フロイド・リーチの場合
「ああ、ショーウィンドウの。ありますよ、他のサイズ。少々お待ちくださいね」
「お兄さん、学生さん? ああ、あそこ。うちの叔父が卒業生なんですよ。いろいろと在学中のことを聞いたりもしました」
「あった、あった。こちらで間違いない? そう」
「でもほら、あそこ。色々な生徒さんがいるじゃない、出身とか」
「私の叔父が在学していた頃も、あっちの国の人とか。あっちって、いや、それはさあ」
「いや別に私はいいと思いますよ。教育の機会の均等化? っていうんですか。やっぱりほら、今はいろいろな魔法士がいるわけじゃないですか。そういうのってやっぱり時代だと思うんですよね」
「でもねえ、あの学校って結構奨学金とか出してるじゃないですか。うちの国の権力者とか卒業生からの寄付とかかなり入ってるんでしょ、あれ。それを獣人属とか、他国の発展に回しすぎるってどうかと思うんですよね。発展どころが、中にはその日暮らしの生活で凌げればいいみたいな感じの輩もいるでしょ?」
「まあちょっと値は張るけど、長く使うものだから。あんまり高価な買い物ではないと思いますよ、個人的には」
「お目が高いですよね、これ広告とかで見たんですか? ああ、そう。いいですよね、これ。この素材で、こういうデザインにするっていうの結構珍しいじゃないですか」
「まあちょっと人は選ぶけども。でも、分かる人に使ってもらえればいいっていうか、そういうブランドかなって勝手に思っていて」
「お兄さん、出身どこなの?」
「……ああ、はい」
「まあサイズはね、あるよ」
「そっかー、イマドキはそういうのもあるんだ。その変身魔法って、学園の先生たちがやってくれてるの? やっぱりナイトレイヴンカレッジの指導員はレベルが高いな。全然ないよ、違和感」
「友達? それは、普通の?」
「そっかー、いやすごいな。偉いじゃないか、わざわざ陸に上がってきて研鑽を積もうとするなんて向上心がある」
「やっぱり、よりレベルが高い教育を求めるっていうのは、これからの社会を生き残る上で大事なことでさ」
「まあサイズはね、あるよ」
「人魚って、努力家だっていうじゃないか。やっぱり偉いよね、呼吸の仕方から勉強してまで陸で勉強しようって思うんだろう? 偉いよ」
「ほらあと、歌声とか。やっぱりお兄さんも歌えるの? ああ、それほどじゃなく? ああ、そう」
「まあサイズはね、ありますよ」
「ほらやっぱりその人魚の努力家なところとか美しさを求めて自分を磨く精神とかやっぱりね人間も、ほら人間にとっても励みになるというか同じ場所にいたら励みになるじゃないか人間の」
「人魚はそういう美しい精神があるから人間と一緒にいる価値があるというか、やっぱり我々も勇気づけられるというところはあるよね」
「まあサイズはね、あるけど」
「そうやっぱり色々な人種がいるべきなんですよこれからの社会っていうのは。だって陸から、ねえ? お兄さん陸にわざわざ上がってきて、だって呼吸も歩き方も、ねえほら、やっぱりそこから学ぼうっていうくらいの、ねえそういう、ほら、そういう人達にチャンスっていうのは均等に与えられるべきじゃない」
「そう、人間の中に溶け込もうとする努力が。そういうのってこれからはやっぱりほら、認めてあげないといけないなって思うじゃないですか我々も」
「我々っていうか、まあ、なんていうか」
「サイズはね」
「そう、やっぱりこれからの時代はそういう、人魚の柔軟な精神が大事というか人魚はほら、繊細だというし繊細な心遣いは我々ほら陸の人間にとっても学ぶところがありますし助けられるところがあると思うし」
「ほら、まあ」
「まあサイズはね、あるんだけども」
「あるんだけど」
「帰られますか?」
「残念。また何か、ピンとくるものがあったら」
「ああ、頑張ってね」
「でも偉いね、ほら人間に溶け込むためにちゃんと、靴を」
「溶け込もうという努力を」
「そういう努力をなー、人間の若い子たちも見習ってほしいと思うんだけどなー」
***
「また第四の推測として、モエギタケ科マドラ属のキノコの一種であるマドラダケの胞子を媒介とした鋏角亜門クモガタ網のダニ亜網の繁殖可能性が示唆されている要因としては、一九四九年から一九五八年の十年間での調査において繁殖可能性が大きいと示された地域の共通点として、ダニ亜網の天敵となりうる寄生虫の繁殖が確認されなかったことにあります。しかし」
 一応は、学園祭なのだ。
 教師陣は「文化部の活躍を」とか「社会に貢献できる将来有望な人材を見つけるための」とか言っていたが、そんな世間様にアピールするほどの自己開示要素を見つけられない多くの生徒たちにとっては、このイベントはあくまでも学園祭なのである。
 しかし一応は他校との合同行事ということで、体育館は文化部のポスターセッション会場へと作り替えられていた。ハーツラビュル寮の気高い寮長による健気な献身のおかげで、バスケ部の活動場所にもなっている体育館はそこそこ立派なポスターセッション会場となっていた。
「こういった客観性のある記録をもってしても、まだマドラダケの繁殖可能地域が拡大したと結論付けるのは早計といえるでしょう。マドラダケの繁殖可能性が示唆されている地域に、調査より以前から他種のマドラ属の繁殖が示唆されて『いなかった』という記録があれば話は別なのですが、あいにくそういった記録は現在発見されていません」
 そう。
 というわけで、一応は学園祭なのである。
「しかし以上の四つの調査記録を検証した結果、そのいずれの記録でもマドラダケの繁殖可能地域が拡大しているという推測が得られたことを加味すると、当初に検討した『マドラダケの繁殖可能地域が年々拡大している傾向にある』という仮説を否定する材料は現状で無いと予想することができます」
 あいにく。
 そんなお祭り気分は、フロイドの双子の兄弟には伝わってきていないらしい。
「以上で発表を終わります。それでは『山を愛する会』への質疑応答へと入ります。どなたか質問のある方はいらっしゃいませんか?」
 フロイドは嘆息交じりに天を仰ぎ、長々とした発表を聞き続けて凝った肩をゆっくりと回す。
 上品な制服に身を包んだロイヤルソードアカデミーの生徒たちは、物腰穏やかに語られた発表内容を困惑しつつ噛み砕いているようだった。チンアナゴの群れのように生徒たちの小首が一様の方向に傾げられている。
「あーあ、もう」
 フロイドは特設屋台で買ってきた林檎飴を揺らしながら、独り言ちた。
「つまんねーの」
***
 発表が終わってから、ジェイドはいつになくご満悦だった。
「たくさんの方に興味を持っていただけてよかったです」
「あ、そぉ。俺は興味持たなかったけど」
「結局のところ、マドラダケの温帯地での栽培に成功するという当初の目的は叶えられなかったわけですが」
「待てよコラ、それってこないだ俺のベッドの下に押し込まれてた土の塊と関係ある?」
「広義ではありません」
「狭義で話せっつってんだよ」
 たった一人のサークルの発表を終えたジェイドは、フロイドから受け取った林檎飴を片手に持ちながら首を傾げた。
「ところで、アズールはどこに?」
「知らね。まーたどっかで油売ってんじゃねーの」
「油を売るって、それまさかそのままの意味ではありませんよね」
「そんなつもりは」
「やりかねないから……」
「あ、言ってやる! アズールに言ってやるー! ぜーったいに情報売ってやるんだー!」
「お口にチャックしましょうね」
「ジェイドこそ胡乱な口にチャックした方がよくね?」
 何のことやら、とジェイドが肩をすくめる。
 学園祭ムードが無かったのはジェイドのポスターセッションの発表だけで、体育館の一歩外に出ると一気に浮ついた空気感に呑まれる。
 こういう空気に呑まれた連中を食い物にするのがアズールだ。得体の知れないルートの顧客がまた増えるのかー、とすでに抜け目のない幼馴染の暗躍を予感しながら嘆息していると、ジェイドが唐突に「んー」と唸った。
「なに? 歌ってんの」
「なんで兄弟と歩いていて、急に歌わないといけないのでしょうか」
「愛でも囁かれてんのかと思って」
「そんな、どこぞの寮の副寮長じゃあるまいし」
「おん?」
 今、双子の兄弟が唐突に先輩を馬鹿にした気がする。
「別にみずみずしくもないですし」
「あ、馬鹿にした」
 疑惑が確信に変わったところで、ジェイドは「いやね」と本題に戻る。本題に戻るまでにいったん他人を弄らないと気が済まないのがジェイド・リーチ氏だ。
「この発表で、もし今回何かしら賞を獲れたとして」
「あ、狙ってたんだ。すげーよお前、マジそれでこそジェイド」
「どういう意図でおっしゃってるんです? とにかく賞を獲れたとして、どうやって実家に報告しようかなと少しばかり思っていたのですけれども」
 フロイドは、一瞬口を噤んで兄弟の瞳を覗き込む。
 自分と同じ光り方をした金色の瞳は、普段と全く変わらず静かに煌めいている。
「まあ」
 その奥に何かしら含みのある色を見出そうと思ったが、それよりも早くジェイドは全てを苦笑で洗い流してしまった。
「手中に収めていない栄光のやり場に迷っても仕方ありません」
「……別に」
 奥歯を、一瞬だけ噛み締めてしまった。
 刹那に飲み込んだその感情が何だったのか、自分で把握する前に消して。
「ふつうに」
 本当は。
 本当はあまり使いたくない言葉を、
「普通に、しろよ報告」
 きっぱりと、声に出す。
「普通にしろ」
 この言葉よりももっとしっくりくる言葉が世界中のどこかに確実にあるとは思っているけれど、海と陸しか知らない自分はまだこんな拙い言葉でしか表せなくて、有耶無耶にしてしまったようでもどかしい。
「……普通にとか、なーんか」
 ジェイドは珍しく間延びした声音で、呟いた。
 その柳眉をきゅっと寄せて、
「似合わない人に言われると、説得力があるんだかないんだか分からなくなります」
「ねーよ説得力」
 あってたまるか。
「ねえフロイド、さっきベッドの下の土の塊がどうのこうの言ってたでしょう」
「は?」
「それ本当は……いや、やっぱり何でもないです」
「なあああああ本当に何!? あれ触るの怖くて魔法で中庭で焼いちゃったんだけど、本当に何だったの!? 俺はあれを燃やしたことによって何か害を被んの!? それだけ教えて!?」
「まあ今日まで無事で生きてきたなら大丈夫ですよ」
「なあああああああああ!」
「大丈夫です。ちゃんと毎晩、フロイドが寝てから指が五本あるか数えてましたから」
「こっそり何の心配してんだよお前はよお! マジで大丈夫なんか!? 燃やしたときに湧いた煙をモロに浴びて大丈夫だったんか!?」
「大丈夫ですよ」
 ジェイドは軽やかに笑う。
「だって僕たち、指が一本減ろうが腕が一本減ろうが、別に何ともないでしょう」
 軽やかに、ジェイドの革靴の爪先が鳴る。
 十数年間一緒に生きてきたのに、地上に来て初めて聞いた――――ジェイドの足音。
「僕たち、数年前まで立つことすらできなかったような存在ですし」
 意外と彼は、ふわふわ楽しそうに歩く。
「どこか崩れても、アズールが完璧に人らしく作り替えてくれますから」
 歩調を早めるジェイドの肩が、小刻みに揺れていた。
 笑っているのだろう。
 いや笑ってんなよ、と思う。
「ジェイド!」
 そんな兄弟の背中に、悔し紛れに言葉を投げつけた。
「今度アズールに、三本目の腕を生やしてもらおう!」
 まだ『普通に』という言葉しか知らない。
 だから、探す。
「そうした方が、お前の実験材料たくさん伐採できんじゃん!」
 他の言葉でしっくりこないか、どうか。
 努めて、探す。
「だから――――」
 どこかにあるはずだから。
 きっとまだ見つけてないだけだから、と世間を信じる特権がある。まだ、自分たちには。
 まだ勉強に専念しているわけでもない。
 誰もがぽかんとするキノコの栽培実験とか、可愛い同級生との追いかけっことか、そういうことばっかりしてるから気付いていないだけで、
「減ろうが増えようが、どうでも」
 だから見つけて、いないだけで。
 探しても他の言葉がどこにもないなんて、そんなこと微塵だって思ってやるものか、と粘ってしまうのだ。
「なあジェイドってば」
「そういえば、フロイド」
 肩越しにこちらを振り返ったジェイドは、訝しげにこちらの足元に視線を落としていた。
「まだ靴、新調してなかったんですか?」
***
 まだ春先の肌寒さが沁みるころ。
「何をしているの?」
「……変温動物」
「へ?」
 中庭の噴水に沈んでいたら、朱色の花弁みたいな小さな頭がこちらを覗き込んできた。
 昼休みである。
 彼がこの時間帯に道草を食っているのは珍しく、更に言えば自分からフロイドに話しかけてくることも珍しい。
 よっぽど気になったのだろうか、噴水に沈んでいる同級生が。
 よっぽど気になったのだろうな。こういうときにシカトできないから、この幼い同級生はフロイドに追い掛け回されるのだ。
「妙なことをする暇があったら、実験道具の片付けを手伝ってやればよかったのに」
「俺にとっちゃ、そっちのが妙なことだかんね」
「はあ?」
 実験。
 実験道具。
「ラウンジの手伝いをしなくてもいいの? 開店時間だろう」
「いーの。俺、拗ねてる最中だから」
「誰に」
『では』
 アズール。
『始めようか』
 ねえアズール、お前それを端折ったのか。
***
「では、始めようか」
 三時限目の授業は、二年生合同での魔法生物基礎学だった。
「始めようか、ではないのですが」
 理系科目を担当している教員に噛みついたのは、教卓の前に立たされて上半身を脱がされているジャミル・バイパーだった。
 別にいじめられているわけではない。その日たまたま日直だったから「あー、誰か実験の手伝いを……よしじゃあ日直でいい、バイパー」と呼ばれただけである。彼はそういう面倒なことを自然と押し付けられる星のもとに生まれている。
「この装置はサーミスタという、細い針の温度計を皮膚に繋ぐことで体温の変化を測ることができる装置だ」
「痛いんですけど」
「この教室の気温は、およそ二十度。しかし、この科目が始まる前には体術の授業があったそうだから、二十七度の外気温に晒されていたということになる。よって外気温に合わせるため、この部屋の気温は空間調節魔法で二十七度に設定されている」
 道理で教室に入ったときから、若干暑かったわけだ。
 デイヴィス・クルーウェルはサーミスタと呼んだ装置の電源を入れながら、淡々と説明を続けた。
「今回、体温の計測をするのは手、足の指、胸、額、首、腕、太腿、ふくらはぎ、背中、脇下とする。人体が体温調節をする機能とは、たとえば何が?」
「……発汗」
 誰も挙手をしなかったので、リドル・ローズハートがおずおずと口を開いた。
 普段は他のクラスにいる彼だが、こういうときに素早く授業を進めてくれるため同じ授業を受けていると大変気が楽である。「誰かが発表するまで先生何も言わないぞ!」みたいな展開にならないから。
「よろしい。では、そこから仮説を立てようか。発汗と大きく関わってくる器官は?」
「心臓ですか。血流が影響されるから」
「それでは人間が恒温動物であることを踏まえて、外的要因による体温の変動が最も低いと考えられる計測場所は?」
「心臓から遠い場所」
 リドルが小首を傾げて、即答した。
「足の指?」
「それでは実験を始めようか」
 人間が恒温動物であるための証明。
 パチンッと、デイヴィス・クルーウェルが指を鳴らす。
「まずは外的要因」
 現れたのは、バスタブだった。
 湯気が濛々と上がっているそれは、まさしく――――
「あ、熱湯風呂だ」
 ぽつりと、ラギーが呟く。
「まじで俺が日直じゃなくてよかった」
「いやいやいや嫌です嫌です無理無理無理!」
 針状の温度計を繋がれたジャミルが、当然のように抵抗した。
「罰ゲームじゃないですか!」
「環境としての外的要因にさらされる前の体温を、まずは記録しておこう。プリントの空欄に今から読み上げる体温を記入しておくように。手が三十二度、足の指が二十度、胸が三十四度、額が三十六度――――」
「無視か!?」
 まさしく無視である。
「大丈夫。これは見た目よりも熱くない。体温よりも高い温度、およそ四十五度の水だ」
「湯っていうんですよそれは!」
「アルアジーム」
 きょとんとして後方の席に座っていたカリムが、突然呼ばれて「うわっ」と小さく声を上げた。
「何だ?」
「お前のユニーク魔法を借りたい」
「いいけど」
「断れカリム! この流れで俺が何かしらまずいことをされると分かるだろうが!」
 パチンッと教師が再び指を鳴らす。
 現れたのは、空のバスタブだった。湯気を立てる水が入ったバスタブと同じくらいの大きさである。
「このバスタブに水を満たせ」
「【枯れない恵み】」
「俺の話を聞け!」
 ジャミルの悲鳴が響く中、空のバスタブがみるみる水で満たされていく。
 クルーウェルがバスタブの水に温度計を浸し、「二十五度」と呟く。
「それではこれから、被験者に体温よりも水温が高い水と低い水に交互に入ってもらう。そのときの体温の変化を計測し、恒温動物の体温調節機能についての記録を行う」
「いや普通に熱湯風呂じゃないですか! あああああもう嫌だ!」
「バイパーを見本として行ったら、次は四人組の班に分かれて人差し指の温度を計測しながら同じ実験をしてもらう」
「じゃあ俺も人差し指だけでいいじゃないですか!」
「誰か、被検体を無理やりバスタブに入れろ」
「ふざけるなああああああああ!」
 にこやかな同級生たちに体を押さえつけられて、ジャミルがバスタブへと引きずられていく。
 そんな幼馴染の様子を眺めながら、ぽつりとカリムが呟いたのが聞こえた。
「楽しそうだな」
 聴かなかったことにした。
 聴かなかったことにした方がいいかもしれない、と思って。
「でも学年の生徒に自分の体温が晒されるって、なんだかセンシティブじゃないですか?」
「は? おいアズール、こいつのこと黙らせろよなんか変なこと言ってるよまた」
「なんで僕が黙らせなきゃいけないんですか、あなたが何とかしなさいよ血縁者でしょうが」
「センシティブ……?」
「スキャンダラスって意味ですよリドルさん」
「たかだか体温が……?」
 四人組を作れと言われて、フロイドたちは当然のように三人で固まった。しかしこの三人組で固まると「じゃあ残り一人の枠に俺が入ろー!」と思う生徒がいなくなるので、三人で組んだ時点でアズールがにこやかにリドルの手を引っ張ってきたのである。アズール曰く「警戒心がなさそうな人を選んできました」とのことで、リドル自身も「まあいいけど……」と特に逆らわずにトコトコついてきたのでアズールの審美眼はそこそこ正しい。
 各グループに配られたのは二つの洗面器で、それぞれ体温より高い水と低い水が入っている。温度計は一つしか配られなかったため、順番に指に取り付けて実験をすることにした。
「誰からやりますか?」
「僕は記録係で」
「あ、一番手から離脱しましたね」
「はい、僕やりたいです」
「ジェイドはこういうときに謎の乗り気になりますよね」
「アズールは手じゃなくて足でやりましょうか、八本もあるし」
「は? 喧嘩ですか?」
「ねえ……やめようよ喧嘩……」
「真に受けないで金魚ちゃん、日常会話だから」
「嫌だ……」
 賑やかにしながら、リドルがジェイドの細い人差し指にサーミスタを取り付ける。
「えーっと、ジャミルさんの結果ちょっと確認しましょうか。高温の水に入ったときの手の体温の変化は、三十二度から最大値が三十六度でしたね」
「そうだね。お湯の温度は四十度を超えていたわけだから、三十六度でとどまってそこから変動しなかったということは体温調節機能が働いていることになる」
「センシティブですよね」
「うるさいですよジェイド」
「じゃあまずは高温の水に指を入れる、と」
「はい」
 謎にウキウキしながら、ジェイドが湯気の上がる洗面器に手を差し入れた。
「というか、お湯の温度がさっきのジャミルさんのときより上がってませんか? 温度計これ五十度くらいになってますけど」
「先生のサービスだって」
「何がサービスだ、生徒をいたぶって」
「でもそんなに耐え難い熱さではないですよ、アズール。温いスープに指を突っ込んでるときみたいです」
「ラウンジの給仕で指突っ込んでるんですか、あなた」
「そんなわけないですねー」
「口の利き方に気を付けなさいよ、ジェイド」
「これ体温の変化を見るまで暇じゃね? ウミヘビくんのときみたいに、暴れないように押さえつけなきゃいけないわけじゃねーし」
「リドルさん、記録が取れたらさっさと次をやってしまいましょう。早く終わらせて休み時間を確保します」
「…………」
「もしもーし」
 アズールに呼びかけられて、リドルはハッと顔を上げた。
 ジェイドの指に取り付けられていたサーミスタで体温の変動を見ていた彼は、大きな瞳をパチパチと瞬かせて困惑した声を上げた。
「えぇと、体温は……変わった、けど」
「体温、何度になりました? 早く記録して終わらせてしまいましょう」
 リドルは困ったような表情のまま、小さく答えた。
「……五十度」
***
「馬鹿なことをしていないで、早く出たまえよ」
 噴水に沈んだままのフロイドに対して、リドルは呆れたように片手を差し出す。
「金魚ちゃんが引き上げてくれんの?」
「同級生が変なことをしているからだろうが!」
「優しいね」
 揶揄するように呟くと、彼はムッとしたように唇を尖らせる。
 でも、とフロイドは苦笑して、
「俺を引き上げられっかな。金魚ちゃん、力負けして落っこちちゃいそう」
「はああああ!? じゃあ掴んでみろ! 引き上げてやるから!」
「あ、言ったね」
 それでは遠慮なく。
 フロイドは差し出された彼の小さな手を取って、ぐっと力を込めた。
「ぅえぁっ」
 ふわっと、その瞬間にリドルの両足が浮いた。
 噴水の縁を軽やかに乗り越えて、リドルの華奢な体がこちらに落下してくる。
「にゃああああああっ!?」
 変な悲鳴を上げながら、リドルが小さな水しぶきを上げて噴水に落ちた。
 ぷはっと水面から顔を上げた彼は、白い肌を真っ赤に染めて「うぐうううう」とこちらを睨みつけていた。
「笑うな、フロイド!」
 あ、今笑ってたんだ、俺。
「金魚ちゃん、ほんとに金魚みてーだね」
「うるさい!」
「冷たい?」
「うるさいと言っているんだよ!」
 明らかに彼の声の方がうるさいのだが、激昂しているリドルにそんな正論を言っても無駄だ。
「ああもう、行くよフロイド! こんな冷たいところにずっといられるか!」
「そんな冷たいこと言わずに」
「うまいことを言ったつもりじゃなかろうね!?」
「いや別に」
 手が。
 リドルの手が、まだフロイドの五指を握り締めている。
「どうして君はそうなんだよ、いつも! 君のことが全然分からない!」
 分からない、と。
 きっぱりと断言するような君だから、俺は。
『分かってますよ、ええもちろん』
 手が、まだ握り締められている。
 フロイドはもう握り返していないのに、まだ繋がっている。
『人魚は努力家で向上心があって、美しい精神の持ち主なんですもんね』
 何もかも知っているはずの学年首席が、分からないと言ってくれることがうれしい。
 リドルは、手を離さない。
「ほら、早く」
 その手はもう、
「行こうよ、もう」
 本物の金魚みたいと何度言っても、やっぱりその手はもう温かいのだ。
「ほら、君の手すごく冷たくなってるから。風邪を引いちゃう」
 彼の手は十度以下の水に浸かっても、すぐに温かくなる。
***
「いらっしゃいませ」
「ああ、ショーウィンドウの。ありますよ、他の色。少々お待ちくださいね」
「お兄さん、学生さん? ああ、そう。うちの息子もね、今ちょうど寄宿舎で生活してるんですよ。いろいろと寄宿舎での生活のことを聞いたりもしました」
「あった、あった。こちらで間違いない? そう」 
「やっぱりね、共同生活っていうのは大変だけど学ぶことも多いじゃないですか。特にこれからは海の中でも多様性の時代だから、やっぱり他の種を排他するというのは時代遅れでさ。昔なんかほら、タコたちの穴倉って倦厭されてたけど、今はそういうのも土地柄で差別してるってことになるでしょう?」
「だからほら、学校って色々な人がいるでしょう。学校で学ぶことって、これからはそういうことなんじゃないかなって」
「私が在学していた頃も、あっちの国の方とか。あっちって、いや、まあ陸の方とかに行こうとする人もいたけども」
「いや別に私はいいと思いますよ。教育の機会の均等化? っていうんですか。やっぱりほら、今は海の国の文化も発展してきてるわけじゃないですか。新興国ですよ、もはや海は。それでも陸の方に行こうとするのって、そういうのってやっぱり時代としてどうかと思うんですよね」
「でもねえ、陸の学校って結構奨学金とか出してるじゃないですか。うちの国の権力者とか卒業生からの寄付とかかなり入ってるんでしょ、あれ。それを獣人属とか、他国の発展に回しすぎるってどうかと思うんですよね。中には、そういうのが目当てでわざわざ陸に進学する人もいるわけでしょ?」
「ああ、これね。まあちょっと値は張るけど、長く使うものだから。あんまり高価な買い物ではないと思いますよ、個人的には」
「お目が高いですよね、これ広告とかで見たんですか? ああ、そう。いいですよね、これ。この素材で、こういうデザインにするっていうの結構珍しいじゃないですか」
「まあちょっと人は選ぶけども。でも、分かる人に使ってもらえればいいっていうか、そういうブランドかなって勝手に思っていて」
「お兄さん、部活は何を?」
「……え、それはつまり」
「まあ色はね、あるよ」
「そっかー、わざわざ二足歩行を学んでまで陸のスポーツをやるっていうのは、やっぱりこう、価値観を広げるためとかそういう?」
「その変身魔法って、学園の先生たちがやってくれてるの? やっぱりナイトレイヴンカレッジの指導員はレベルが高いな。全然ないよ、違和感」
「友達? それは、普通の?」
「そっかー、いやすごいな。わざわざ陸に上がってきて研鑽を積もうとするなんて、変わってますねえ」
「でもまあ、そうかあ。やっぱり、よりレベルが高い教育を求めるっていうのは、これからの社会を生き残る上で大事なことですからね」
「色はね、ありますよ他にも三色」
「それで、陸の学校で学んだことを、将来どう生かしていきたいとかあるの?」
「ほらやっぱり、お兄さんも卒業後は海に戻ってくるわけでしょう? そのとき、陸の学校での経験がうまく評価されればいいけど、イマドキはマイナス面にもなりかねないじゃない。やっぱり、そういう将来設計とか今から計画してるのかなと思って」
「ありますよ、色。三色は、あります」
「ほらやっぱり海に戻ってきたときに、海の中の発展のためにどう生かすかっていうことが重要じゃないですか。海にはまだ、発展途上の文化しかない種族もたくさんあるわけだし」
「そういう種族への貢献のこととかも考えると、やっぱりねえ。今どき、陸で勉強しているようなお兄さんたちのこと、期待しちゃうっていうか」
「ありますよ色は」
「そうやっぱり色々な人種がいるべきなんですよこれからの社会っていうのは。だって陸に、ねえ? お兄さん陸にわざわざ上がっていって、だって呼吸も歩き方も、ねえほら、やっぱりそこから学ぼうっていうくらいの、ねえそういう、ほら、そういう人達っていうのは努力ができる人じゃない」
「そう、人間の中に溶け込もうとする努力が。そういうのってこれからはやっぱりほら、認めてあげないといけないなって思うじゃないですか我々も」
「我々っていうか、まあ、なんていうか」
「色はね」
「そう、やっぱりこれからの時代はそういう、人魚の柔軟な精神が大事というか人魚はほら、繊細だというし繊細な心遣いは陸の人間にとっても学ぶところがありますし助けられるところがあると思うし」
「ほら、まあ」
「あるんだけど色は」
「ああ、これ?」
「毎度あり。それではお会計は、こちらです」
***
「これあげる、ジェイド」
 深夜の零時を回るころ、やっと踏ん切りがついた。
 ベッドに潜っていたジェイドは、小さく声をかけただけでぴくんっと瞼を震わせた。
 ゆっくりと目を見開き、ぬっと立っていたフロイドを目にしても驚くことなく「……これって?」と片手を差し出してくる。
 フロイドが渡したのは、小さな空の水槽だった。
「……こ、れを、わざわざ休憩時間に海まで買いに行ってたんです?」
 ジェイドはきょとんと目を瞬かせる。
「あ、これ硝子よりも軽い素材のやつですよね。広告で見ました。こういう色もあったんだ」
「ジェイドがいつも作ってる雑草の詰め合わせみてーなやつに使って」
「テラリウムね。雑に言わないでください」
 肩を震わせて、ジェイドが笑う。
「これ、わざわざ海まで行って買ってくれたんですか? プレゼントは嬉しいけど、妙なチョイスですね水槽なんて海では使い道もないから商品価値があまりないのに。安く手に入ったでしょう?」
「海では安くてもさあ」
 フロイドは、呟く。
「ジェイドは好きなんでしょ」
 だったら、
「別にいいじゃん、それで」
「……ごもっとも」
 両手で水槽を受け取って、ジェイドは微笑する。
「ありがとうございます。珍しいですね、明日は海が沸騰するかもしれません」
「珍しくねーよ。ねーだろ別に」
 ベッドの縁に腰を下ろして、フロイドはじっと兄弟の瞳を覗き込んだ。
 一言ずつ、噛み締めるように。
「『山を愛する会』代表としての文化研究部門特別賞の受賞、おめでとうございますジェイド・リーチさん」
 静かな寮の自室に、ジェイドの笑い声が転がる。
「将来この功績を、今後の人生においてどう活かしていきたいと思いますか?」
『ほらやっぱり、お兄さんも卒業後は海に戻ってくるわけでしょう?』
「そうですねえ」
 フロイドに問いかけられて、ジェイドは視線を宙に泳がせた。
 十秒ほど考え込んで、彼は軽やかに口を開く。
「この功績を利用すれば、食堂のランチメニューに僕が収穫したキノコを正式に取り入れてくれますかね?」
***
『ああああやだ、もう無理ほんと重力に逆らうの無理たすけて存在を感じたことのない骨が悲鳴を上げている』
『あなたのそういう悲鳴を聞けるなんて、陸にまで連れてきた甲斐がありましたよいや本当に』
『あとで……あとで水に沈めてやる……水に沈めて絞めてやる……ジェイドお前もそうしたいよね……?』
『彼ならさっきスタスタ歩いて浜のカニを捕まえに行きました』
『嘘でしょお!? なんで双子の片方だけがそんなに適応早ぇのお!?』
『割り切り方の違いですかねえ。あの人、歩ければそれでいいくらいの感覚の人ですし。食べられればそれでいい、的な』
『そう……わりとあいつは消費期限切れの食べ物でも普通に食うんだ……』
『地上の食べ物にハマったら面倒くさそうですね。地上の種族は海よりもはるかに何でも食べますから』
『カビとか食わされなきゃ別に何でもいいわ、俺。なあアズールくらいの賢さならさあ、もっと歩きやすさに特化した体のつくりにすることもできたんじゃねえの? 変身した後の俺たちの体』
『まあできないことはないですけど、別にどうでもいいでしょう歩ければ』
『そぉかなあ……なんか授業で苦労しそうな予感が……』
『あなたもジェイドさんくらい軽やかに諦めて、まず手も使って這いずってみたらいいのに』
『ねえアズール』
『はい?』
『別にどうでもいいでしょう、ってくらいの感覚で、けっこー他にも端折った?』
『ええ、端折りましたよ。たとえば体温調節機能とかから弄ろうとすると、内臓のつくりから脳信号まで作り変える必要があって面倒くさいから体温調節はそのまま、とか』
『そっか、アズールは人間になりたいわけじゃないんだね。お前なら、本気でなりたい! って思えば妥協しないで全部やりそうだし』
『間違えないでくださいよ』
 僕はね、と。
 そのときアズールは、彼にしては珍しく強がりも虚勢も見せない淡白な声音をしていたのだ。
『僕は僕が満足する僕になりたいだけです』
 満足。
 その感覚は、イマイチよく分からない。
 だって別にフロイドは、アズール・アーシェングロットという男のことは全部好きだから。
『早く立ってくださいよ、フロイド。別にふらついたままでもいいじゃないですか、ほら掴まって』
『やだ。だって陸で、俺たちくらいの齢で手ぇ繋いで歩いてる奴いねーもん』
『あなた結構頑固ですよね』
 アズールが呆れたように呟いた。
『いいじゃないですか。別に、陸上のスポーツ選手になるわけじゃあるまいし。歩き方なんて、適当で』
「スリーポイント!」
 体育館に、高いホイッスルの音が鳴る。
「前半終了! ナイトレイヴンカレッジ、四十七点!」
 ああ、でもアレだな。
 自分の靴は買わずに出てきてしまったのに、ジェイドのための買い物は最後までこなすことが出来た『フロイド・リーチ』は、確かにちょっと俺が満足できる俺かもしれない。
 丁寧におめでとうが言えた俺も、ちょっとだけ。
***
 その日は、他校との練習試合だった。
 対戦校の監督は試合前にわざわざ来て挨拶をしてくれたけど、ナイトレイヴンカレッジは顧問でも何でもない引率の教員しかいなかったため、まあ治安の悪い生徒たちの中で体面は一番良いだろうと判断されたジャミルが「はい、こちらこそ今日はよろしくお願いします」とかニコニコと挨拶をして、通りすがりのエースに「怖い!」と叫ばれてその爽やかな笑顔のままエースの背中に思いっきりボールを投げつけていた。
「それにしても、ナイトレイヴンカレッジは相変わらず選手の層が厚いですね」
 相手校の監督がそんなことを言っているのが、聞こえた。
「さすが色々な場所から入学生を集めているだけある」
 場所。
 そこで「国」と言わなかった監督が、一瞬だけフロイドの方を向いていた気がした。
 場所か。
 国でも、地域でも、土地でもなく――――場所。
 意図的な揶揄だったら、まだ分かる。
 でもこの程度のニュアンスなら、おそらく相手は刺したとすら思っていない。
「ねえええ、フロイド先輩ひどいんすよジャミル先輩が暴力。俺、今日スタメンなのに」
 どんっと背中に突っ込んできたのは、不満そうな顔をした後輩だった。
 おそらくジャミルに対抗できそうなのがフロイドくらいだと察して、ダメもとで文句を言いに来たのだろう。
「もう俺の肩取れちゃう」
 そう言いながらブンブンと腕を振り回しているので、たぶん文句を言いに来たというかこれは、構ってもらいに来ただけだ。
「あ、そーぉ。取れたら一本食べさせてねー」
「ひーでえ!」
 一年生の身で「練習試合だから」と特別にスタメンに上げてもらった後輩は、不満そうに唇を尖らせた。
 その日の試合形式は、八分間のクウォーターを四回重ねるフルゲーム形式だ。
 練習試合だからなるべくたくさんの部員を選手として出すということで、スタメンに何人かレギュラー入りしていない部員が混ざっている状態でゲームが始まる。
 試合前にジャミルがわざわざフロイドのところまで来て「フロイドがやらないなら一年生に試合出させるけども」と言いに来たが、久しぶりの練習試合だったこともあってフロイドは「あーやるやる、やるからー」と押し切った。押し切ったというか、なんというかまあ、喉に小骨が引っ掛かった程度の「場所」の違和感が背中を押したということもある。
 しかし本来のスタメンでないメンバーが混ざっていても、ナイトレイヴンカレッジは善戦した。
 フロイドが、珍しく第一クウォーターからまともにプレイしていたから、というのもある。
「何をしているんだ! 守るのはボールだろうが!」
 第一クウォーターが終わったあとの休憩の時間に、向こうの監督のそんな指導の声が聞こえた。
「すげ。ちゃんと指導があるタイプの学校だ」
 エースが、結構失礼なことを呟く。
「うちは顧問すら来てないのに」
「放任主義のが楽じゃん、別に」
「フロイド先輩はそうかもしれないけどー」
「いや君もっしょ」
「まあそうなんですけど」
 世界一生産性のない会話だ。
「世界一生産性のない会話をするな」
 ジャミルが、心を読んだのかというくらい的確な注意を飛ばしてくる。
「というかエース、放任云々の前にお前マークマン間違えてたぞ。試合前に四番につけって言ったのに、途中から七番にくっついてた」
「え、四番だっけ俺」
「あーね、四番めっちゃ自由自在に動き回ってたかんね」
「うわーマジか。よくそれで失点が防げたな、うちのチーム」
「「俺たちがカバーしてるんだよ!」」
 その場にいた先輩部員たちから、一斉に同じセリフが飛んだ。
「おい確認しろ、こいつバスケのルール分かってねえぞ!」
「分かってますよ! 二十四秒が経過したら強制的に攻守交替!」
「なんで自分のマークマン忘れてんのに、初心者が忘れがちなショットクロックルールは頭に入ってるんだよ」
「あとトラッポラ、相手がボール持ってるときにむやみやたらにジャンプして止めようとするな!」
「えっ、いやガードするときは飛ばない!?」
「飛んだら着地したときにノーガードだろうが! お前どうせジャンプしても止められるような身長じゃないんだから、ジャンプするんじゃなくて手を上げろ! 視界を塞ぐ、それでガード!」
「あとお前、外側にばっかパス回すよな。オフェンスのときは中にボール入れろよ、中に入れないと得点にならないだろうがよ」
「あと入らないスリーポイントを狙うな! 中に選手いるんだからパスで回せ!」
「手のひらを相手の体に当てるな! お前が見るからに新入部員だから審判も見逃してるけど、二、三回くらいファウル判定になりそうな場面あったからな!?」
「やだあああああああ!」
 エースが爆ぜた。
「監督いねーのにうるさい先輩が多すぎる! やだ! 俺もう怒られるの怖くて何もできなくなっちゃうー!」
「だから四番をマークしてればいいんだよ」
「四番をマークしろ」
「手のひらに四って書いておけ」
 ベンチにいる先輩たちに背中を叩かれて、エースは「……じゃあ四番のことケイト先輩だと思お」と意味不明なことを呟いた。
 体育館に、ホイッスルが鳴り響く。
「よし、後半」
 ジャミルがベンチから立ち上がりつつ、相手のチームを見て「あ」と呟いた。
「エース、四番が交代で引っ込んだ。お前やっぱり十五番で」
「いや変わるのかよ、マーク!」
***
 後半は、相手チームからのスタートだった。
 新入部員こそいるものの、ナイトレイヴンカレッジの優勢は変わらない。試合慣れしたメンバーが多いということもあるだろうが、気まぐれなメンバーが多いナイトレイヴンカレッジの強さは時の運みたいなものなので、今日はものすごく「運」に恵まれている日なのだろう。
 特に、フロイドが後半までゲームに出ている、というのも大きい。
 後半も同じコートの中で新入部員をおちょくっていたい、という邪な気持ち故の集中力だったが、それでも試合慣れした選手が同じゲームに出続けることができるというのは大きい。
「逆サイド!」
 ジャミルの声が、コートを飛ぶ。
 ゴールの真下でリバウンドを取った選手が、その声で慌ててオフェンスサイドの外側にいたフロイドに足元からボールを回した。
 片手でそれを受け取ったフロイドが、ドリブルも入れずノーモーションでゴールに放った。
「え、あ」
 あまりにも遠すぎる距離からのスリーポイントに、フロイドをマークしていた相手の選手が当惑の声を上げた。
「アウト!」
 相手校の監督が声を上げるが、分かってない。
「入るっつの」
 フロイドの呟きと同時に、ボールがゴールネットをくぐった。
 やったあ、とエースの声が響く。その歓喜の声が聞こえた瞬間、
「エースお前はマークマンから目を離すな!」
「マーク何番だ!」
「ディフェンス来るぞ!」
「あああもう! うるさいベンチの先輩がた!」
 ベンチからヤジを飛ばされて、エースがまた悲鳴を上げた。
 即座にボールが相手サイドに流れるが、相手選手は全員が外れると思ったスリーポイントのリバウンドに入っていた。対してナイトレイヴンカレッジは、オフェンスの外側にまだフロイドがいる。
 つまり相手のゴール下に到達するのは、相手の選手たちよりもフロイドの方が早い。
「フロイド!」
 ジャミルが叫んだが、別に言われるまでもない。
 相手選手がゴール下に向かって投げたボールは、フロイドによって阻まれた。パスで回そうかなとも思ったけれど、フロイドのマークは今ちょうど外れている。
 ドリブルでオフェンスサイドまでボールを戻し、
「全員、戻れ!」
 相手校の監督の声を聞きながら、スリーポイントラインよりも遠い場所から思いっきりボールを投げた。
 弧を描きながら、ボールがゴールネットをくぐった。
「何やってるんだ!」
 ナイトレイヴンカレッジの部員たちが沸き上がる中、相手校の監督が声を上げる。
 連続シュートの熱に浮かされた体育館で、監督の声が鋭く響いた。
「何をやってる! 相手は――――」
 あ、
「――――……っ」
 監督の声は、それ以上は続かなかった。
 これは。
「…………、」
 熱に浮かされていた体育館が、静まり返る。
 沈黙は、ほんの一瞬の出来事だった。
 勘違いかもしれない。
「…………、んで」
 しかし監督の声がそれ以上続かなかったというのが、何より雄弁に事実を語っていた。
 相手は、なんだ?
『ああ、あ、あ、やだ、もう無理』
 相手は、なんだよ。
『ほんと重力に逆らうの』
 別に、友人の手にしがみつかなくても立てる。
 手にしがみつかなくても、立てるようになったのに。
『無理たすけて、あああ、あ』
『まあ、僕たち』
 相手は、
『数年前まで立つことすらできなかったような存在ですし』
「なん、で」
 なんでいまだに、こんな。
 靴を買おうとしても、「どうして?」と問われる。
 水槽を買おうとしても、「どうして?」と問われる。
 どうして、と聞きたいのはこっちなのだ。
「なんで」
 どうして理由が求められるのか。
「なん、で。どっちにいても『どうして』って聞かれ、て」
 小さな同級生の手は、温かかった。
 ジェイドは「山」の研究で賞を獲ったら、実家にどう報告すればいい、と自分に相談してきた。
 どうして。
 全部、なんで。
 なんでこんなに、喉の奥に引っ掛かるのか。
「相手は――――」
 その瞬間、ハッとする。
 声は相手校の監督ではなく、至極聞き慣れた声だった。
 さっき自分に肩が痛いと不満を言ったときよりも朗らかな声で、
「相手は、俺らだし!」
 エース・トラッポラは、言い切った。
「相手ボール!」
 その一言で、止まっていた時間が一気に流れた。
 ベンチからの声で我に返る。ゴール下から流れたボールを持った相手選手が、まっすぐにこちらに向かってくるのが見えた。
 足が、自然と動いた。
「あっ、ぇ」
 手を差し出す。
 たったそれだけのフェイントで、相手の選手はバランスを崩した。ボールがコートのサイドラインに弾かれそうになるが、素早くラインから出る寸前でボールを拾い上げる。
 相手はバランスを崩したままだったので、ドリブルで体制を直すくらいの余裕があった。
 ゴール下までボールを一気に運ぶ。相手の選手たちが周囲を囲んで、手を上げてきた。
「そう、これがディフェンス」
 早く覚えようね。
「なんつってな」
 レイアップシュートの体制で飛んだ瞬間に、フロイドはボールの向きを変えた。
「カニちゃん」
 逆サイドに飛んだボールは、スリーポイントラインの外側にいたエースの手中へと吸い込まれた。
 その瞬間、エースはノーマークで立っていた。眼前を遮るものはなく、彼の眼はまっすぐにゴールまでの軌道を見ていたと思う。
 エースが放ったボールは、半月型の軌道を描いて飛んだ。
 ゴールのネットに、音を立ててボールが吸い込まれる。
「……や、」
 その瞬間、エースの口元に笑顔が灯った。
「った」
 そして、
「お……いこらああああ! 誰ださっき『入らないスリーポイントを狙うな』って言った先輩はああああああ! 入りましたけどおおおおお!? 俺ちゃんと入れましたああああ!」
「うるさい!」「うるさいぞエース!」「うるせぇぞ早くディフェンスに回れ!」「誰にマークしてんだお前!」
 怒声が飛び交うコートの中で、フロイドは思わず苦笑を漏らす。
「あーあ、もう」
 ボールが体育館の床を跳ねる音が響く。
 バッシュが床にこすれる音も、
「何やってんだか」
 海では聞いたことがなかった音が、頭の中に響く。
 今はまだ不快ではない音が。
***
「今日ね、誕生日なんですよ俺」
「えー別にプレゼントの催促ではなく!」
「あ、でも催促しちゃってもいいんかな。あ、ダメ? だと思いましたぁー」
「え、案内? ああ、プレゼント代わりに海の店を案内するってのはどうかって?「
「ええー……いや、いいですよ。いらないや」
「え、いや別に興味がないというわけではなく」
 今日は、九月二十三日だ。
「だってフロイド先輩、正直そういうの興味ないっしょ。海の出身だから海が案内できるって、そんなわけないでしょ。だって俺も薔薇の国の出身だけど、地元の博物館とか案内しろって言われたらクソほどつまんねーなと思っちゃうし、さあ」
 だから、と彼は言葉を切って、
「普通に、おめでとうって言ってくれるだけでいいです。普通にさ」
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