ちょっとだけ早いけど始めます。
新しくやってきたフードプロセッサーは10万マドルもするため、納品の際は寮長が立ち会うようにと言い含められた。
それが、本当のところ嬉しくなかった。
そもそも、購入を決めたのは自分だったくせに。三年生に(というよりも、トレイに)、助けられっぱなしでは今後の寮運営にも支障が出る。何といっても手作りのケーキの美味しさをみんなが知ってしまったのだから。
気持ちは分からなくもない。トレイのケーキは絶品だ。僕だってそう思う。だから、あまりそのことをよくわかっていない寮生が未だに多いのは少しばかり問題だと思ってしまうくらいで。
お菓子作りの練習をしようと思ったのは、そう言った意識が少しでも変わればいいなという気持ちもあったからだ。お菓子作りは甘くない。新学期当初に一人で作った時も大変だった。レシピ通りに作ったけれど、隠し味で失敗してしまったしょっぱい変な味のケーキ。まぁ、大笑いされたけれどあの雰囲気は決して悪いものではなかったから、きっと、総合的に考えればよかったのだろう。
フードプロセッサーがあれば、下ごしらえやちょっとした作業が楽になり、お菓子自体も美味しく作りやすい。成程、それはその通りだと思った。これからますます忙しくなるだろうトレイに負担をかけるのも忍びなくて、請われるがままに購入を決意した。
「我儘だな」
本当に、困るくらいに僕は我儘だ。
必要なのも分かっているし、それがあれば作業もずっと楽になる。決して手作りが伝統というわけではないけれど、負担にならない範囲で残していっていいものだと思えた。
けれど、いざフードプロセッサーが届くと聞いて内心で悲しく思う自分がいた。トレイが楽をするのがいやだとか、他の寮生がお菓子を作るのが嫌だとかそう言うことではなくて、それが届くということは、トレイや他の3年生が卒業に一歩近づくということを理解せざる得なくて。
要は時間の経過を実感するのが嫌なのだ。時よ止まれなんて美しい魔法は存在しないというのに、それを願いたくなってしまうのだ。
離れがたいのだ。離れたくないのだ。
ケイトが、3年生の先輩方が、羨ましくて仕方ない。たかが一年、されど一年。トレイがいなくなった後の時間を過ごすのが、どうしようもないと分かっているのにリドルは寂しいのだ。
―――でも、これは、酷い我儘だということも分かっていて、我慢すべきことだというのも、リドルはよくわかっていた。
夜のキッチンで料理をしてはいけないという法律はない。休日に関しては女王の法律は一切関与しない。何故ならば、休日だから。
何代前の寮長が作ったのかは知らないが(もしかしたら、ハーツラビュル寮ができた当初からかもしれない)、融通の利くことだと感心した。以前の自分は、どうして休日だけ法律を緩めるのか、規律が守られないことで不具合が出るに決まっているのにと不満にさえ思っていたけれど、今ならばわかる。
息抜きというか、普段守っているからこそ、緩める必要もあるのだ。厳格を貫き通すことだけがすべてではない。ルールを守ることが絶対に正しいわけじゃないのだ。……それを知ることができたのも、たくさんの寮生の支えがあっての事だったけれど。
新しいフードプロセッサーは、使用時に片付けまで責任をもってできるようにと貸し出しの帳簿がついている。寮生は必ず記入するようにと言い含めているためか、帳簿の記入欄は意外と多かった。もうすでに大活躍らしい。
役立っているのが目に見えて喜ばしい反面、やはりリドルの心は暗くなってしまう。
小麦粉に卵、砂糖にバター、バニラエッセンスを少々。
フードプロセッサーはあっという間に混ぜてくれる。前の時は時間がかかって、こんなにも大変だったのかと愕然とするほどだったのに。温めていたオーブンに生地を放り込んで、焼いている間に片付ける。こういった効率の良さはトレイを見ていて学んだものだった。こうすると良いと、言葉ではなかなか言ってくれないのだ。言わないくせに、どんどん自分の代わりに露をはらい、草をはらい、道を歩きやすくしてくれている。
だからこそ、リドルの我儘で引き留めてはいけないと思った。
焼きあがったらあと少し。シンプルなクッキーは思ったよりも甘くて、やはり砂糖の括弧書きの適量にしてやられたな、とぼんやり思った。バニラエッセンスも香りすぎている。
「…キミがいるのに、中々思うようにはいかないものだね」
箱に戻されたフードプロセッサーにそう声をかけた。2年生が『値段を忘れないようにフードプロセッサー君と呼ぼう』とふざけていたのを思い出したのだ。声をかけてみたのに、なんだかますます悲しい気持ちになるのはどうしてだろうか。
熱が冷めたら袋に入れる。随分と夜も更けてきたけれど、月が明るいから大丈夫だと思った。
満月の夜には、悪いことを浄化できるという。
昔ながらの言い伝えだ。新月には新しいことを始められる。満月は悪いことを浄化できる。
おそらく、月の光があまりにも強いからそう思えるのだろう。
今日が休日でよかった。流石に就寝時刻を過ぎて出歩いていたら寮長としてよくない。
リドルは月の光が一番明るく差し込む庭園へと足を延ばした。夜の空気は昼間とは違ってひんやりとしてどこか寒々しい。動きやすいようにと寮服の上着を部屋に置いてきたのは失敗だったかもしれない。
でも、少し寒いくらいの方がいい。その方が気持ちが引き締まる気がするから。
包まれたクッキーを膝の上に載せる。月の光を見上げながら、かしり、と一口かじった。甘い上にバターの量が足りなかったのか硬い気がする。その味がまた、リドルの我儘な心を咎めているような気がして、なんだか泣きたくなった。
だって、仕方ないじゃないか。本当は今のままがいいなんて、無理に決まってる。
同じ学年になれたら、なんてありもしない願望なんて抱くだけ無駄だ。生産性がない。
それに、同い年だったら、きっとトレイはこんなにも僕を甘やかさなかったとも思う。エースの言う『甘やかし』には、きっとリドルがトレイより年下なことも関係しているのだ。本当に、ケイトが羨ましい。同じ学年で、同じ早さで、同じように時間を過ごしたかった。1年という時間はあまりにも遠い。
行かないでなんて、そんな権利も何も持たないリドルに言えるわけがない。言ったところで困らせるだけだ。
分かっているのに軋むように胸が痛む。その理由に、リドルは気づいてしまった。
―――恋というものが、リドルの心で産声を上げてしまったのだと、分かってしまったのだ。
分からなければよかった。年上の幼馴染がいなくなることへの寂しさだとそう思えていたらよかったのだ。そうしたら、『君がいなくなるなんて寂しいね』くらいのこと、平気な顔で言えた。なんなら、冗談にだってできたかもしれない。
分からないままでいたら、『恋とはどんなものかしら』なんて顔をしていられたら、そうしたら、こんなにもリドルは苦しまなかった。悲しまなかった。
この感情を乗せたまま『寂しい』なんて言ってしまったら、きっとトレイは気づいてしまう。
気づいて、悲しむだろう。そして、リドルよりもっと『こたえられない』ことに傷つくに違いないのだ。
迷惑だと言われるにしろ、冗談だろうと流されるにしろ、きっと、トレイは気にする。そういう男だ。自分が悪いように見せる癖に、何処までも優しい。そういう、人なのだ。だからリドルは好きになったのだ。優しいだけの人じゃなかったから、悪戯もして、揶揄いもして、けれども何かあったらすぐに後ろからついてくるリドルを気にするような、そういう人だったから、リドルは恋をしてしまったのだ。
ああ、本当に厄介だ。アズールから聞いた恋をして泡になったというお話も、ヴィルが片手間に話した狂って踊り続けたという話も、ありえてしまうと思うほどに重苦しく、痛々しいのに捨てられない。それが恋というものなのだ。
もはや意地だ。そう思いながら、あまりおいしくないクッキーを貪る。飲み物があればよかったと思うが、すべて後の祭りだ。休日ということもあって、寮の中からは微かに寮生たちの盛り上がった声が聞こえてくる。ゲーム大会だと騒いでいたのは1年生だったか。部屋にそれぞれが入り浸って大騒ぎでもしているのだろう。
南側のこの場所は、庭が近いために寮生の部屋が少ない。それも都合がよかった。きっと、渋面を浮かべてクッキーを食べていたら何を言われるかわからない。代わりに食べましょうかなんて優しいことを言われても困る。
これは僕の感情をそのままにのせたものなのだから、僕が食べきって『消化』してしまわなければいけないのだ。
満月は悪いものを浄化する。この恋さえも『悪いもの』なら浄化してくれるに違いないのだから。
息が詰まる。口の中に詰め込み過ぎたのだ。だから、苦しいのだ。息苦しくて仕方ないから、眼までちかちかと痛むのだ。
「ゲームするんですよ!」
そう大騒ぎている1年生に触発されて、2年も3年も談話室やそこらの部屋で騒ぎ始めている。休日に関しては法律は多少緩めてもよいという昔ながらのお達しがなかったら、きっとこうはならなかっただろう。逆に、普段の法律を守る厳格さがあるからこそ、羽目を外せるのかもしれない。
「トレイ君はいかないの?」
もうすでにマジカメにいくつかの投稿を済ませているケイトは楽しそうに笑う。トレイはなんとなく、首を振った。
「いや、やめとく」
「そう?後で来たくなったら、いつでも言ってね~」
ひらっと手を振ってケイトは歩き出す。なんとなく、リドルが心配だった。ここ数日、暗い顔をすることが多かったから。
フードプロセッサーが来たあたりからのように思うのだが、あの購入自体はリドルも納得していたし、むしろ積極的に購入を進めていたからおそらく原因は違うのだろう。
まぁ、心配なんてただの言い訳で、俺がリドルに会う口実が欲しいだけなのだが。
それにしても、寮生が騒いでいるせいで普段よりも灯りが明るい。窓から見れば満月が浮かんでいるのに、この分だと気づく奴はいなさそうだった。
ノックは二回。これも慣れたもので、もしかしたら渋面のリドルが出てくるかもしれないと紅茶の用意もしておいた。しかし、いつまでたっても返事がない。もう寝ているのだろうか。腕時計の時刻はぎりぎり就寝時刻前を指している。
「リドル?」
ドアを押せばあっさりと開く。けれど、部屋の中は真っ暗で人気もない。珍しい。
もしかしてエースたちにでも誘われたのだろうか。そう思って談話室へと足を向ける。いるのだったら、一緒にお邪魔して、そのままリドルだけ回収してしまおう。そんな打算も少しだけ。
1年の差は意外にも大きい。今でこそ、内外をしっかりと押しとどめているが、自分がいなくなった後が心配だった。ただでさえ、最近のリドルは穏やかになっただの、薔薇が咲いただのと騒がれているというのに。穏やかなのは昔からだし、薔薇なんて最初から咲いている。ただ、棘や茨の部分が全面に押し出されていただけだ。正確に言うと、良く見もしない連中が棘や茨に引っかかって文句を言っていたにすぎない。
月明かりが何かに反射した。
「?」
窓から見下ろすと、見慣れた紅色の髪が見えてひゅっと息を呑んだ。月明かりの下でリドルが座り込んでいた。まだ夏場とはいえ、夜は冷える。そのまま自室へ取って返すと、上着をひっつかんで外へと飛び出した。周りの寮生に見つからなかったのは奇跡に近い。
「月光浴か?」
声をかければ大きく肩が跳ねた。驚く姿に喉が鳴った。わざと狙ったのだ。リドルは困ったような、焦ったような顔をしてこちらを見ていた。
「トレイ、」
「窓から見えてな。寒いだろ?」
そういってすぐさま上着をかぶせる。少しだけ指先が触れた肩はひんやりと冷たく、風邪でも引かないか心配になった。
「月見か?」
「そ、う。今日は、綺麗だから」
嘘を吐くのはやはり下手だ。正確には吐きにくいタイミングを狙ったのだが。
目元が紅いのは、泣いていたのだろうか。
「それ、どうしたんだ?」
涙の痕を指摘するのは今じゃない。だからまずは手の上に広げられていた袋を指さす。
「そ、その、月見に何もないんじゃと思って、」
「へぇ、こんなところでカラトリーもなく食べるなんて珍しいな」
「クッキーにカラトリーなんていらないだろう?」
やはりこれもおかしい。トレイは笑みを深めて、さてどうしようかと考える。隣に座り込んだので、リドルを尋問する時間はいくらでもある。
こんな時間に、こんな場所で。―――まさか誰かと待ち合わせでもしていたのか。
「それ、俺も食べていいか」
「っ、だ、駄目だ」
リドルの声が上ずった。成程、鍵になりそうだ。
気分は探偵にでもなったように、リドルを少しずつ追い詰めていく。我ながら、意地が悪い。
「どうして?」
「その、お、美味しくないんだ。甘すぎて、」
これは理由としては弱い気がする。つまり、もっと隠したいことがあるはずなのだ。
「別に多少の失敗は気にしないぞ?」
「そういう問題ではなくて、僕が、食べさせたくないんだ」
「俺も小腹が減ったんだけどなぁ、」
仕方ないと眉根を下げる。リドルは気まずそうに目線を逸らした。隙だらけである。
「あっ、」
「……ふまいぞ?」
言うほど、甘すぎる感じはしない。確かに甘めではあるが、砂糖を塊で入れたような味ではなかった。甘いものが欲しいタイミングながら美味しいとさえ思うだろう。そう思ってリドルを見返すと、その双眸からはぼろぼろと涙がこぼれていった。
「えっ、り、リドル?」
まさか泣くほど嫌がられるとは思わなかったので、思考が止まる。リドルは暫く呆然とした後、小さく、酷い、と言った。
「わ、悪い。嫌だったのか、」
「違う」
トレイが食べた瞬間、愕然とした。だって、そうしたら、僕の浄化できると思ったものが、しなければいけないものが、無駄になってしまったから。慌てたように背中をさする温かな手。その温度にますます涙が誘発される。悪かったと言われるが、そうじゃない。そうじゃないから、困っている。
「満月の夜は、悪いものがなくせるんだ。君のせいで、駄目になってしまった、」
「俺の所為?」
トレイは困ったような、戸惑ったような顔をしている。無理もない。我ながら言っていることがめちゃくちゃだ。
けれど、頬を撫でる指先があまりにも優しいから、縋ってしまいたくなった。ああ、本当に、僕はどうしようもなくトレイが好きだ。
もういいじゃないかと頭の中の僕が言う。浄化するのが失敗したのなら、もう後できることは一つだけ。
―――それは潔く、砕け散ること。
「君のせいで、君への恋が諦めきれなくなるじゃないか!」
そうだ、君の所為だ。全部全部、君の所為だ。
さぁ、言った。言ってしまった。言ってしまったぞ。
漸く口に出せた解放感とこれから来るだろう絶望に身構えていれば、息を呑む音が聞こえて、それから。
トレイの顔が目の前にあって、唇が、触れた。
慌てて瞬きを必死にして涙を散らせば、トレイの顔が見える。普段よりも頬が赤らんでいて、困った顔をしているのに嬉しそうで。
「それは、諦めなくていいんじゃないのか」
しどろもどろの声なんて、初めて聞いた。
終わり! ご覧いただきありがとうございました!