萩さんと優しい目でこちらを見つめる松田さんに頭を下げて礼を言う。
「ありがとうございます! 絶対また来ますね!」
浮かべた笑みは心の底から滲みでたもので、曇空のように翳っていた心は晴れやかだった。
鈴の鳴る扉をくぐって、広がる青空を見つめる。
「よし、頑張ろう!」
ぐっと伸びをして外の空気を吸い込むと、ひやりと冷えた空気がいっぱいに入ってきたが、もう寒いとは感じなかった。
終
みてくださった方々、本当にありがとうございます!!!また喫茶店パロでかけたらいいなと思いますのでぜひみにきてくださるとうれしいです!!!