アメヒノ♀ ファーストダンス(仮題)
1時間くらい。イメージはプロローグ。
パーテーションに囲まれたデスクを開かなければならなくなってきた。1人で安穏と、停滞したような時間の流れの中で、目を閉じて、眠るように、静かに、ただただ日々の自分の持前の分だけをこなす。気兼ねする必要も、誰かに阿る必要もあんまりなくて、外部とのやり取りだって要らなかった。
「あなたは、そのパーテーションの向こうから来るものは全部いいものだと思っているでしょう」
憂えるような声で中国さんは言った。
「違うんですか」
返す私の声はどこか子供っぽく響いて、中国さんの綺麗な顔はしかめっ面に変わってしまった。このパーテーションを越えた向こうからは、不思議なものがやってきた。見たことがない資料、見たことがない仕事のやり方、見たことがない商品の説明に新しい商談たち。時にはこちらに従うような恐喝に近い文書を片手に仕事を手放すように言われたこともあったけれど、結局、そのままなにもされることはなかった。
だから、新しくもたらされるものは素敵なものばかりだった。
「ヒノモト!俺の今やってるプロジェクト、手伝う気ないか?」
ブーツの音を響かせてやってきた青年は、人間関係を希薄にしていた私に明るく笑いかけた。まるで恋愛ゲームの主人公にでもなったような気分。恐怖感よりも、好奇心が勝った。
後はもっと単純に、惹かれたのだ。窓からの陽光と屋内の照明をまるごと合わせても足りないくらいきらきらした金髪。一度も失敗なんてしたことがない、自信に満ちた青い眼。
手渡された資料を、少し悩んで、結局やることに決めたのは自分だった。
一目ぼれというものは、厄介である。外見が好みだったから惚れるわけで、そうなると大体の印象がプラスに考えられてしまう。そこに相手を知って、新しい一面を見るとどうなるか。どんどん、のめり込むのである。
新しい友人であり同僚のことを知って、まず思ったのは住む世界が違いすぎるということ。平々凡々に、のんびりと生きてきた私からすればスーパースターの誕生を見るような気分。知れば知るほど、身分違いという言葉が脳裏をよぎった。
大丈夫。憧れなのだ。デスクの隅で、パーテーションに囲まれて、俯いて仕事をする陰気な女なんて誰も相手にはしない。分かっていた。分かっていたけれど、自分に声を掛けられて、自分が選ばれたような気がしたのだ。
そんなわけないのに。
勘違いしないように言い聞かせる。見るたびに誰も彼も目を奪われるような美形だ。好きにならない方が可笑しい。そう。だから、これは憧れ。それだけ。
「お前踊れないの?」
踊りやすいリノリウムの床。照明は最後に見た時よりも随分と進化して、昼間のように明るくホールを照らしている。影になりそうな場所が一つもなくて、飾られた花々が重く甘い香りを放っていた。
緊張で喉が渇く。かといって、度数の高い洋酒で目を回しては洒落にならない失態になるので我慢するしかない。
ヒノモトは息を吐いた。首筋に当たるネックレスの冷たさに、場違いさを指摘されている。
仕立てた服は今までの壁で固まっているためのものとはまるで違った。壁に控えて、にこにこ笑って飾られているための服じゃない。足元の心もとなさも、ぴったりと腰に沿うのも、すべて計算された踊るための服。
低いパンプスよりもしっかりと踵が固定されて痛いくらいの靴。シンデレラはきっと、大変だったことだろう。いや、灰を被ってもお姫様だった彼女なら、もしかしたらこんな痛みも平気だったのかもしれないけれど。
着飾ってみたものの、踊るという考えは正直あまりなかった。ヒノモトの売りは、現在彼女自身が担当している仕事だ。独自に特化したそれを、最近の流行りのやり方に変える。
夜会に参加することも、そういう方向を考えているという対外的なアピールでしかなかった。
踊れたら、なんて考えないわけじゃなかったけれど、奇跡みたいなことがそんな簡単に起こるはずもないので諦めていたのだ。
「一応、レッスンは受けたけど」
明るいホール内に圧倒されていたけれど、それ以上に目が惹かれた。正装に近い恰好をしたアメリックは普段以上に華やかで、間違いなく私の方がドレス姿だというのに負けていた。敗北を感じるよりも、目の前に美形が来たことの方に驚かされて、答えた言葉は随分とぶっきらぼうだった。
「じゃ、踊るか」
「え」
「何だよ。もう予約済みか?」
「そうじゃない、けど」
けど。不安はその言葉にも滲んでいた。入っただけで十分だと思っていた。衆目に曝されて、それでも愛想よく控えていた。これ以上注目を浴びれば、付け焼き刃なのが露呈するだけだ。
いいや、違う。分かっている。喜んでいるのを悟られたくない。年下の男の一挙一動に振り回されている事実と、自分の心情すら思い通りにならないことに焦りを覚えている。
「じゃあ踊ろうぜ。つまんねぇ会話で終わってもあれだろ」
軽く屈むように、ヒノモトを意識して手が差し伸べられた。期待するな。言い聞かせるのもつらい。舞い上がっている自分を馬鹿だな、と小さく笑って、ヒノモトはその手に自分の手を重ねた。
レッスンを受けてよかった。参加することに決めて、まず最初にしたことがレッスンの予約だった。久しぶりの慣れない運動に体は筋肉痛の悲鳴を上げて大変だったけれど、努力の対価がしっかりと払われていることに安心する。
「お前さぁ」
ステップを思い出しながら必死にアメリックの足を踏まないように気を付けていると、ぐっとその手が引っ張られた。脚が変に伸びて悲鳴を上げそうになる。
「そんな恐々踊るなよ」
「待って、足踏みそう」
「踏めばいいだろ」
何言ってるんだこの男は。磨かれた革靴は、踏まれたら困るだろうに。
「誘ったのが悪いことみたいじゃねぇか」
「そんな」
喋りながらアメリックに誘導される。ホールの中心へ、一番目立つところへ。待って待って、と足を踏ん張ろうとするとステップが乱れて、ますます焦る。会話どころじゃない。
「俺がエスコートしてんだから、もっと楽しそうにしろ」
本当に最低な男だ。いや、勝手に惚れたこっちが悪い。完全に責任転嫁だ。
笑顔に見惚れた瞬間、見事に足がもつれた。転ぶかと身を強張らせると、アメリックの逞しい腕が背中に回って、軽く持ち上げられるようにしてターンさせられた。ダンスレッスンの教師が見たらきっと目を回す。滅茶苦茶だ。教本なんて関係ない、と言わんばかりの踊り方。
でも。
「足、踏んでも怒らないで」
「文句ぐらいは言わせろよ」
楽しそうにしろと言われた。それが第一に求められているのならば、応えるべきだろう。
好きな人の要求なのだ。断るなんてどうせできやしない。
『向こうから来るものがいいものばかりだと、』
中国さんの声を思い出す。その通り。良いものしか来ないと思っていた。
恋だって、良いものだって思っていた。こんな、周りを振り回すばかりの男を好きになるなんて想像もしなかった。
まぁ、いいか。愚かでいい。莫迦みたいな恋でいい。
破れても、失っても、撃たれて沈んだって、その価値を決めるのは私だ。
ヒノモトは笑った。深呼吸をして肩の力を抜いて、伸ばされた腕に体重を預ける。アメリックは一瞬だけ目を見開いて、愉快そうに口角を上げた。
スカートが翻る。ターンを何度もされるせいで、周りを見ることすらできなくなった。視線を意識するよりも、もつれる脚を動かすことに必死になる。腕が伸ばされればその先を見て、視線が絡めば笑って見せた。教本よりもずっと近い距離。瞬きの音すら聞こえることに緊張した。照明がアメリックの金髪に反射して眩しい。目が眩みそう。
でも、今は。今は、目が眩んでも、潤んでも、エスコートする男の腕を信じればいい。この一夜はあっという間に過ぎ去って、一瞬の出来事になる。
周囲は今まで一切交流の場に姿を見せなかったヒノモトの姿にあれこれと騒めいている。連れ出したアメリックにもまた、色々と口さがない連中の言葉が向けられている。
何て楽しそうなんだ。まるで子供の遊戯のよう。
誉め言葉ととれるほど甘い考えはしていない。引きずり出したアメリックの手腕を認める一方で、引きずり出されたヒノモトの実力に注目している。好きに言ってくれればいい。この場に出てきたということが大事なのであって、ヒノモトが何を始めるかはまだ誰も知らない。
こんな権謀術数の中で好き勝手振る舞う男に憧れた。並び立つまではいかなくても、追いかけるくらいは許してもらおう。
本当に、我ながら、恋を知って変わってしまった。安寧の日々を捨てて、変化を求めるなんて。
「良い顔」
低く囁く声の甘さに、蓋をしたものが揺れる。態とアメリックのリードを受け流すようにすれば、ますますその顔が楽し気に揺れた。
知れば知るほど、違いを思い知った。どうせ上手くいかないだろう。幸せなエンディングは見つからないし、今がきっと一番の絶頂期。それでも、ヒノモトはしっかりとその目を見つめ返して、自分なりに一番きれいに笑って見せた。
「楽しいから」
仕方ないのだ。
———恋を知る前になど、戻れるわけがないのだから。
はい!大体1時間なんでここで切ります!
ありがとうございました!