行き場がなく、そろりと掛布団から抜け出した脚は、即見咎められて、するりと絡め取られて布団の中に逆戻りだ。
平均より随分と大きいその体躯に合わせて仕立てた布団でも、大男が二人も寝ていては寝返りさえ満足に打てない。
そもそも、寝返りを打てる状態ではないのだけれど。
絡んだ相手の脚先は、外気に冷えた自分のものに絡まってじんわりと熱を移してくる。
先程まで散々身の内を焦がしていたような熱ではなく、微温湯のような、確かに生きている人の温度を。
「ぁ、」
普段なら大したことではない接触も、しかしつい先程まで散々暴かれて弄ばれた後の肌には過ぎた感覚で。
ほろりとこぼれた吐息に、くつりと後ろの男が喉の奥で笑ったのが分かった。
「逃げてェか」
「そ、んなつもりはないんですけど」
逃げるつもりはない。逃げたとして、どこに逃げればいいのだろう。心も何もかも、とっくに自分の手からは離れてしまって、ここにいたいと叫んでいるのに。
よしんばこの男から逃げるとなった時、果たして自分は一体何を抱えて逃げられるのだろう。自分の手元に、残っているものはあるのだろうか。
でもきっと、今抱えるこの思いを吐いたところで、後ろの男は一笑に付して終わるだけだろうから。今を生きるのに手一杯なのに、心配するのが先の事ァ随分余裕があるじゃねえか、なんて。
だから何も言わず、振り返りたいのだと言外に身動ぎすれば、腹の前に回されていた拘束が緩まった。
もぞり、と肩にかけられた布団を抑えながら向きを変える。
振り返って飛び込んできたのは、相変わらず整った男盛りの精悍な顔で。
部屋の隅に置かれた行燈の灯が、俺を見詰める男の顔に影を落としていた。
その長い睫毛に、よく通った鼻梁に。この人の、この姿を見たことがある人間は一体どれほどいるのだろうか。
この男の色香に惑わされてしまった、哀れな蝶たちは。
「ぬくいですねえ」
情交の色香を残して少しはだけた胸元に、そっと掌を寄せた。
とくり、とくりと血潮が廻る音に、何故か分からないけれど酷く安心して、さらに頬を擦り付けた。
「随分甘えてくるな」
「たまにはいいでしょう」
向きを変えたことで顔にかかってしまった藍鼠の髪が、男の武骨な手に掬われて、耳にかけられたまま指がするりと耳朶をくすぐった。
「ちょっ……! もう、しないですからね」
「分かってる」
慌てて顔を上げれば、思いもせず優しく見つめる顔があって、至近距離で見たそれの破壊力に顔に熱が集まった自覚があった。
錯覚しそうになるから、その顔はやめてほしいのだと。そう口にしたら、もうこのあたたかい時間は無くなってしまうのだろうか。
こうしているのは、忙しいこの人が廓に行けない間のただの代わりで。俺はただ、その代わりに選ばれただけのはずなのに。
まるで本当にこの人から執着を受けているのだと錯覚してしまいそうな――そして、それを望んでしまっている自分が嫌になる。
それもこれも、すべてこの人が悪いのだ。
丁寧に、己の大切を扱うように自分を抱いて見せるから。きっとそれが、この人の閨での作法で、誰に対してもそうしているのだろうけれど。
ならば、少しくらい溺れて見せたほうが、それらしくなるんじゃないかと。少しくらい、仕返しをしても罰は当たらないのではないかと。そう思って見せた甘えは存外お気に召したらしい。
「それくらい可愛げがあるほうが好い」
「は……」
自分より大きい男を捕まえて可愛いだなんて、この人仕事に精を出しすぎてとうとうおかしくなったんじゃなかろうか。……そして、それを嬉しいと思ってしまった自分も。
いや、きっと二人ともこの空間に酔っているのだろう。二人の声以外に音はなく、小さな部屋の、さらに布団の中の僅かな空間に囲まれた二人きりの世界に。
だから、拙いと思う暇もなく口から零れてしまっていたのだ。
「……としぞう、さん」
その言葉に、僅かに瞠目した顔を見て、自分がしでかしたことの重大さにサッと血の気が引いた。
「あ、」
けれど、すみません、と謝ろうとした口を掌で塞がれて、柔らかい声で「はじめ」と呼ばれてしまったから。
今度こそ我慢できず、再び顔を逞しいその胸に埋めることしかできなかった。
後にも先にも、きっとこれきりだろう。
もうこの男の名前を呼ぶことはないだろうし、この男が俺の名前を呼ぶこともない。
ただ、今この微温湯に浸っていた想い出が残るだけだ。そして、いつも通りの日常が繰り返される。
油が尽きそうなのか、弱くなった行燈の灯に、先程まで散々好き勝手されていた身体が疲労を訴え始めた。やはり、とくりとくりと響く心の臓の音に、酷く安心する。
ああ、でもいつか。自分が殺されてしまいそうなこの微温湯を振り切って、逃げなければならない刻が、来てしまうのだろうか。
うとうとと、意識を攫いに来た眠気に思考を明け渡す直前、夜更けの、未だ情交の空気が色濃く残る部屋に、静かに声が落とされた気がした。
「もう、手前を手放してなど、やれるものか」
ー了ー