グリーン、アローラに行こう、とレッドからご丁寧に呼びかけつきで誘われたとき、グリーンは驚かなかった。
実のところ数日前にリーグの馴染みの職員から「先日アローラからレジェンド枠でレッドさんへのお誘いがありまして、まあ無理だろうなと思いながらも一応連絡させてもらったんですけど、なんと、なんと了承を得られたんですよー!」という歓喜の一報をもらっていたからだ。どうやってやつに連絡したのだろうと思わなくもなかったが、自分からあの放浪癖持ちに連絡することをとうにあきらめていたグリーンはその思考をすぐに投げ出した。通信の向こう側でリーグスタッフはまだ話しつづけていて、やがて、レッドが話を受ける条件のひとつにグリーンも連れていくことを挙げていたと知れた。それをきいた先方は渋るどころか喜んでいたそうだ。レジェンド枠とかいういかがわしい響きのものが本当ならば、元チャンピオンは何人いてもいいということなのだろう。
あのレッドさんが、まさか、と鼻息荒い職員の声をききながらグリーンはふんと鼻を鳴らした。世間がやつのことをどれだけ清廉潔白で高尚な存在だと思っているか知らないが、付き合いの長いグリーンには彼がなにを考えているのかすべてわかっていた。もともとポケモンへの想いだけで生きているような男だ。それが、まだ見ぬ土地への旅を提案されて、しかも費用はすべて相手持ちで、さらにさらに親友兼恋人――曲がりなりにも――を同行させることまでできるとなったら、それはもうためらわずに受けるだろう。世の中のほとんど全員に俗世を離れた修道の堅物と思われていようと、本質的にレッドとはそういう男なのだ。むしろ他人の金でアローラに行けるなんてラッキー程度に考えているはずだった。なにせアローラにはカントー出身の自分たちにとって目新しいポケモンがこれでもかといるのだし、隣にはグリーンがいる(という予定を立てているはずだ)。
「いや、むり」
ごめん、むり。うん、むり。どれにしようか一瞬悩んだものの、結局そういう返答に落ち着いた。一方的な誘いを断るのに「ごめん」と言うのはグリーンとレッドの関係においてはやや過剰だった。反対に「うん」などと一度でも付けてしまうと、レッドはそこで期待してしまうだろう。そのあと「むり」で落とすのはさすがに心もとない。
なぜ、どうして、なんで。……帽子の下のふたつの瞳が雄弁に語っている。グリーンははあと息をついて甘えざかりのイーブイを抱き上げた。
「……気胸やったんだよ。飛行機、乗るなとは言われてないけどあんま乗らないほうがいいとは思うから」
レッドの放浪癖が数年間ずっと途切れなく発揮されていたころだった。ジムの大掃除に全員でかかっていて、何年触っていないのかわからないようなダンボール箱を移動させた直後、急に胸が痛み息苦しいと思ったら肺に穴があいていた。さいわい軽症で、自然に治るのを待つのがいちばんの薬だと言われ、そのとおりに安静に過ごしていたらじきに回復した。
だが次があれば手術を視野に入れるとも言われた。
「まあイケメン病って言われてるくらいだからな。おれさまが罹らなくて誰が罹るって話だろ?」
「そうなんだ」
……そうなんだってなにが? グリーンはもう考えることをやめた。
「……そうなんだよ」
「それはつまり、気圧の変化とか、そういうものがきみのからだによくないってことだよね」
「よくないことが起こるかもしれないってことだな」
「旅とか、そういう、事情をよく知ってるお医者さんから長く離れるようなこともやめろって言われてる?」
「いや。むしろそういうのは、あんまからだのこと気にしすぎず人生を楽しめって言われてる」
「平面の移動は問題ないわけだ」
「よっぽど負担のかかる過激な動作じゃなけりゃな」
肺に穴のあいた経験を共有する同志のなかには果敢に飛行機に挑戦して無事帰還した者もいるらしい。ただ、グリーンは自分の肉体を懸けてまで大げさな移動をするつもりはなかった。呼吸をしてもしても空気を取り込めないあの不安をできればもう二度と味わいたくはない。自分自身の動揺もそうだが、むしろ周囲の慌てぶりが心に苦く残っている。ついでに同じく気胸経験者らしいヤスタカがひとり冷静にそれっぽいことを言ってくるのも腹立たしかった。
そういうわけで、グリーンは飛行機に乗るつもりはないのだった。
「そうなんだ」
さほど長くはない沈黙のあと、レッドはそう言った。わかってくれたか、ひとりで行けよ、どうせいつもひとりであっちへふらふらこっちへふらふらしてんだから……ひらきかけた口はそこで止まる。
「じゃあ、船でいこう」
グリーンはぐっと仰向いて抱え上げたイーブイのふかふかの腹を顔にのせ、はあー……と盛大なため息をついた。