グの気配がないレグリ(モブ女子ちゃんとレ)
ナンパされた。
「あのね、これはナンパなんだけど」
そんな言葉からはじまったので、たぶんナンパなのだろうと思う。なにがどうナンパなのかと問われたらレッドにはよくわからないが、レッドを食事に誘った本人がそう切り出したのできっとナンパなのだ。
「お腹空いてるでしょ。なにか食べにいかない? 奢るから」
たしかに空腹ではあったのでほいほいついていくことにした。レッドをナンパしてきたひとはレッドよりいくつか年上らしく見える女の子で、気のつよそうな眦と、肩の上でさらさらと揺れる髪の毛が誰かに似た色合いをしていて、ちょっといいなと思った。奢りという言葉はもっといいなと思った。片手の指程度の年齢差があるとはいえ、なんといってもレッドは男でそのひとは女の子だったから、危険ということもなさそうだった。
レッドがひとりではなかなか入らないだろうおしゃれなカフェの一席についたあと、彼女は自分のことを女子大生だと言った。まるでなにか、ポケモントレーナーです、ジムリーダーです、とでも言うような、なにかの肩書のように。しかも「怒れる女子大生」なのだとわざわざ要素を付け加えた。なにかに憤慨しているらしい。
怒れる女子大生は、あなた若いんだからたくさん食べなきゃ、なんでも食べたいもの頼んじゃいなさい、と頼もしく促してくる。レッドは遠慮しなかった。注文をとりにきた店員にオーダーを重ねるレッドのうしろで彼女はいいぞいいぞと声をあげていた。昨日バイト代の入った私に怖いものはないんだからと財布を振りまわす。変わったひとだなとようやくレッドにもわかってきた。だが変わったひとの相手は得意だと自負している。気にもならなかった。
料理を待つあいだに彼女の愚痴をきくことになった。どうやら彼女は恋人とうまくいっていないらしい。
彼女の恋人はふたつ年上の大学生で、将来はポケモン関係の仕事に就くことを目標としていて、中学生のころからポケモントレーナーをしている。彼女は高校の先輩だった彼のことをずっと好きで、大学に入ってから接点ができて――無理につくりにいったのだと彼女は表現した――そしていろいろとあって付き合うようになった。最初のうちはうまくいっていた。恋人ははじめての彼女の女の子をとてもとても大事にした。しかし、付き合って一年もするうちにすこしずつ気持ちのずれが生じてきた。
「私は彼のいちばんになれないの」
だって彼にはポケモンがいるんだもの、と彼女は泣いた。感情の上下の振り幅が大きなひとだ。けれどもそういうのは苦手ではない。むしろなにかしゃべってなどと下手に話を振られるよりは、好きなように語って泣いて笑ってくれるほうがずいぶん気が楽だった。レッドはたくさん話してくれるひとが好きだ。レッドの反応を窺わずに好き勝手しゃべってくれるひとが好きだ。そのほうが本当に言いたいことを言ってくれているような気がする。相手の反応を求めない、それなら誰にしゃべっても同じだと思うのに、それでもあえてレッドを選んでくれるひとが好きだ。
「……あなたって無口なのね」
ひとりで泣いて、ひとりで涙を拭って、彼女はいまさら気づいたみたいに指摘する。
「慰めの言葉みたいなのも言えないくらい無口なの?」
レッドは肩をすくめて届いたばかりのハンバーグセットに集中した。鉄板がじゅうじゅう言っていておいしそうだ。他人の金で食べる肉はうまい、と昔誰かが冗談めかして言っていたことを思い出す。他人の金でも自分の金でも肉はうまい。
「ポケモントレーナーってみんなそうなんだ」
がつんといきたい気分なのと主張していた怒れる女子大生は、洒落た盛り付けのハンバーガーに果敢にかぶりついた。飛びだして手元を汚したソースを拭き取る仕草がいっそ潔い。ああおいしい、私ここのお店のものはなんでも好きなの、とこぼす一瞬だけ表情がゆるんだのが印象的だった。
「ポケモンへの好きに恋人への好きは勝てないんだ。でもそういうことなんにも言ってくれなくて、私を好きでいてくれてるようなそぶりもするの。私の好きは彼だけに向いてるから、そうしたら私ばっかり好き好きってなっちゃう。こんなの不健全だよね」
彼女がハンバーガーを半分ほど減らしたころ、レッドはすでにメインのハンバーグを食べ終えていた。窓の外を見たり、店内で語らう女性ふたり組を見てみたり、氷の溶けかけた水を見てみたり、彼女の意識は散り散りになっている。うつむいて前髪の下に隠れていた瞳がふとレッドをまっすぐ見据えた。
「あなたポケモントレーナーでしょ?」
頷く。
「だよね。さっき見てたの、ポケモンセンターから出てきたところ。ピカチュウを肩にのせてた」
ピカチュウの入ったモンスターボールが腰のところでかすかに揺れた。フォークを手放したレッドは指先でボールの丸みをなぞってやる。
「だからあなたをナンパしたんだもの。恋人は年上だから、たまには年下もいいかなって思ったし。……ねえ、慰める言葉がわからないなら、せめて私の浮気を手伝ってくれない?」
「いやだ」
「うわっびっくりした。あなたしゃべれたの」
曖昧に頷くレッドの前で彼女が頬杖をつく。行儀の悪さよりもアンニュイな空気のほうが勝って不思議とこの情況に似合っていた。誰かに似た色の髪の毛が右肩に片寄っていく。窓から差し込む光をはじいていっそう明るい毛先が黒い服の上で跳ねた。
「どうして? 私、魅力的じゃない?」
「かわいいと思う」
「うわっまたびっくりした。そういうことはちゃんと言ってくれるんだ。意外……」
「でも、好きな子がいるから」
「こっちが好きなだけならノーカンだと思う!」
「だめだよ。その子もぼくのことが好きだから。それこそ不健全だ」
「はー? この幸せ者め! 裏切り者!」
彼女は腹いせのようにハンバーガーにかぶりつき、そのひとくちの大きさはレッドを驚愕させた。具だくさんのハンバーガーはそのまま彼女の腹のなかに消える。前半の意識の散漫さが嘘のような夢中の平らげ方だった。付け合わせのポテトもきっちり完食して油っぽい手指をナプキンで拭ったところで、怒れる女子大生の「がつんといきたい気分」の表明は終わった。
「慰めの言葉もなくて浮気の手伝いもできなくて、じゃあもうあなたにできることはひとつだね。……ピカチュウ、触ってもいい?」
レッドはピカチュウを呼び出した。ずっと人間たちの会話をきいていたのだろう聡明なピカチュウは、彼女のおずおずとした「おいで……?」に応えてそのぎこちなくひらかれた両腕のあいだに迷いなく飛び込んだ。ナナミの存在を筆頭に女性に対していい思い出しかないこのピカチュウは、もとより女性への期待度が高い。機敏な動作は満更でもない気持ちのあらわれにちがいなかった。
やわらかな毛皮の感覚に、抵抗もせず撫でられる従順さに、なによりいやがりもせず自分のもとへ来てくれたことに、彼女はひどく安心したようだった。ピカチュウをぎゅっと抱きしめたかと思うと、なぜかまた泣きそうに目を細めてぴんと立った長い耳のあいだに顔を埋める。やがてくぐもった声がきこえてきた。
「私が怒れる女子大生なのは、彼に怒ってるからじゃないの」
ピカチュウはされるがままになっている。耳の先がぴくぴく動く。
「彼の大切なものを彼と同じくらい大切にできなくて、自分が自分がってなっちゃう自分に憤ってるのよ」
そんなことは当然なのに、どうしてそこまで思い詰めなくてはならないのだろうとレッドは思う。相手と自分がちがういきものであるかぎり同じものを同じように感じることはできないのに、それを恥じる必要もうしろめたく思う必要も全然ないのに、泣いてしまうほど悩めるものなのだろうかとちょっとびっくりする。レッドの大切なものとレッドの好きな子の大切にしているものはちがう。重なる部分もあるし、昔はその部分が大きかったけれど、いまとなっては重ならない部分のほうが多い。でもそれでいいと思っていた。好きな子の大切なものの大きさや範囲の広さ、豊かさをレッドは尊重し、好きな子の生き様そのものとして尊敬した。すこしずつちがう道をたどって成長した彼の視野の広さは称賛すべきものだった。
だけど、自分の感情がままならないことがあるというのもそれはそれでひとつの真実なのだった。
そんなふうに自分自身がままならなくなっているとき、レッドと彼はたいてい離れたところにいて、翻弄される自分を問題にすることそのものがばかばかしい環境にあった。レッドは孤独に身を置くことで、彼は人のいる場所に馴染むことで、その嵐をやり過ごした。そういうやり方を身につけてしまった。自分の問題は自分で片付けることだけがいつでも正しいのだといつの間にか信じ込んでいた。
もしかしたら、そうではなかったのかもしれない。
「……さみしいって言われたら、飛んでいくよ」
勢いよく顔を上げた彼女の瞳から大粒の涙がぽろりとこぼれ落ちた。ピカチュウの頭を濡らしたのを見て慌てて袖口でこする。なんともいえない鳴き声をあげたピカチュウはされるがままになっている。黄色の毛並みを必要以上にこすりつづける彼女はなぜかすこし恥ずかしそうだ。
「それって不健全じゃないかな?」
「誰彼構わずナンパするよりは、たぶん」
「うーん一理ある……」
「ごちそうさまでした」
レッドは両手を合わせて軽く頭を下げた。トレーナーの動きにさといピカチュウが彼女の腕を抜け出して戻ってくる。そのあとの右肩の重みは慣れたものだった。
「ナンパしてくれてありがとう」
そして立ち上がった。いますぐ店を出てリザードンを呼び出さなければならなかった。彼は絶対にそういうことを口にしないから、さみしいなんて言われていなくてもこっちから飛んでいくのだ。彼はちょっとだけ驚いて、いかにも自分の日常を邪魔されて困るかのように面倒がってみせて、そして仕方なさそうに笑うだろう。